二つの騒音に挟まれている。
第一章「サイレンが音を止めて、奪われた僕らの自由」
困惑した誰かのグラスから飛び跳ねた薄いカシスソーダが、ヒロの睫毛を濡らした。マスカラがソーダを弾くのを気にして、目は見開れたまま殺伐とした景色が脳裏にどんどんと焼きつく。
DJが鳴らすタフなビートが警察官によって止められようとしている現状を、暫くの間は驚かぬように。
ヒロはiPhoneを握りしめて立ち尽くしているシュンのTシャツの裾を掴んだ。
「どうして?何をしたというの?」
COLDPLAYの「Every Teardrop Is Waterfall」のブートレグが二度目のブレイクに差し掛かるその瞬間、普段は出来る限り視界に入れないようにしている、黒い制服を着た一群がボクらのリズムを止めた。
一分前までは両手をあげてDJの紡ぐビートを崇拝するかのように、それぞれの祭りに酔いしれ、人生のビューティフル・モーメントを分かち合っていたというのに。
大阪アメリカ村は午前四時の景色を待たなかった。
「風営法による摘発の為、営業を中止させて頂きます」とのアナウンスがクラブ中に響いた。
シュンは震えるヒロの手を引いてクラブのエントランスに向かって急ぐ。
「帰ろう」
「うん。」
エントランスを出るとパトカーのライトと、街のネオンサインが交互に点滅している。ダンスフロアを遮った騒音の一部のように。
シュンはヒロを守るように走り出し、滞在しているホテルへと向かった。
50メートルほど走った所で、シュンはヒロが静かに泣いていることに気がつく。
「もっと...踊りたかったね」
「初めて二人で旅行にきたのに...」
2011年、2月に入りすぐ二人は住み慣れた東京を離れ、大阪へと遊びにきた。
シュンとヒロは同じ大学に通うカップル。入学間もなくダンスミュージックのサークルで出会い、自然な流れで付き合うように。
WOMBのメインフロアでいつかDJをするのが夢のシュンと、映画「ヒューマントラフィック」を観てからクラブシーンに憧れ、VJとして活動中のヒロが打ち解け合うことに時間はほとんど必要なかった。
シュンが12月に20歳の誕生日を迎えたことをキッカケに、二人のナイトクラビング熱は高まっていった。
「部屋で何か音楽でも聴こう...」
ヒロの涙を拭くことが、なぜかシュンには出来なかった。だから、いまこの瞬間の空虚感を心から憎み、この夜の終わり方を色々な角度から探している。
仙台出身のヒロは心のまま、思うように話す事ができない。どうしても欲しいものを欲しいとはすぐには言えないし、三人兄弟の長女だったせいか、知らず知らずのうちにすべてを我慢してしまう。
本当はシュンの胸で心のまま泣きじゃくりたいのに、冷静を装って感情を抑えていた。
シュンは長野県に産まれ、親の転勤で日本中を転々と暮らし育った。幼い頃に姉を病で亡くし、その後は一人っ子で、製薬会社で研究員として働く両親は留守がちな鍵っ子だったこともあり、一人で過ごす事を普通に感じて生きてきたが、大学進学と共に上京してヒロに出会い、少しずつ誰かを大切に思う気持ちや、さみしいという感情が芽生えてきたばかり。
しかし、その「さみしい」という感情にしかり、何か不平不満を漏らすという事に、全く不慣れなシュンであった。
「ホテルに着いたらボクが何か音楽をかけてあげるから...」
「ありがとう...」
シュンの優しい言葉にヒロは涙を束ねてユックリと頷いた。誰かに何かをしてもらうという事を、自覚して享受する態勢はシュンに出会うまでのヒロにはなかった。
素直に「ありがとう」を告げたい。今夜の音楽に、DJに、そして夜に。でも、上手には出来ない。
「Basement Jaxx、Afrojack、Devid Guetta...」シュンは頭の中でホテルに着いたら何を選曲して、ヒロに聴かせて喜んでもらおうかを悶々と考えている。
二人はホテルのそばにあるコンビニでお菓子とお茶を選び、一本のアイスキャンディーを分け合って食べた。真冬の風がダウンジャケットの中へと忍び込むが、気持ちを落ち着かせる為にもクールダウンの意味もこめて、ヒロはチョコレートアイスを選んだ。シュンは最初、真冬にアイスをどうして食べるの?という顔をしたけれど、流れるまま仲良く半分ずつ食べた。
「不安だね...私たち、将来どうなっちゃうのかな?」
ふと、ヒロは心に過った言葉を発してしまう。
シュンは黙ったまま、ヒロの手をギュッと掴んでホテルの中へと駆け込んだ。
「寒かったね...寒かったね...」
ポケットの中のカードキーを探しながら、エレベーターの壁でおでこを付けて冷やした。心配そうに見つめるヒロの視線を感じたが、この一瞬は自分だけの時間を過ごしたかった。シュンもヒロと同じように将来への不安を口にしたいが、するわけにはいかない。世の中の現状にに負けたくない、どんな塀だって飛び越えてやるという意気込みに溢れてはいる。もしも不安を口にしてしまった、自分自身の運命がそちら側へと引っ張られてしまいそうな気がした。だが、シュンはヒロのすべてを守ってあげられる力が今はない。自分自身さえ立っていることが精一杯なのに...。
「心配ないよ」その一言がシュンに言えたら...でも、その強さが何処にも見当たらなかった。
「ごめんね...あったまろう...」
ヒロはシュンの頭を優しく撫でた。エレベーターの壁で頭を冷やしたまま、こちら側へと帰ってきてはくれないのか心配になっていた。
「眠ろう...mumを聴きながら、ゆっくり眠ろう...」
この夜に破れた夢の断片をかき集めて、眠りの湖へと浮かべ、音楽の魔法に抱かれたまま、二人は静かに小さなベットで目を閉じた。
明日になれば、何か変わるよ...きっと変わる。
明日を信じて眠ることしか、二人に残された夜の終わり方はなかった。