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ブランド生誕153年のペンドルトンが送る、 スペシャルなトークイベントをレポート!

PENDLETON SPECIAL TALK EVENT REPORT

ブランド生誕153年のペンドルトンが送る、 スペシャルなトークイベントをレポート!

1863年にイギリスよりアメリカはオレゴン州へ、毛織物工場の支援のために移り住んだ創設者のトーマス・ケイによって設立された、世界が誇るウールブランド〈ペンドルトン〉。今年生誕153年を迎え、リーディングカンパニーならではのビッグネームとのコラボレーションをローンチするとともに、6代に渡りその確かな伝統を受け継ぐブランドの歴史や、日本進出に際しての秘話などが語られたトークイベントが開催された。今回そのイベントのために特別に来日した本国〈ペンドルトン〉の社長であるモート・ビショップ氏と、日本での正規代理店を担う〈A&F〉の代表、赤津氏、さらにはサプライズゲストも登壇。このまたとない機会をフイナムが独占レポート。貴重なトークイベントの全貌をぜひご覧あれ。

  • Photo_Yuzo Touge
  • Edit_Yuho Nomura
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モート:こんばんは。私はオレゴン州のポートランドからやってまいりました、モート・ビショップと申します。本日、飛行機で到着したばかりなので、若干時差ぼけがあるのですが、どうぞよろしくお願いいたします。

赤津:A&Fの赤津と申します。〈ペンドルトン〉とは長くお付き合いをさせていただいておりまして、これからも良い関係を互いに築いていけたらと思っておりますので、ご贔屓よろしくお願いいたします。

ーまずはペンドルトンの150年以上に渡る、長いブランドヒストリーから教えてください。

モート:ブランドの標語に”PENDLETON WOOLEN MILLS SINCE 1863”という文字が入っているように、我々は1863年に創業いたしました。そもそも私のひいひいおじいちゃんがイギリスのヨークシャー州から毛織物などを輸入したことから〈ペンドルトン〉の事業は始まりました。オレゴン州は1859年に誕生した州でして、その地で1863年に私のひいひいおじいちゃんはアメリカで初めての毛織工場を設立しました。彼はもともと繊維職人で、1900年に亡くなってしまったんですが、その頃アメリカでは毛織工場が1000ほどあったんです。その中で〈ペンドルトン〉はミシシッピ州で世界最大の織物工場を立ち上げておりました。それが現在のアメリカでは4つまで減ってしまいました。ただ、そのうち2つが我々ペンドルトンのものなのです。創始者も、彼自身が立ち上げた工場が153年間も続き、6世代にわたって継承されていくことになるとは思ってもみなかったと思います。彼が工場を立ち上げた際に、品質であったり、繊維そのものに対するこだわりを強く持っておりました。その思いは153年間一度も変わることなく受け継がれております。”PENDLETON WOOLEN MILLS SINCE 1863”︎というのは、ペンドルトン社の品質、商品を買い求めていただいたお客さんたち、関わっていく人たち、商品や会社の方針など全ての要素を守りづつけるというコミットメントにもなっているんです。〈ペンドルトン〉の歴史は永遠と話し続けられるんですが、ブランドの持つ長い歴史は変わらずに今も継承されているのだ、ということを是非皆さんにもお伝えしたいと思います。

ーその長い歴史を持って、なぜ日本を選び、進出してこられたんでしょう? 展開のきっかけとは?

モート:日本の市場に注目したのは当然商売をするためです。どんなビジネスでも言えるのは、大切なのは人と人との繋がり。日本への進出は、元を辿ると、ある日本人の青年が先代の社長(モートさんの父親)宛に幾度となく電話をかけてきていたことが始まりのきっかけだったんです。私の父はアメリカ海軍の兵隊をしており、第二次世界大戦で日本人相手に戦っていた人でした。なのでその青年との接触をずっと拒否していたんです。ただ、その青年というのが、その辺にいる青年ではなく実は有名なプロレスラーの方だったんですね。何度も何度も心折れることなく前向きに向かってきてくれたんです。そんな経緯もあって1980年代に、ついに日本のとある商社さんと契約を結び、日本へ進出することになりました。そのときに力になってくれたのが、先ほどの話にも出た日本人の青年である、マティ鈴木さんという方でした。その契約が結ばれたとき、それはまさに彼が第二次世界大戦で戦った相手でもあった我々を説き伏せた瞬間でもありました。彼とは大きなビジネスを構築した事実だけではなく、人間関係においても人生の友と呼べる友人関係になりました。パパさん、マティさん、と呼び合う間柄にまでなりました。

左からマティ鈴木さん、A&F赤津会長、ペンドルトン社長のモート・ビショップ。

ーここでサプライズゲストのマティさんが登壇。三者による鼎談がスタート!

