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フイナムテレビ ドラマのものさし SEASON5 REVIEW

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幸せは最高の復讐である----『問題のあるレストラン』最終回
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画像は公式HPより引用
セクハラ、パワハラが日常茶飯事の男社会に反旗をひるがえす女性たちを描いたドラマは、最終的には「現実を見ないようにする終わらない女子会」を繰り広げつつ、「男も女も上も下も関係なく、いい仕事がしたい」と願う田中たま子(真木よう子)の夢で終わる。

かつて、たま子が務めていた会社のセクハラ、パワハラ社長・雨木(杉本哲太)は、被害者の五月(菊池亜希子)の勇気ある告白によって内情をメディアに暴露したことで社会的制裁を受けた。彼女たちの復讐はとりあえず成功したように見えた。本当に? そもそも復讐が目的だったのか? そこで思い出すのが、「幸せに暮らすことが最高の復讐である」ということわざだ。そう、彼女たちが選んだのは、セクハラ、パワハラ野郎たちを声高に糾弾し、完膚なきまでに叩きのめすことではなく、自分たちが幸せに暮らすことで彼らに復讐する道だった。だから、最終回の、すべてが夢の中のような多幸感に包まれた終わらない女子会こそ、結果的に最高の復讐になったのかもしれない。

呪いのことばは、ひとを縛りつける。そして、呪いは連鎖する。このドラマにも、いくつかの呪いのことばに縛りつけられ、身動きができなくなったひとびとが登場する。誰かの吐いた呪いのことばは、それを浴びた人間によってまた別の誰かにかけられる。思うに、セクハラ、パワハラ、モラハラの類は、そうした負の連鎖によって生まれるものなのではないか(虐待やDVも然り)。だから、最終回で雨木社長が幼い息子に対して「いつかおまえがパパの仇をとってくれ。おまえが、こんな嫌な世の中に復讐してくれ」という呪いのことばを吐くのを目にした娘の千佳(松岡茉優)は、その負の連鎖を断ち切るために、呪いを解くことばを義理の弟に投げかける。

「人にやさしくすると、自分にやさしくなれます。人のことが分かると、自分のことが分かります。人の笑顔が好きになると、自分も笑顔になれます。」「自分は自分でつくるの。」

幼い弟が、このことばを忘れずに覚えていてくれたら、鎖は断ち切れるはずだ。本ドラマの事実上のクライマックスは、このシーンにあったと言って良いだろう。そして、呪いが解かれる瞬間を門司(東出昌大)が無言で見届けるのも、思いのほか重要だったはずだ。

第1話で三千院(臼田あさ美)の息子・洋武(ひろむ)の手を離れて空へ舞いあがった風船が、最終話、好きな女の子への「けっこんしてください」というプロポーズの手紙として再び風に飛ばされ、ゼネP新田(二階堂ふみ)の奮闘によって地上へと戻ってくる。それは、屋上からみんなで見上げた虹のように、ささやかな、それでも確かな幸福の瞬間であり、たま子のことばを借りればまさに奇跡だ。千佳の義理の弟とともに、希望は子どもたちに託された。

初見では最終回はなんとなく拍子抜けというか、しかるべき「問題」を回避したな、という印象もあったのだが、二度見て、やはり最後まですごいドラマだったな、と思い直した次第。最終話のラストでは、海辺の掘っ立て小屋にふたたびたま子に召集されたビストロ・フーの面々がやってくる。海からはなぜか門司と星野(菅田将輝)が。今は海の向こうのレストランに勤務しているのだという。大資本リゾートホテルVS海の家ビストロ・フーの闘い。来年夏のスペシャルドラマあたりで復活させる気満々と見た。

手渡されていた「運命の切符」----『デート 恋とはどんなものかしら』最終回
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画像は公式HPより引用
「この世界のすべては数字でできています。あなたがなぜ生まれてきたのか、誰と出会い、誰と恋をするのか、すべては数式であり、法則で決められています。どんなに嫌いな相手でも出会う人とは出会うし、どんなに抗っても恋におちる人とはおちてしまう」

天才的数学者・藪下小夜子(和久井映見)は、講義を聞きに来た幼い娘・依子(杏)の前でそう語る。それから21年の月日が経ち、いま依子は30歳の誕生日を迎え、谷口巧(長谷川博巳)と同じバスに乗り合せている。結婚相談所で知り合い、すったもんだした挙句、今はおのおの別の相手と恋愛中の2人が偶然同じバスに乗り合せてしまうのだが、例によって口喧嘩になった2人の前の席に座るお婆さんが振り返りささやく。「恋をして幸せになった人なんているのかしら」「恋ってとってもおそろしいもの。永遠に続く底なし沼。踏み込んじゃダメよ」 そう言って依子に真っ赤な林檎を手渡すのだった。お婆さんを演じるのが、怪奇な物語の朗読劇『百物語』で知られる白石加代子ということもあり、妖怪か魔女か、という不穏さを醸し出している。

バスの中で、依子は小さい時からお守りにしているという電車の切符を巧に自慢気に見せひらかす。切符に記された4つの数字で「四則演算」をして答えが10になる数式をひらめいたチビ依子は、それがうれしくて切符をお守りにしているのだという。それを聞いた巧は、本来駅員に渡すべき切符をなぜ持っているのか、キセル乗車じゃないのかと問い詰め、動揺して床に落とした切符を拾おうとした依子の手を誤って踏んでしまう。この時点で見る者は、「ああ、この2人、またやってるよ」くらいにしか受け止めていないのだが、この一見本筋と関係のなさそうなくだりの秘密が、終盤明らかになるのである。

