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フイナムテレビ ドラマのものさし『さよなら私』

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『さよなら私』NHK 火曜22時
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画像は公式HPより引用
私があなたであなたが私 “入れ替わり物”の新境地『さよなら私』
1982年に公開された大林宣彦監督の『転校生』は、幼馴染の中学生の男女の心と体が入れ替わってしまうことから起こる悲喜劇を描き、青春映画の名作として今も根強い人気をもつ。原作は山中恒の『おれがあいつであいつがおれで』。ラストは、元に戻ったふたりが「サヨナラ、オレ」「サヨナラ、アタシ」と言い合ってお互いの体に別れを告げるところで終わる。

NHKドラマ10枠ではじまったドラマ『さよなら私』は、タイトルからして『転校生』の影響が見えるし、放送開始前の番組スポットを見たら、神社の石段を永作博美と石田ゆり子が転げ落ちて入れ替わるという、まんま『転校生』だったことに驚かされた。それでなくとも“入れ替わり物”のドラマは多く、パッと思いつくだけでも、館ひろしと新垣結衣が入れ替わる『パパとムスメの7日間』、川口春奈と鈴木砂羽が入れ替わる『夫のカノジョ』、田中美佐子と土屋太凰が入れ替わる『今夜は心だけ抱いて』などがあり、食傷気味。もはや“タイムスリップ物”と同じくらい「安易な設定」と言っても良いだろう。

ところが、である。フタを開けてみれば、この『さよなら私』は、『転校生』に代表される入れ替わり物のマナーにのっとりながらも、別の次元に一歩も二歩も踏み出そうとしている野心作だった。『ちゅらさん』『泣くな、はらちゃん』『最後から二番目の恋』などの良作を書き続ける岡田惠和が脚本を手掛けるのだから、そりゃあ一筋縄ではいかないだろうとは思っていたが、安易と言われかねない設定も、人物の心情に寄り添って丁寧に描いていけば見応えのあるドラマになるという見本のような作品になっている。「また入れ替わり物か。芸がないなあ」などと思ってスルーしてしまうのは惜しい。それほど、ここには「豊かなドラマ的時間」が流れているのだ。

入れ替わるのは、41歳の専業主婦の友美(永作博美)と、高校時代からの親友で映画プロデューサーとしてバリバリ仕事をこなす独身の薫(石田ゆり子)。性格も真逆、現在のライフスタイルも違いすぎるふたりの心と体が入れ替わることで、お互いに「手に入れられなかったもの」を獲得することになる。友美にとってそれは男まさりに仕事をしながら自由に生きる生活であり、薫にとっては夫と子宝にも恵まれた幸せな家庭だ。さらに、子どもを産んでから夫とセックスレスだった友美は、夫の不倫相手だった薫の身体を手に入れたことで、数年ぶりに夫に抱かれて性のよろこびを取り戻する。もちろん、夫は薫だと思って抱いているのだが、心は妻の友美なのである。ああ、なんたるアイロニー! 友美と薫は、相手の身体を通して手に入れられなかったものを得ると同時に、自分という存在を他人として客観視することになるのだ。

多くの入れ替わり物が、男と女、あるいは同性であっても極端に年齢の異なる者同士の心と体が入れ替わることから生まれるギャップを物語の主軸にしているのに対して、『さよなら私』では、ともに41歳という同い年の女性が入れ替わる。高校時代からお互いを良く知る者同士が、やがて仕事や結婚によって別々の道を進むようになり、そんなふたりが入れ替わることによって、「ありえたかもしれないもうひとつの生き方」をそれぞれが体感することになる。そして、病気や死といったものを身近に感じるようになる40代同士なのも大きなポイントだろう。

友美と薫の間にある、どんなに険悪になったとしても揺るがない友情はグッとくるものがあるし、それを体現する永作と石田の演技もすばらしい。そして、高校時代からふたりの間のクッションの役割を(見た目的にも)担ってきた春子(佐藤仁美)の夫・光雄を演じるのが『転校生』の尾美としのりだということも忘れてはならない。その光雄は、会社の部下・冬子(谷村美月)と不倫をしているのだが(あぁ複雑)、出番は多くないものの「日陰のおんな」を絵に描いたような谷村美月の佇まいからも目が離せない。化粧は薄目で黒髪、ときどき方言が出る。足が悪いのか常に片足を引きずるように歩く。週末にIKEA(NHKなので劇中では『北欧の家具店』となっていたが)での家具選びを光雄と約束するも直前にドタキャンされるという日陰っぷり。「冬ちゃん、好きだ」と光雄がつぶやき後ろから抱きしめちゃうのも、まあ分からなくもない。いや、やってることはサイテーなんですけどね。サイテーと言えば、妻の親友と平然と不倫する友美の夫・洋介(藤木直人)も輪をかけてサイテーなのだが(“大手デベロッパーで都市開発に携わるエリート”という役柄は、映画『そして父になる』の福山雅治とカブる)。

そして、第4話では、友美の体が乳がんに侵されていることが分かる。つまり、入れ替わってしまった相手の身体が病に侵され、ひょっとしたら死が待ち受けているかもしれないことが分かった時、その事態に対して「心」はどう対処したらいいのか、という問題が起きるのだ。「ココロとカラダ。人間のぜんぶ」とはオリンパスの広告コピーだが、その「ココロとカラダ」のいずれかが自分のものではない場合、そのどちらかが壊れそうになった時、「人間」はどうすれいいのか。自分のものではない体が死へと向かうことを、心は受け入れることができるのか、という実存主義的テーマへと転がりそうな話でもある。

実はこれ、『転校生』を大林宣彦が2007年にセルフリメイクした映画『転校生 さよならあなた』で描かれる展開と同じなのだ。映画では、不治の病によって一方は死ぬことになるが、その直前に心と体が元に戻り、本人は本人として死に至り、もう片方がそれを見送る。しかし、一度入れ替わった者としては、相手の死は自分の死でもあり、それを見送ることは、やがて訪れるであろう自らの死を受け入れることでもあるのだ。

『さよなら私』がどのような結末を迎えるのかは今のところ(2014年11月5日現在)不明だが、もし仮に元に戻らずに友美が死ぬことになったら、残された「友美の心を持った薫」は、ふたり分のいのちを生きてゆくことになるだろう。ネットでは「『転校生』のパクリ」といわれているようだが、パクリ云々ではなく、これはもう作り手の確信犯的行為なわけで、その設定を借りていかに違うものに仕立て上げるのかが作品のキモだ。

繰り返しになるが、使い古された設定でも、登場人物の心情を丁寧に描いていけば、それは豊かなドラマになる。設定やあらすじだけでは決して伝わらないものが、連続ドラマにはあるのだ。

※2014年11月6日公開