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Tailking about AS2OV 日本のバッグ業界を一変させた、熱き2人の男の物語。

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左:代表取締役 冨士松大智、右:デザイナー 藤岡高志

「自分たちの欲しい物をひたすら形にしていった感じでした(冨士松)」

-まずは、お二人がものづくりを始めるにいたるまでを教えてください。

冨士松: 学生時代から、なにかものを作る仕事がしたいなと思っていたんです。なので、授業中にノートにいろんな絵を描いていて。まぁ、落書き程度のものなんですけど。

-絵を描くのが好きなんですか?

冨士松: 好きではあるんですけど、上手くはないんです。描くことよりも、そういうのを考えることが好きだったんです。勝手にロゴマーク考えてみたりとか。仕事としてきちんとできるようになったのは、前の会社(株式会社井野屋)に入ってからですね。僕、元々は営業で入ってるんです、22歳のときに。

-そうなんですね。藤岡さんの場合はいかがですか?

藤岡: 僕も小さい頃から絵を描くのが好きで、前の会社にはデザイン企画で入りました。ただ、2年目から営業に回されまして、そのときの上司が冨士松さんだったんです。

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-それが二人が出会った最初のタイミングなんですね。

冨士松: そうですね。前の会社って、営業とデザイン企画が明確に分かれていなかったんです。当時はレディースがメインでした。特別、オリジナリティのあるものを作るわけでもなく、売れているものを作っていたという感じでしたね。

-なるほど。

冨士松: それで、そのうちに、自分の欲しいバッグを作りたいな、というシンプルな思いがでてきたんです。それで少しずつ作り始めて、1シリーズだけ展示会に出してみたりとかしてました。

-それはすでに〈マスターピース〉という名前だったんですか?

冨士松: まだ違いますね。当時、井野屋には〈プレイアード〉というレーベルがあったので、その枠の中でやっていたような感じでした。

-そんなとき、藤岡さんは?

冨士松: まだ一緒に作っていたわけではないですね。当時、彼は営業の新人でした。

-営業をやっている自分に、悶々としていたところがあったのではないですか?

藤岡: そうですね。自分が営業をやると思ってはいなかったところがあったので。。それでも、なんとか4年くらいはやっていました。

-結局、〈マスターピース〉という名前はいつできたんですか?

冨士松: 見よう見まねで色々やってみて、なんとか2~3年くらい続けて。ただ、絵もちゃんと書けなかったので、工場の方もあまり真剣に取り組んでくれなかったんですよね。そもそもどれだけ作れるかわからなかったので、使いたい素材も使えないような状況で。1反って50mなんですが、生地はカットできないので、使うなら1反使って下さいというような感じで、それすらも消化できなかったですね。でも、あるとき好きなもの作っていいよって言ってくれるメーカーさんが、その生地を抑えてくれたんです。

-どんな生地なんですか?

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冨士松: それまで鞄では使われていなかったようなもので、キャンパスの塩縮加工の生地でしたね。洗いがかかってて、塩素で色が飛んでいるような。それがすごく気に入ったんです。あとはスエードが好きだったんで、それを組み合わせて。それで、そのとき初めてセカンドサンプルまで作れたんですよね。それまでは「どうせ売れないんだろ?」みたいな感じでファーストサンプルまでしか作れなかったんです。今だったら、サードぐらいまでは作るんですけど。

-ここへきて納得のいくものが作れるようになった。

冨士松: そうですね。やっと満足できるものができたんです。デイパックと被せタイプのリュックでしたね。それで次に卸先をどうしようと。お話ししたように会社ではレディースばかりやっていたので。ミニマムが1反なので、ということは、鞄を70~80個くらい作らないといけなくて。そこからは必死で、新規の営業をやっていった感じでしたね。

-どのあたりを回ったんですか?

冨士松: 当時大阪にあったのは、セレクトショップの「ルイス(Lui's)」とアメ村の「アーバンリサーチ(URBAN RESEARCH)」の第一号店でした。それが17~18年くらい前ですかね。そんな感じで、鞄屋さんというよりも洋服屋さんに置いてもらって、そこでバーッと売れ始めて、スタートをようやく切れたという感じですね。

-そのときはもう〈マスターピース〉という名前ですか?

