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Interview with Ásgeir

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インターネットを介して、グローバルに音楽やその情報が行き来するようになり、距離や時間の差が縮まりつつある昨今。遠く離れた土地の歴史や風土に育まれた音楽が喚起する想像力は、広がる余地がまだまだあるようだ。

ビョークやシガー・ロス、ムームといった唯一無二の個性をもつアーティストを輩出してきた北欧アイスランドから登場。昨年2月の「Hostess Club Weekender」における初ライヴから早くも3度目の来日を果たした22歳の若きシンガーソングライター、アウスゲイルは極東の島国である日本のリスナーをその幻想性によって、すっかり虜にしてしまったようだ。

本国では国民の10人に1人が手にしたという2012年のアイスランド語版のデビュー・アルバムによって国民的アーティストとなった彼は2014年に英語版アルバム『In The Silence』をリリース。バンドの生演奏とエレクトロニクスを交えた音楽世界は、北欧のボン・イヴェールともジェイムス・ブレイクとも評され、その才能は一躍世界に知られることとなったが、美しいサウンドテクスチャーの彼方からリスナーの想像力を刺激する彼の才能の輝きとは果たして?

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世界を見るようになって、オープン・マインドになった。

ー去年、英語版のアルバムが出てから、フジロックを含め、今回で早くも3回目の来日になりますが、この一年はツアーがずっと続いているんですよね。

「そうだね。4、5週間ツアーしては、1、2週間、レイキャビックに戻るという生活で、アメリカも2回まわったし、世界各地のフェスにも出させてもらったよ。まぁ、旅に出ずっぱりの生活は大変ではあるんだけど、アルバムを出してから、立て続けに3度も日本に来るアーティストは珍しいと聞いているから、すごく誇らしい気持ちだよ」

ー生まれ育ちはロイガルバッキという人口40人ほどの村だということですが、その後、移り住んだ人口12万人の首都レイキャビクから世界に出ていって、ものの見方はどう変わりましたか?

「出身のロイガルバッキは10分もあれば全ての場所に行けてしまうような小さな村なんだけど、そこから始まって、レイキャビクからこうして世界を見るようになって一番思うのは、視野が広がって、オープン・マインドになったということ。当初は他の国に出ると必ず地元に戻りたくなっていたから、ツアーが楽しめなかったんだ。小さな村ではあるけど、そこに必要なものは全て揃っていると思っていたから、外に出ていく必要を感じていなかったんだよ。でも、経験を重ねていくなかで、ツアーが出来ることに対して、感謝の念も湧いてきて、行く先々での出会いが楽しめるようになってきて、最近はいちいち故郷のことばかり考えなくなったよ(笑)」

ーその故郷で、10代のあなたは音楽と並行して、陸上競技のやり投げに打ち込んでいたそうですね。

「そうなんだ。本格的にやり投げをやっていたのは、13歳から18歳まで。僕の家族や親戚は運動が得意で、身内に陸上のオリンピック選手だった叔父ややり投げの選手がいたり、僕自身、高校生の時はやり投げのアイスランド代表だったから、当時は一日2回まとまったトレーニングの時間をとって、そのトレーニングの間には4時間くらいやり投げのDVDを見るっていう、そういう生活をおくっていた。思い返すと、冬の練習は本当にキツかったな。クリスマスの日もマイナス10度の吹雪のなか、薄着で外に出て、やりを投げてたんだけど、やりが地面に刺さらないくらい地面がコチコチに凍っているなか、一心不乱に練習していたよ。それからやり投げのコーチはギターの先生でもあって、しかも、彼は近所に住んでいたから、どちらもマンツーマンでみっちり教えてもらっていたし、彼のことが大好きだったから、一生懸命ついていこうと頑張ったんだ。そして、やり投げ同様、音楽も自分にとっては大事な存在だったから、ギターを弾いて、曲作りをしている時に行き詰まったら、外に出ていって、やりを投げたりしていたよ(笑)。そして、音楽とやり投げが両方あったからこそ、当時の自分はバランスを保っていられた気がするよ」

ー運動から音楽に大きく針が振れていったきっかけというのは?

