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フイナムテレビ ドラマのものさし

2014 April-June vol.03 6/18up

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2014 April-June vol.03 6/18up
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公式HPより
『BORDER ボーダー』 テレビ朝日 木曜21時~ 8~9話(終了)
今期のドラマのなかで、予想を超えて面白く見ていたのが『BORDER』だった。
もはやさんざんやり尽くされたと思える刑事・事件ものにあたらしい質感をもたらした功績は大きい。小説『GO』やドラマ『SP』で知られる作家・金城一紀の原案・脚本、『相棒』や映画『探偵はBARにいる』の橋本一がメイン演出というふれこみから、ある程度のクオリティは保証されていたものの、こればかりは実際に見るまでわからない。
小栗旬が演じる刑事・石川安吾は、ある事件で頭に弾丸を撃ち込まれ、死の恐怖に直面したからか、頭に残ったままの弾が脳の神経のどこかに作用したのか、それをきっかけに死者と会話ができるようになる...というアイデアの大元は、おそらく死者と話すことができる少年が登場する映画『シックスセンス』(99年)に由来するのだろう。ところが、その設定を刑事・事件ものに投入することで、生と死の境界、ひいては正義と悪の境界の話になっていくため、もちろん物語自体はまるで異なった色を帯びる。
9話とややショートに終了してしまったが、この設定ならいくらでも(というのは言い過ぎにせよ)エピソードがつくれるだろうし、最終話は続編を匂わせる終わり方だったし、ましてや視聴率も良かったとなれば、パート2がつくられることはほぼ間違いない。
※初回視聴率9.7%からスタートし、宮藤官九郎がゲスト出演した5話が13.1%、7話が16.7%、最終話は14.4%と大健闘した。逆に開始前は下馬評が高かった裏 場組の『MOZU』は13.3%からスタートし、9話では7.7%にまで落ち込んだ(最終話は13.8%)。
終盤の8話では、石川が頭を撃たれた事件の真相が明らかになる。話自体は、昨年放送された「3億円事件=警察内部の犯行説」をとなえたドラマ『クロコーチ』(TBS)を思わせる警察組織の暗部を描いていたものの、石川が上司である監理官に「おまえも遅かれ早かれ正義の階段を踏み外すことになる。その時、ひどい転げ落ち方をしないように下で受け止めてやる人間が必要だ。俺がその役目を果たしてやるよ」という予言めいたことを言われ、「俺は絶対に正義の階段を踏み外さない」と反発するくだりが、そのまま最終話のエピソードへと連なるという展開が巧みだった。
死者(望まずして命を絶たれた者)と対話ができるようになった石川には、彼らの無念が痛いほど分かる。そして、殺された者から誰が犯人なのかを教えられることによって、何が何でも自分が犯人を逮捕しなければならないという正義に駆り立てられるわけだが、暴走する正義は悪と紙一重なのだということを明示するのが最終話「越境」だ。
大森南朋が演じる安藤という男は、絶対的な悪を実現するためにさまざまな研究を重ね、職業をも変えていく。おもちゃメーカーの社員としてショッピングモールに出入りし、おもちゃで子どもの気を惹き、誘拐・殺害する卑劣な人物だが、用意周到に計画された犯行に一切の証拠は残っておらず、殺された子どもから犯人だと教えられた石川をイラつかせる。こいつが犯人だと分かっているにも関わらず捕まるこずとが出来ず、その男が引き続き惨たらしい事件を起こすのを指を咥えて眺めるしかないのか。
石川の特殊な能力は、もちろん他言していないため、同僚や上司はそのことを知らない。波瑠演じる検視官の比嘉だけがうすうす感付いているのだが、誰にも相談することなく、石川はひとりで犯人と対峙することになる。これが最終的に大きな悲劇を生む、というのが最終話なのだが、「越境」というサブタイトルからも分かるように、まさに石川は最後にボーダーを越えてしまうのだった。
大森南朋は、淡々とした態度で平然と殺人を繰り返す男・安藤を不気味に演じていた。いわゆる「狂気を内包した」といった分かりやすい芝居ではなく、何を考えているのか分からない体温の低い佇まいだからこそ、見る者はゾッとするのだ(どことなくTBSの安住アナを思わせるキャラクターだった。かねてから安住アナが殺人犯を演じたら最高だと思っているのだが、これはまったくの余談)。
安藤の持論は、どこにでもいる平凡な子どもを殺すことで、「私があの子に光を与え、世の親たちにモラルを与えた」という理不尽極まりないものだ。「闇があるからこそ光がある。悪があって正義がある。どちらか一方しかない世界なんてつまらないですよ。私がいるからこそ、あなたは輝けるんです。もしそれが気に入らないなら、あなたもこちら側にくるといい」と石川を挑発する安藤。「いつから悪に染まった? 何がきっかけだ」と問い詰める石川に、「さあ、いつからでしょう。ところで、あなたが正義に染まったのはいつからですか。何がきっかけですか? 分かったでしょう。実は正義と悪に大した違いはないんです」