マティ:僭越ながら簡単に僕の紹介をさせていただきますと、1964年に国際プロレスの団体を作りまして、現在の日本のプロレスラーのなかで最も古い人物の一人であると自負しております。僕の弟弟子にはアントニオ猪木や坂口征二、ラッシャー木村などの錚々たるメンバーがいます。そしてプロレスラーとして活動していくなかで、とあるきっかけでポートランドにやって来まして、現地で生活をすることになりました。そしてそこで家内が百貨店のレディースファッションのガイドとして働いていた際に、「ノードストーム」というデパートで〈ペンドルトン〉の服を見つけたのですが、あまりに高くてその時は買えなかったんです。その時に家内が私にレスリングをやめて、この〈ペンドルトン〉の商売を日本でやったらうまくいくんじゃないかと提案してきたんです。それが1967年の後半のことです。それからすぐにモートのお父さんと会うために約3年間アクションをしてきたんですが、自分の英語が拙いこともあって、なかなか伝わらず、先方からは「I don’t understand」という返答ばかりでした。しかし僕もプロでレスリングを長くやっていたこともあって、なんとか説き伏せたいという強い一心で二年半近く交渉を続けてまいりました。そこである時なんとか社長と会える機会をもらって事務所に初めてお邪魔した時に、社長から「I saw you at TV show」と言われたんです。実は僕はこれまでに全米で20近い州を周ってきて、同時にポートランドのレスリング番組にもレギュラーで出演していたので顔だけは一応日本人として通っていたんです。そんなこともあり、少しづつ交渉をできる機会をいただいていき、同時に親交も深まっていき、1980年に遂に念願であった契約まで漕ぎ付けることができました。

ー日本への進出当時の思い入れとは?

赤津:アウトドアのビジネスをする際に、〈ペンドルトン〉というブランドがアウトドアショップやデパートでは必ず入っていて、その名前は昔からよく知っていました。そして弊社でも是非取り扱ってみたいと強く思っていました。アメリカのオレゴンという場所はアウトドアのメッカのような場所。私どもは既に「コロンビアスポーツウエア」と、「ガーバーレジェンダリープレード」というナイフ屋さんと取引をしていました。それからアメリカへ行く度にペンドルトン社を訪れ、「是非とも取り扱いたい」という話をしていたんですが、全然相手にされなかったんですね。それが何年も続いたんですけど、そうした均衡をマティさんが破り、新たな道を切り開いてくれたんです。それから〈ペンドルトン〉というブランドを私どもがメインで取り扱わせていただくことになったんです。

ー当時の商品のメインとなっていたのはやはりウールだったんですか?

赤津:100%ウールでしたね。当時は毛布やチェック柄のシャツが大ブームでした。ウールといえば〈ペンドルトン〉という時代でした。

ー契約を結んだ際のコツとは?

マティ:赤津会長の人柄ですね。とにかく魚を釣るのがうまいんです(笑)。

ーモートさんが初めて赤津会長と会った際の印象はいかがですか?

モート:地に足のついた、とてもアウトドアの好きな人。地道に、しかし有言実行な人物というオーラが肌から滲み出ていました。

ー〈ペンドルトン〉を日本で展開をするにあたり、手応えはあったのでしょうか?

赤津:〈ペンドルトン〉のファンはとても根強く、ここまでブランドの取り扱いを続けてこられたのも〈ペンドルトン〉の確かなバックボーンがあったからだったんだろうと思います。また日本人は品質に対してとても厳しい目を持っていますが、その審美眼に〈ペンドルトン〉の製品の素晴らしさがマッチしたんだと思います。

ー日本のユーザーへの印象は、進出前と進出後で変化はありましたか?