「背中を痛めて、やり投げが出来なくなったことが大きいかもしれない。あ、でも、そうでもないか(笑)。やり投げが出来なくなった後、ウェイト・リフティングに転向して、2年くらいやってたからね。当時は体重も100キロくらいあって、今とは比べものにならないくらいガッチリしてたんだけど(笑)、同じ時期に趣味で音楽を作っていて、出来たデモテープをあちこちに送っていたんだ。そして、徐々にウェイト・リフティングから音楽に軸足が移っていって、体重は20キロ落ちたし、タバコを吸うようになって、ミュージシャンになったんだから、我ながらおかしな人生だよね(笑)」

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ターニング・ポイントはグズムンドゥ・クリスティン・ヨンソンとの出会い。

ー作っている音楽にはスポーティーな要素は皆無ですし、ライヴではMCもほとんどなければ、こうして話す口調も静かですから、人は見かけによらないというか、本当に意外な経歴ですよね。

「僕が作っている音楽からそうしたバックグラウンドは想像出来ないだろうね。でも、僕の姿勢は昔から全く変わってなくて、どんなものであっても、一度好きになると思いっきりのめり込んで、そこそこ出来るようになるんだ。ただ、音楽に関して言えば、いつかミュージシャンになりたいという夢は自分の頭の片隅にはあったと思うんだけど、真剣にその夢を追い求めようとは考えてなかったんだ。でも、周りから「アルバムを作ろうよ!」と持ちかけられるなかで、「プロデューサーをどうしよう?」と考えた時、ずっと前から尊敬していた(アイスランドで自身のテレビ番組も持っている大物プロデューサー)グズムンドゥ・クリスティン・ヨンソンに電話したんだけど、そうしたら、彼が僕の音楽を聴いて、「何とかしたい」と言ってくれたんだ。僕自身が信じきれずにいた音楽を、尊敬する人が強く信じてくれたことで、その後、音楽活動にフォーカスを絞ろうと思えるようになったわけだから、自分にとってのターニング・ポイントは彼との出会いが間違いなく一番大きいと思う」

ー影響の大きさという点では、2012年にリリースされたアイスランド語のアルバムは、ほとんどの曲の歌詞を今年74歳になる詩人のお父さんが書かれたそうですね。

「そうなんだ。父はみんなから尊敬されている詩人であり、もちろん、僕も彼のことを尊敬しているよ。父の書く詩は子供の頃から家のなかに溢れていたので、僕が曲を書き始めた時は父が書いた詩に曲をつけるような形で曲作りの真似事をしたこともあったし、今は僕のバンドのメンバーでもある兄が曲を作る時にも父は歌詞をつけたりしているから、自分の音楽作りはファミリーでやっているような感覚もあるんだ。ただ、アイスランド語の作詞は、古い伝統を踏まえながら、詩的な表現を追求するとなると、本当に難しいんだよ。いま、アイスランドのラジオでかかっているアイスランドの音楽は、英米のメインストリーム音楽と同じようにアイスランド語を使っているものが多いんだけど、そういう歌詞だとアイスランド語の詩的な響きが損なわれてしまうので、詩的で雰囲気があって、曲と溶け合うような歌詞をお願い出来る人として、父親のことがまっさきに思い浮かんだのは、自分にとって自然なことだったんだ」

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ベースになっているのはオーソドックスなシンガーソングライターのスタイルだね。

ーそして、サウンド面に関してですが、作品とライヴで聴くことが出来るバンドの生演奏とエレクトロニクスを上手く混ぜた表現は、当初から思い描いていたアイディアを形にしたものなんでしょうか?

