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『深夜食堂』が恋しくて。 ドラマと映画と、時々、ごはん。Special Interview 小林薫

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「そんなに上等な客が来て、上等な話をするような店ではないんです」

-もともと僕は原作マンガのファンだったのですが、「めしや」のマスターを小林薫さんが演じると知った時は、「それは最高じゃないか」と思いました。実際にドラマを見たら、キャストのハマり具合はもちろん、画面のトーンや撮影も含めて、深夜ドラマではそれまで見たことのないクオリティに引き込まれました。小林さんも「オトン」役で出演されている『東京タワー~ボクとオカンと、時々、オトン』の松岡錠司監督をはじめ、映画畑の監督や脚本家が参加していますが、これはそもそもどういった経緯だったのですか?

小林薫(以下小林・敬称略): なにしろ深夜枠は予算が限られているので、いろんな意味で安上がりにしようという方向にいきがちなんです。マンガはデフォルメしたキャラクターやシンプルな描線でも世界観を表現できるけど、それをそのまま薄っぺらいパネル1枚のようなセットでやってもリアリティが出ないし、原作のあの味わいが出せるのかな、と。そんな時、たまたま松岡監督に話をしたんです。深夜枠だし、映画人のプライドもあるだろうから、「テレビドラマなんてやらないよ」と言われるかもしれないと思ったんですけど、乗り気になってくれて。「だったらスタッフは映画人で固めたい」という監督なりの意向があって、今のような映画のほうに振っていくつくり方になっていったんだろうと思います。深夜ドラマとしてはかなり冒険だったとは思いますね。
ただ僕は、映画を念頭に置いた作品づくりというよりは、松岡監督にも話したんだけど、『時間ですよ』や『寺内貫太郎一家』を演出した久世光彦という、テレビドラマのある形を作った演出家の世界をどこかでイメージしていました。『時間ですよ』の中で篠ひろ子さんが女将をしている小料理屋が出てくるんだけど、過去に何かあったらしいあ訳ありの美人女将が営む店に男たちが夜な夜な集まってくるという、ドラマの中でちょっとホッとするような空間として描かれていたんです。藤竜也さん演じるサングラスを掛けた謎の男がいつもカウンターの隅にいて、セリフが一つもないみたいな。僕はどちらかというと、ああいうノリがいいんじゃないか、と。

-『時間ですよ』ですか。それを小林さんがおっしゃったんですね。

小林: そう。由利徹さんがいて、左とん平さんがいて、いい歳した大人たちがドキドキしながら女将のいる小料理屋に通うという、その世界観がすごく好きだったし、ああいう感じを念頭に置いたら、この『深夜食堂』の世界がつくれるんじゃないかと思うという話をしました。松岡さんはそのシリーズを全部見て、「分かりました。確かにあのテイストでいけますね」ということになってスタートしたんです。

-小林さんが出演された『キツい奴ら』(89年、演出・久世光彦)で吾郎(小林)と完次(玉置浩二)が流しで歌う居酒屋なんかもちょっと思い出しましたが。

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小林: ああ(笑)。でもあれは、借金に追われて違う店を渡り歩いたりするから、『深夜食堂』みたいに一つの店で、いつも同じ顔ぶれがいてっていうのとは違うんですけど、確かにテイストとしては近いものがありますよ。ようするに、そんなに上等な客が来て上等な話をするような店ではないってことです。ちょっと破綻していたり、世間一般からはちょっと外れたような人たちが集まってきて、それぞれの人生をマスターはカウンター越しに見ているという。

-『深夜食堂』のマスターは、余計なことはしゃべらず、客の注文に応えて、ただ料理を出す。主役でありながら、かなり引いた立場ですよね。

小林: 「あんまり主役のような気がしない」なんて言うと、ひがんでるんじゃないかと誤解をされるんだけど、いわゆる主役ということからイメージする立ち位置とは少し違うような気がしています。各回のゲストが主役であり、料理が主役でもあり、あの店の磁場のようなものが主役だと言うこともできる。見方を変えれば、主役がたくさんいるんです。

-原作もそうですが、マスターがどういう人で、過去に何があったのか、人物の背景がほとんど分からない。こういう場合、それまでの人生はこうだったんじゃないかというプロフィールのようなものをご自分で考えたりされるのでしょうか。

小林: あ、それはないですね。分からないものを無理に詮索して小さくしてしまうこともないと思うので。僕ら、人のことを分かっているかというと、自分のことでさえ良く分かっていなかったりするし、あの人にこんな意外な一面があったのか、なんて気づくことは日常でも多々あるでしょう。だからこそ、人のリアクションは面白かったりする。「この人はこういう人だ」というように、あたかも答えがあるかのように人物像をつくってしまったら、かえって小さくなってしまうんじゃないか、と。マスターのように原作でも背景が明らかにされていない場合、詮索するのは自由だし、僕らも冗談でああだこうだとは言いますけど、それはいかようにでも考えられる大きさがあるということだろうから、あまり自分で想像して人物像をつくり込まないほうがいいと思っているんです。

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