悪と正義はコインの裏表、合わせ鏡だという話は古今数多く見られ、バットマンとジョーカーの例を持ち出すまでもなく、特別目新しいものではない。「私は悪を成すためなら人を殺せます。でも、あなたは(正義のために人を)殺せないでしょう。この差は永遠に縮まらないんです」と安藤が言うように、悪よりも正義を成すことのほうが難しい。なぜなら、正義のために行動を起こすことは、容易に悪へと転ぶ危険をはらんでいるからだ。
絶対的な悪は存在しても、絶対的な正義はあり得るのか。そうした問いが、ドラマの終盤で見る者に突き付けられる。そして、答えのないままエンディングを迎えた。問いは問いのまま、見る者のなかにあり続ける。靴に入った小石のように。
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公式HPより
『続・最後から二番目の恋』フジテレビ 木曜22時~ 7~9話
「鎌倉を舞台にしたスローライフなオトナの恋愛劇」という入れ物のなかに、仕事論・ドラマ論をも盛り込みつつ、多彩な世代の登場人物それぞれの「しあわせのありよう」を見つめていくという、じつに複雑なことをさらりとやり遂げているのがこのドラマ。
いや、「さらり」というのは見ているほうの勝手な言い分であって、作り手は四苦八苦かもしれないが、そのくらい「いい風が吹いている」ドラマであることは間違いない。
恋愛ドラマではあるものの、ここで提示されているのは「あたらしいホームドラマ」でもある。中井貴一演じる長倉和平を主とする長倉家のリビングダイニングには、家族はもちろん、隣に住む吉野千明(小泉今日子)が毎朝、朝食を食べにやって来るし、嫁いだはずの長女・典子(飯島直子)も何かとやってくる。昼間はカフェとして営業し、和平の娘・えりな(白本彩奈)のボーイフレンドの母親・薫子(長谷川京子)が手伝いに来たりもする。つまり、長倉家のリビングダイニングは内と外がゆるやかに連なる縁側であり、「あたらしいお茶の間」なのだ。
かつて、向田邦子が脚本を書いた『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』などに登場したお茶の間。家族ですらバラバラに食事をすることが当たり前のようになった現代、向田邦子的お茶の間空間はもはや幻想に過ぎないのかもしれないが、バラバラの人間がかろうじてひとまとりになれる空間が、長倉家の食卓にはある。
7話では、長倉家の面々がリビングダイニングで親戚の叔母さんのエピソードを延々と語り合うシーンがあった。若い頃、長髪にした和平を見て、床屋に行く金がないのかと憐れんだ叔母さんが泣きながら5千円札を握らせてくれた、という話から叔母さんの家で食べたカレーがおいしかった、というエピソードに着地する、とりとめのない話を、家族でも親戚でもない千明が同じテーブルで笑いながら聞いている。
カメラは、家族の思い出を懐かしそうに語る長倉家の面々から、次第にそれを聞く千明の顔を捉えていく。「なんだよ、そのいい話は。サザエさんか? ちびまる子ちゃんか、あんたたちは。何、日曜日の夕方感出してんだよ。まだ午前中だよ」などとツッコむ千明だが、「くだらない話を懐かしんだり笑い合える家族っていいよな」と思っているでろあろうことが、その表情からくみ取れる。
庭でまったりする千明が、隣に来た和平に向かって、「私がおばあちゃんになった時、日曜日の夕方にどんな顔してサザエさん見てるんでしょうね。笑ってますかね。笑っていたいな。っていうか、やってますかね、サザエさん、その頃」とつぶやくと、「きっと、あなたは笑って見てますよ」と和平が答える。じいさん、ばあさんになった時、サザエさんを笑って見ている自分でありたい。それは、日本に住む者にとって、いわば究極的な意味で理想の老後の姿かもしれない。そして、「あなたはおばあさんになった時、きっと笑ってサザエさんを見ていますよ」と言うのは、究極の愛情表現ではなかろうか。こんなことをさらりと言える和平は、大人の男だと思う。
とにかく、どれほどすったもんだがあろうとも、いや、あればあるだけ、和平と千明がふたりでしっぽりと語るシーンの良さが際立つのだ。
8話では、「またまだ分からないことだらけ、探してるものだらけ。そのほうが前に進めるというか、この先、もうちょっとだけ成長できる気がしません? でも、まだまだなのに、残された時間はどんどん少なくなっていく。やれやれですよ(和平)」「歳をとるのも面白いなと思って。分からなかったことが分かるようになって、分かったと思ったことがまた分からなくなって。まだまだですね、私たち(千明)」なんていう会話もあった。
9話では、「男の前で泣くくらいなら切腹する」とまで言っていた千明が、和平とサシ飲みしながら思わず泣いてしまう。ツラいことがあった千明の話をずっと黙ってうなずきながら聞いていた和平が、ぽつりと言う「私は好きですけどね。吉野さんみたいな、泣けない、系?」のひと言で千明の涙腺が決壊。ここでは、千明の愚痴とも心情吐露ともつかない話を和平が黙って聞くのがポイントなのだ。普段はああ言えばこう言うのふたりでも、いざという時にはじっくりと相手の話を聞く。ほんと、大人げないのに大人なのである。長倉和平って男は。