「曲に関しては、レコーディング以前にすでに書いてあったし、アレンジもデモ段階でしっかり作ってあったから、明確なビジョンは持っていたんだけど、エレクトロニクスを主体とした楽曲に関しては、僕自身、シンセサイザーやドラムマシーンは持っていなかったし、プロデューサーを交えたスタジオでの自然発生的な展開だったかな。僕自身、ピアノやオルガンを演奏する母親のもとで育った環境、7歳から19歳までやってたクラシック・ギターや家で聴いていた教会音楽や聖歌の影響が土台にあって、そのうえで13、14歳の頃はカントリーやブルーグラスに入れ込んで、フィンガー・ピッキング・スタイルのシンガーソングライターをよく聴いていたから、自分の音楽のベースになっているのはオーソドックスなシンガーソングライターのスタイルだね。ただ、その後も色んな音楽を聴くようになって、アルバムを作る直前はボン・イヴェールだったり、ジェイムス・ブレイク、マウント・キンビーだったこともあって、アルバムの直接的な影響としてはそういったアーティストの存在が大きいだろうね」

ーそうした影響もありつつ、アウスゲイルの音楽は、空間の活かし方や北欧的な旋律、繊細かつクリアな音のタッチにアイスランドの出自を意識させるものがあるのですが、世界をツアーするなかで、気づかされたご自身の出自とその影響についてはいかがですか?

「世界を回ったことで、オープン・マインドになったと同時に、いくら走っても木が生えていない広大な景色や火山が広がるアイスランドの風景の独自性に気づかされたのは確かだよね。天気が悪いこともあって、アイスランドの人はいつもぐちゃぐちゃ愚痴ばっかり言ってるんだけど(笑)、アイスランドには愚痴を言うことなんてないなとも思ったよ。自分が音楽を作る時、アイスランドらしさを意識することはないけど、もちろん、アイスランドで生まれ育ったことは自分の音楽にも表れているだろうね。それがどういうものであるか、言葉では上手く説明出来ないけど、自分が生まれ育った環境が確かに影響していると実感出来る段階にようやく辿り着いたのが、今の自分がいる立ち位置だと思う」

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ー英語版に先駆けてリリースされたアイスランド語のアルバムから2年半。次の作品はどんな内容になりそうですか?

「書き始めてはみたんだけど、ツアー先ではなかなか難しいね。だから、地元に戻った時間に少しずつ曲作りを進めつつ、ようやくツアーに終わりが見えてきたから、いよいよ本格的な制作の準備に取りかかろうと思っているよ。実は、少し前までは次のアルバムのことを考えるとプレッシャーを感じたり、ナーヴァスになったりしていたんだけど、ここにきて、自分でも次のアルバムが楽しみになってきたんだ。そういう意味でようやく心の準備が出来たんだと思う。この2年半で世界を回って、色んな人やバンドと会い、色んな音楽を聴いてきたから、そうした経験が作品に反映されることになるんだろうね。

PROFILE

アイスランドの人口40人余りの集落、ロイガルバッキ出身のシンガー・ソングライター。2012年9月にリリースした自身のデビュー・アルバム『Dyrd í dauðathogn』が数々の記録を更新し、アイスランド史上最速で売れた国内アーティストによるデビュー・アルバムとなる。
2013年にはアイスランド音楽賞主要2部門(「最優秀アルバム賞」「新人賞」)を含む全4部門受賞したほか、Nordic Music Prize(北欧版マーキュリー的なアウォード)にノミネートされるなど一躍国内音楽界のスター・シンガー・ソングライターとなり、今では21歳という若さにしてアイスランドの全人口の10人に1人が彼のアルバムを所有している売り上げを誇る。2014年には英語ヴァージョンのアルバム『In the Silence』をリリース。同年2月開催のHostess Club Weekenderで初来日。続いて7月にはフジロック出演のため再来日し、さらには2015年1月に初のジャパン・ツアーも敢行。
海外オフィシャルサイト: http://www.asgeirmusic.com/