依子がお守りにしていた切符は、21年前に母・小夜子の講義を聞いた帰りに乗った電車のものなのだが、それを持ち帰りたいとせがむ依子を母はとがめる。その様子を見て、無言で自分の切符をそっと手渡す少年がいた。僕の切符で改札を出れば、その切符をこっそり持ち帰れるよ、と無言で人差し指を口にあてる粋な少年こそ、実は巧だったのだ。つまり、2人は21年前、すでに出会っていたのである。小夜子の言葉を借りれば、「誰と出会い、誰と恋をするのか、すべては数式であり、法則で決められて」いるということか。しかし、そのことを今もって2人は気づいていない。1枚の「運命の切符」は、それを拾おうとした依子の手を巧が踏んでしまうことで、よりによって左手の薬指が腫れあがり、依子の現恋人・鷲尾からのプロポーズで渡された指輪が入らない! 依子と巧が結ばれる運命にあることは、21年前のあの電車のなかですでに決められていたのか。まさに「この世界はすべて数字でできている」のだ。「デート/DATE」には「日付」の意味もあると前回書いたが、同時に「データ/DATA」にも由来することを考えると、このタイトルは思いのほか深い。そもそも依子は結婚相談所の資料で「巧のデータにときめいた」のだった。

とまあ、実に巧みな伏線回収な訳だが(巧だけに)、伏線がきれいに回収されたからいいドラマだというのはいかにも浅薄な気もする。逆に言えば、伏線が回収されずに終わるドラマがダメなものとして叩かれる傾向にあるのもどうなのか、とも思う(最近では『〇〇妻』あたりがそうか)。伏線回収、伏線回収言うな。伏線の回収車か! とツッコミたい気にもなるが、とはいえ、本ドラマにおける伏線の回収は実にエモーショナルだったと言わざるを得ない。ナレーションやセリフに頼らず、そっくり過ぎるチビ依子とチビ巧の無言のやりとりだけで終始するのも実に品がある。

巧の口から小津安二郎や高橋留美子など、古今の名作が頻繁に引用されるのも、単なる小ネタ合戦を超えた意味があると言えるだろう。依子と父の関係性は当然ながら小津映画のそれだし、『めぞん一刻』における響子と五代の「本当はお互い好きなくせにすれ違う」関係はそのまま依子と巧だし、ライバルが現れ横道に逸れても結局最後は一緒になる、という展開もそのままだ。『めぞん一刻』のクライマックスは「桜の下で」と題された単行本15巻の9話だが、桜の木の下で響子と五代が手をつなぎ、「あなたに会えて 本当に良かった」と響子がつぶやくシーンは、『デート』のラストシーンでほぼ忠実に再現されている。それを言えば、巧の実家の玄関周りは『めぞん一刻』の一刻館に似ていなくもないし、五代のライバルの爽やかなテニスコーチ・三鷹は『デート』の鷲尾だろうし、小夜子を演じるメガネをかけた和久井映見は高橋留美子先生に似ている(こうなってくると単なる言いがかりに近い)。

サブタイトルにもなっている「恋とはどんなものかしら」はモーツァルトの歌曲『フィガロの結婚』の第二幕で歌われる歌のタイトルだが、この曲が流れるなか、魔女のようなお婆さんからもらった林檎をかじる巧と依子を「ヘビにそそのかされて禁断の実を口にしたアダムとイブ」に見立てるのはたやすいが、果たして巧と依子は楽園を追われ、「恋という名の底なし沼」に足を踏み入れたのか。そしてお婆さん=白石加代子はヘビの生まれ変わりなのか。そういえば6話で巧がつくるお雑煮の鍋に入って死にそうになったヘビが出てきたのはこの暗示だったのか。

もちろん、わざわざそんなことを考えなくとも、「2015年の月9」として純粋に楽しめるドラマだったことは間違いないが、こうしたディティールを掘り下げていく楽しさがあったことも確かだ。たとえば、最終話、そもそも巧がなぜバスに乗ったのかといえば、「書店で内田春菊先生のサイン会があったから」だった。そして、巧がサインをしてもらった本のタイトルは(チラッと映るだけだが)『恋の相手は選べない』なのだ。いやあ、細かい! ひょっとすると、巧はこれを依子の誕生にプレゼントするつもりだったのかもしれない…等々、至る所に仕掛けがある。

いずれにしても、最終回で最も感動的だったのは、そうしたディティールの面白さよりも何よりも、ニートだった巧と人の心が分からなかった依子が、はじめて「誰かのことを思い、その人が幸せになること」を泣きながら願うシーンだった。第1話、はじめてのデートで「中華街でも見に行きますか」と巧に促された依子が、中華街の入口で微動だにせず、文字通り中華街を泰然と見て、「もう少し見ますか?まだ見ますか?中華街」と口にするのを聞いて恐れをなして逃げ出そうとした巧だったが、最終回のラスト、桜の木を前に「まだ見ますか?」と問う依子に「もう少し見ましょう」と言って依子の手を握る巧のまなざしには迷いがないように思える。これからこの2人が幸せになるかどうか、それは分からない。そういう意味では一概にハッピーエンドとも言えない苦味が残るが、それもまた2015年的恋愛ドラマのあり方だといえよう。