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田中恭平ELIMINATOR PRESS 代官山のセレクトショップ”ELIMINATOR”のPRESS。世界に一店舗だからこそ出来る事、世界に一店舗だからこそ言わなくてはいけないコアな情報や新たな価値観の提案を発信していけたらと思っています。www.eliminator.co.jp

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田中恭平
ELIMINATOR PRESS
代官山のセレクトショップ”ELIMINATOR”のPRESS。世界に一店舗だからこそ出来る事、世界に一店舗だからこそ言わなくてはいけないコアな情報や新たな価値観の提案を発信していけたらと思っています。

www.eliminator.co.jp

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物凄く大事な一時間。

2010.11.14

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それは僕が学生だった頃のお話し。


ビジネス英会話の最初の授業。左脇に沢山の教材を抱えた白髪混じりの渋い風貌。
何だか足を引きずっている。学校が始まって間もないせいか互いに気心知れていない

皆は、話す訳でもなく各々真面目に席についている。

先生が入ってきた。まだ足は引きずったままだ。皆は教材を意味もなくパラパラとめ
くっている。
「おはよう!」年相応ではない元気な声で先生は挨拶をした。
「みんな今日は、授業はしません」。と言いながら皆に教材を床に放るように指示をした。


それぞれ顔を見合わせて不思議な気持ちで授業は始まっていきました。

先生はまず名前を伝え、こう続けました。
「僕の足が気になっていると思うんだよね、これは生まれつきなんだ。

でも生まれた時は歩く事も出来なかったんだよ。ずっと車椅子。困ったもんだよね。

ある日学校行こうと思ったら、車椅子が無いんだ。親に聞いたら無いよって。

代わりに松葉杖が置いてあったんだ。今日からこれで行きなさいって。いきなりだよ。

おかげでその日は学校遅刻したよ。でも人間不思議なもんでね。松葉杖で歩けるように

なるんだよ。本人は必死だけどね。そして何年かしていつもの朝を迎えたら

今度は松葉杖が無いんだよ。今日からは自分だけで歩きなさいって。鬼だと思ったね。

でも僕は壁に手をつきながら必死に歩いたんだ」。
もう皆は授業どころではなく聞く事だけに集中していた。

あらゆる所に手をつきながら歩き続けたらほんと不思議でね、

足は引きづりながらだけど歩けるようになったんだ。
少しだけ自由になった僕に嫌な事がまたやってきた。"運動会"。

出たくないって言ったよ。でも参加しない事は許してもらえなかった。


当日僕は案の定、皆の背中しか見れずに何もかもから取り残されている感じで

終わった。


恥ずかしさと悔しさに加え皆の同情や歓声がやけに痛かった。

その日は怒りと落ち込みを隠しきれずに家路についた。
すると玄関の前に膝をついて両手を広げた割烹着姿の親がいた。
何やってんだと思った瞬間強く抱きしめられて泣きながらこう言われた。
「あんたは私の一等賞」。
僕はその時、何事も最初から諦める事はやめようと思った。

それから僕は弱音を吐かなくなった。雨の日も風の日も歩き続けた。
とある日、朝からしんしんと降り続ける雪であたりは一面の銀世界。
その日も勿論僕は歩いたよ。積もった真っ白な雪とピーンと張りつめた空気のせいで、

足音だけがいつもよりやけに綺麗に聞こえた。家を出てから数分後。

僕に続けて足音が一つ増えたのが解った。僕が止まると止まる。

歩き出すとまた聞こえる。後ろを見ても誰もいない。

大人になってから聞いたんだけど、僕から車椅子を取り上げたその日からずっと親は

毎日毎日後ろを付いてきてくれたみたいなんだ。やっぱりどこかで心配だったんだね。

きっと。

僕は泣き言や愚痴を極端に吐かなくなった変わりに笑顔が増えた。
人に優しく出来るようになった。僕はね、小さい頃から夢があったんだ。外国に行くってね。

勉強は嫌いだったけど外国には行きたかったから英語だけは真剣に取り組んだよ。

小、中、高校と卒業して青山にある大学に進学して海外に留学したんだ。
アメリカでは、その当時付き合ってた彼女の家に居候させてもらってた。
そこでの話をするね。 彼女の親父さんがインディアン名を持ってたんだよね。
「イーグル」って。彼女も持っていて名前は「ハーフムーン」。
その後の人生において大切な事を沢山教わったよ。
「人は地球で生きているのではなく、地球に生かされている」って言葉とか印象的だっ
たな。これは先住民族の酋長"シアルス"って人の言葉で、「シアトル」の語源にもなった

んだよ。本当に良くしてもらって、その後、日本に帰国するんだけど、その時に彼女が

自分のインディアン名と同じ半月形のネックレスをくれた。

日本に帰って結婚しても、これだけは頼むから付けさせてくれって言ってずっと

身につけていたんだけど何年もしたある日、突然プツリとネックレスが切れた。

同時に電話がなった。

電話に出てみると、国際電話だった。ネックレスをくれた彼女の父親からだった。
「久しぶりだね」。すこし元気がない。
「どうしたの?」。逆に元気いっぱいで返す。
「実はね、娘が亡くなったよ」。「.....」。沈黙しか無かった。
「伝えておこうと思って電話したんだ」。今度は逆にお父さんの方が元気に

話しかけてくれた。
「実はね、さっきネックレスが切れたんだ」。お父さんは驚いていたよ。
「不思議な事もあるんだね」。

久しぶりの電話から、また数年後。出社する時、ふと上が気になり、空を見上げた。

家の上を鷲が何羽も飛んでいた。するとまた電話がなった。
あの時と同じように国際電話だった。
「親父が亡くなったよ」。僕は相手を励まそうにも言葉が出なかった。
以前も同じような電話もあったし、何だか不思議な気分だった。

電話しながら外に出たら、鷲が家の上をグルグル、グルグル。

みんな親父の名前憶えているかい?
「イーグル」。ハーフムーンの彼女の時やイーグル。

偶然かもしれないけど全て繋がっているんだね。ここからは仕事の話ししようか。

僕は帰国して英語と同じくらい車も好きだったから有名自動車メーカーに勤め始めたんだ。

これでも結構稼いでたんだよ!でも定年まで何年もある時、英語を教えたいって気持ちに

かられてね。ワイフや周りの人間は猛反対したよ。

定年してからでも遅くないじゃない!って。でも僕はこう言って説得した。
「定年しても出来る。でも若い子ががむらしゃに向かってくるのに、こっちも元気がないと

教え子に失礼だろ!」。今では解ってくれてるよ。
みんな涙流していた。

先生の話が終わると、チャイムがなった。先生は教材をまとめ、出て行った。

誰も席を立とうとせず、静まり返った時間は次の授業まで続き、

次の講師は少しやりずらそうだった。

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