モート:正直、当初は日本市場にあまり期待はしていなかったんです。ただ、実際に蓋を開けてみたら非常に大きな市場であることが分かりました。現在、アメリカから見て海外でNo.1の市場は紛れもなく日本なんです。日本人の皆さんは品質や伝統、ブランドの背景を重んじる人々なので、そういった部分を我々も日本から学ばせてもらいました。あとは日本人のお客さんは皆ファッションが好きなので、それも大変参考になりました。本国アメリカであったり、ヨーロッパの各社代理店から最近よく質問を受けるんです。「日本市場は〈ペンドルトン〉を使ってどんなことを打ち出しているのだ」と。それほど日本が注目を浴びる市場として、またトレンドの発信地としても認識されている証拠なんですね。すなわち世界の人々は皆日本の有益な情報を欲しがっているんです。

ー日本進出時の1980年代はいわゆる経済が良くなっている時期です。日本に〈ペンドルトン〉のブランドを広めていくにあたってなにか施策などはありましたか?

赤津:スタンダードなブランドとして確立させていくことを意識はしていました。それと国内で最も盛り上がりを見せた時期は、やはり木村拓哉さんが着用したことが大きかったですね。それから空前のブームとなって、夜からお店に多くのお客さんが詰めかけ、長蛇の列を作るなんてこともありましたね。

ーまた古着という部分でもファンをしっかりと獲得していたことも大きな要因だったように思います。

赤津:今でもそうだと思うんですけど、昔は特に〈ペンドルトン〉は大変高価なモノとされていました。お金がない人は古着で買う、という選択肢は当然今も昔もあると思います。また〈ペンドルトン〉は古着でも独特のアジがありますし、柄も年代によって多くの種類があります。ブランケットのアイテムにもコレクターがいるくらい人気なんです。そうした方々は皆さん商品をとても大切に扱ってくれていると思います。

ーマティさんの橋渡しによってここまで大きなリレーションシップが生まれるというのは予想していましたか?

マティ:始めは無我夢中でほとんど意識していませんでした。北は北海道、南は九州まで日本全国を一年中歩き回って、その街の人々の生活の中に〈ペンドルトン〉がどう溶け込んでいるかをリサーチしたりしていました。そんななかでとても印象的だったのが、モートさんのお父さんを日本に招待し、案内したことがあるんですが、その時は奥さんといらっしゃってホテルオークラに泊まられていたんです。そして良いレストランに連れて行けと言われまして、僕が居酒屋が好きだったので、ちょうど近くにあった居酒屋を探して一軒の煙の立ったお店を見つけ、そこへ連れて行ったんです。お店に入ってすぐに、〈ペンドルトン〉の社長さんをこんなところに連れてきていいのかとも思ったのですが、なんとたまたま奥さんが座った席の隣にいた方が某商社の方でして、こちらの席で〈ペンドルトン〉についての会話をしていたら、突然隣にいた商社の方が「I love PENDLETON!」と話しかけてきたんです。その時に感じたのが、すでに日本ではコアなファン層がいて、そうしたファン層を今後まだまだ増やしていけるなと。そんな確信を得られた瞬間でもありました。

ー最後にモートさんより、〈ペンドルトン〉の今後について教えてください。

モート:現在ペンドルトン社では大きく分けてメンズ、ウィメンズ、アクセサリー、ホームの4部門がございます。これらを一つのブランドとして再統合して、しっかりと一つの目標に向かっていきたいと考えています。昔の人たちが皆かつてはノーススタート(北極)を目指して歩いて行ったように。それは今季の我々のキーワードともなっています。また今回のお披露目会のひとつの目的でもあるのですが、双日さんやA&Fさんなどを中心とした強力なパートナーたちとともに日本の市場の開拓と拡張を引き続き図っていきたいと思っています。今後の〈ペンドルトン〉にどうぞ期待してください。

ー今季のコラボレーションについて。

モート:まだ発表できないものも多いのですが、発表できるものでいうと、ナイキ IDやポートランドではおなじみの〈ポーラー〉、あとは時計ブランドの〈ニクソン〉、さらにはスターウォーズやアベンジャーズ、スパイダーマンなどの作品で知られるマーベルコミックスなどともコラボレーションを予定しております。

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