冨士松: そうですね。

-結構、〈マスターピース〉って気合いの入った名前だと思うのですが。。

冨士松: 前からあった〈プレイアード〉というブランドに少しだけメンズラインがあったんです。で、そのサブタイトルに「masterpiece」という言葉があったんです。なので、そこからとったという感じですね。さらにmasterとpieceという二つの単語を-(ハイフン)で分けることで、「傑作」という意味と、一つずつマスターしていく、みたいな意味合いをかけたんです。


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タテ・ヨコに1000dの66ナイロン糸を使用した、CORDURA®1000d fabricを使用。摩擦・引き裂き・ すり切れ等に対する強度を備えています。レザー部分は、ベジタブルタンニンで鞣された、染色や加工などを一切施していないレザーを使用。前ポケットはベルクロによって取り外しが可能なアタッチメント仕様のポーチに。デザインはローテク感を打ち出しながらも、 機能面は現代のニーズに合わせたシリーズで、PCの収納ケースなどがあります。

-火がついてからは順調に推移していったんですか?

冨士松: まぁそうなんですけど、そこで個人的にちょっと色々あって、半年ぐらい入院しなきゃいけなくなったんです。

藤岡: そうでしたね。

冨士松: でも、商品はどんどん売れていたので、なんとかやり続けなければいけないと。その時は僕一人でやっていたので。。

-お二人の当時の関係性はというと?

藤岡: 未だ、営業の先輩、後輩という関係です。仕事は一緒にやっていましたね。

-冨士松さんのそうした事情があって、そこでようやく一緒にやってみないかということになったんですね。

冨士松: そうですね。会社からもそれがいいんじゃないかということになりまして。あとは、あんまり営業も得意じゃなかったもんな?笑

藤岡: まぁ、そうですね。。笑

冨士松: 退院してからは、正式に2人で始めました。会社的にもやっと認めてもらいましたね。

-当時、〈マスターピース〉で作っていたバッグは、どんなものだったんですか?

冨士松: 自分も若かったし、半分素人みたいな2人がやっていたので、ブランドとしての大層なコンセプトがあったわけではありませんでしたね。

藤岡: そうですね。手探りでしたね。この生地がうまく縫えるのかどうなのかもわからない、といった感じでやってました。

冨士松: こういうのがあったらいいんじゃないって、自分たちの欲しい物をひたすら形にしていった感じですね。軽いノリでしたよ。

-作ったバッグは当然、自分たちでも使ってみたんですか?

冨士松: はい。とにかくこういうブランディングで、こういう方向性で、みたいなものはほぼなかったですね。なんでこういうのがないんだろう?だったら僕らで作ろう、みたいな。

-当時は今ほどバッグのバリエーションもないように思います。

冨士松: まさにそうですね。いわゆるアウトドア系か、あとは〈吉田カバン〉さんは当時からありましたけどね。ただ、「タンカー」が爆発する前ではあったので、そこまでの存在感という感じでもなかったように思います。

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-今でこそ〈マスターピース〉は自社工場を持っていますが、当時の生産背景はどういったものだったんでしょうか?

藤岡: それはもう一から探して、という感じですね。とにかく会社でやっていたのはレディースの鞄作りだったので、アウトドア的なバックパックが縫える、作れるところを探して、そこと一緒にやっていった感じです。

冨士松: 工場の方も、初めて作るものが多かったんで、最初はリュックのショルダーがスポーンって抜けたりしたよな? 笑 レザーの鞄を使ったことのない工場に、「こういうのが作りたいんですよ」って最初から説明して、一緒に試行錯誤しながらでしたね。

-レザーやスエードと、キャンバスをミックスするのが、〈マスターピース〉から今の〈アッソブ〉に至るまでの特徴ですよね。

冨士松: そうですね。単純に好きなんですよね、その組み合わせが。あとは意外とスエード使ってる鞄があんまりなかったんですよね。

藤岡: レディースの鞄ならではの、色使い、配色だったり、素材の組み合わせなどを、会社でたくさん見ることができたので、そういった部分でオリジナリティを出しやすかったというのはあると思います。

冨士松: そうそう。これ、メンズで使ったらダメなのかな?とかっていう感じでしたね。

-その自由な発想が、マーケットにとって自由に受け入れられたわけですね。

冨士松: 鞄、鞄してなかったので、鞄屋さんよりも、洋服屋さんに響いてくれたんです。

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