毎回書き起こしたくなるような珠玉のセリフの数々だが、きりがないのであとは本編をご覧いただくとして、「大人げないままこんな大人になりました」と歌い出す横山剣作詞・作曲のエンディングテーマ「T字路」(貴一・キョンキョンのデュエット)の通り、いつまでも大人になりきれない大人たちのしあわせの行方を見守りたい。
それにしても、鎌倉市の市長(柴田理恵)が市長秘書の和平に恋するエピソードは誰得なのだろう。美男美女のすったもんだだけだと視聴者が感情移入できないから、という理由なのだろうか。そこだけは謎。
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公式HPより
『リバースエッジ 大川端探偵社』 テレビ東京 金曜0時12分~ 7~9話
何かに囚われて生きている男たちがいる。それは、過去に出会った自分の人生を変えたある女だったり、一度も姿を見たことはない声の持ち主だったりするのだが、そのひとを探してほしいと探偵社に依頼を持ちかける男たちの物語が7話から9話とつづく。
7話「夏の雪女」の依頼者は、20年前の夏の夜、白いワンピースを来た若い女(國武綾)にいきなり路上で「助けてください」と懇願され、自分のアパートにかくまった経験がある中年男・蓑田(田窪一世)。仕事から帰ると、「冷蔵庫にあるものだけで作ったんですけど」と言って女は手料理を作って甲斐甲斐しく待っていた。今まで女性とそんな時間を過ごしたことのない男は、この突然の押しかけ女房的存在に心酔する。
3日目の夜、女は「抱いてください」と男に体を預けて...という、実にありえへん性的ファンタジーが繰り広げられるわけだが、この夜を最後に突然女は去っていく。そりゃあ、こんなことがあれば、男はこの女のことがずっと忘れられなくなるかもしれず、ある意味で人生を狂わされてしまうことにもなろう。この男は20年もの間、どこの誰かも分からない白い服を着た雪女のような女の幻とともに生きてきたのである。原作のマンガでは、この依頼者はその後結婚して子どももいるということになっているが、ドラマでは今も独身のさえない中年男として描かれる。明らかに過去の時間に囚われたままなのだ。
大川端探偵社の村木(オダギリジョー)は、依頼者の持参したバーのマッチを頼りに女の居所を探そうとするが、そのマッチを擦ろうとするとしけっていてうまく点かないことで20年の時間の経過を示す演出が冴える。
結局、依頼者がたまたまテレビで見た女優がその「雪女」だということに気づき、村木は女優と会う機会を得て過去について問いただすも、女優は否定。原作のマンガでは、村木が女優の脇の下にほくろがあることに気づく、という結末だったが、ドラマでは脇の下のくだりはナシ。その代わり、かつて女が男の部屋で最後の夜にすき焼きを食べるくだりで、「私、すき焼きだと卵たくさん食べちゃうんです」と言いながら生卵を6個も食べるというシーンがあるのだが、村木の前で女優が生卵の乗ったタルトだかパンケーキだかを食べることによって、やはり雪女はこの女優だったのか、と見る者が気づく仕掛けになっている。さらに、最後に女優が村木の元をもう一度訪ねて来ることで、依頼者だけでなく、女もまた過去の出来事に囚われていることが分かるというオチも。
8話の「女番長」では、空手の師範・梶原(橋本じゅん)が、かつて荒んだ高校で不良のいじめに遭っていた少年時代、女番長(吉倉あおい)に救われたことで強い男になる決意したことから、その人生の恩人に会ってあらためて礼が言いたいと願う。中年になった元・女番長はかつての梶原少年のことを良く覚えていないというあたりが切ないが、人生を変えた出会いなんて案外そんなものかもしれない。変えられたほうはいつまでもそのひとのことを憶え、囚われているが、変えたほうはすっかり忘れてしまっている、というような。
9話の「命もらいます」の依頼者は、遊園地の場内アナウンスの「声」に囚われ、その主に会いたいと渇望するオタク男(ボブ鈴木)だ。探偵社の村木と秘書のメグミ(小泉麻耶)の電話攻勢でアナウンスを担当した声優を突き止めるが、当然キモいオタクに会う理由などなく面会を断られてしまう。村木らは苦肉の策で替え玉の老婆を用意し、「あのアナウンスは60年前に録音したものだった」と言い張ってごまかそうとする。原作では、依頼者はこの作戦にまんまと引っかかるのだが、ドラマでは、アナウンスのあるフレーズが60年前に流通しているはずがないことを依頼者が見抜き、嘘が見破られてしまうのだった。
結局、依頼者は声の主に会いたいというリアルな欲望より、これまで通り遊園地に通ってアナウンスの声に繰り返しうっとりと陶酔することを選ぶ。生身の声優は年老いていくが、録音された声は永遠に若いまま。ここにもまた、幻とともに生きようとする男のいびつな姿がある。
過去の時間を巻き戻そうとする者、あるいは、ある時間のなかに永遠にとどまろうとする者。いずれもまた、同じくらい切なく、もの悲しいのである。

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