vol.108

「PIZZICATO ONE」始動。小西康陽インタビュー。

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小西康陽にとっての10年間と、
ソロ・アルバムの誕生。

90年代、渋谷系ムーヴメントの最前線をひた走ったバンド「ピチカート・ファイヴ」の解散から10年、バンドのリーダーであり頭脳でもあった小西康陽は、意外にもそれが自身初となるソロ・アルバム『11のとても悲しい歌』を発表した。「PIZZICATO ONE」という、これまた驚きの名義でリリースされた今作。その完成までの道のりとは、果たしていかなるものであったのか。リリースからひと月を迎えた小西氏に、その経緯と10年間の心情の変化を訊いた。

とはいえ、フイナムがインタビューを行った時は、すでに小西氏は20本を超える取材をこなしていたあと。食傷気味な質問ばかりでは退屈かもしれないと思い、大胆なサイドチェンジを試みてみたり......。


Photos_Shota Matsumoto


INDEX
1. 『11のとても悲しい歌』が誕生するまで(1)
2. 『11のとても悲しい歌』が誕生するまで(2)
3. ピチカート・ファイヴ解散からの10年とは。
4. UA栗野さんとも30年来の仲!? 小西康陽のファッション遍歴。
5. 今プロデュースしてみたいアイドル、訊いちゃいました。


その瞬間、今回のアルバムはほぼ出来上がったんでしょうね。(小西)

―まずは、アルバム発売おめでとうございます。

小西康陽(以下、小西:敬称略):ありがとうございます。

―今回が小西さん自身、初のソロ・アルバムの発売となるわけですが、リリースまでの経緯を教えてください。

小西:今までの取材では、去年契約していたレコード会社の方からそういうオファーがあって、そこで初めてソロ・アルバムのことを考えた、という風に説明していたのですが、でも多分、本当に本当のことを言えば、もっとずっと若いときからいつかソロ・アルバムを出したいという気持ちはありました。

―では、そういう気持ちは自分の中にずっとあったわけですね?

小西:そうですね。僕が10代の頃にレコードをコレクションすることになったきっかけっていうのが、シンガーソングライターのレコードだったんですね。基本的にはバンドではなく、個人名義の。

―例えばどのようなアーティストでしょうか。

小西:ジェームス・テイラーに始まって、ボビー・チャールズやロジャー・ティリスン、ジョン・サイモンとかですね。あとは、ピーター・ゴールウェイとか、そういうアーティストを好きになって。あとは、札幌に住んでいたからという訳じゃないですが、カナダのブルース・コバーンとか。そういうのが、刷り込みとしてありました。

―今回のソロ・アルバムがすべて外国語のカヴァー曲なのも、その頃からの気持ちというのが関係しているんでしょうか。

小西:たぶんね、きっとそうなんだと思いますね。シンガーソングライターのレコードをずっと聴いていた時期、当時だとトム・ラッシュ(注1)やジェリー・ジェフ・ウォーカーですかね。そういう彼らは曲の自作もするんだけど、だんだん自作をしなくなっていって、それよりも若いシンガーソングライターの曲を歌ったりだとか、いつしか曲を紹介する人になっていました。そういう人たちにいつのまにか影響されたんだと思います。

―ソロ・アルバムの話を頂いたときから、この形でやろうと?

小西:そこに至るまでに少し時間はかかりましたね。最初「ソロで」と言われた時には、もっとダンスミュージックのプロデューサーとしてのレコードを求められていたんじゃないかと思います。

―日本語の曲だったり、日本人ヴォーカリストを起用したり、というのは最初っから考えていなかったのでしょうか。

小西:いえ、そんなことはなくて。ダンスミュージックのプロデューサーとして、と言われた時はそれに答えようとしたし、日本人アーティストのことも考えていたんですよ。

―なるほど。

小西:ただね、ある日突然「Imagine」(言わずと知れたジョン・レノンの名曲)をカヴァーするアイディアを思い出したんです。それは多分9.11のテロの頃で、当時「僕だったらこういう風にするのに」というアイディアがあったんです。ただ、その時はどういう名前で、どういう形でそれを出せばいいのかわからなかった。お蔵にしたわけです。それを、ある日突然思い出して。「あー、それを今ソロでやればいいのかぁ」と思ったんです。その瞬間、今回のアルバムはほぼ出来上がったんでしょう。

―それは面白いですね。

小西:そうなんですよ。そこですべて外国の曲を外国の方に歌ってもらおうと決めました。その何十秒後かに、名前にピチカートっていう言葉を使おうというのも決まりました。

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小西康陽
1959年、札幌生まれ。1985年に「ピチカート・ファイヴ」のメンバーとしてデビューし、90年代の音楽ムーヴメント「渋谷系」のグループとして、今なお高い評価を得ている。2001年の同バンド解散後は、作詞や作曲、編曲、DJ、リミキサーとして、幅広く活動を続ける。
















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(注1)トム・ラッシュ
1941年、アメリカ生まれのフォーク/ブルース・シンガーは、自らの楽曲以上に、新人や無名のシンガーソングライターの曲を取り上げて歌った。ジェームス・テイラーも、彼に見いだされたミュージシャンの一人。