牧田耕平はなぜ、東京を離れたのか。その真相。
—まずは牧田さんが大阪に移った時期と経緯を教えてください。
2007年にMOTIVEを休止し、勤めていた会社も辞めました。当時の自分は32歳。東京に残ることも考えたのですが、年齢的なこともあり、いったんすべてをリセットしてモノ作りをイチからスタートしたいと思い、地元の大阪に戻ることを決めました。岡山のデニムや和歌山のカットソーなど、自分が好きなモノの産地が関西に多かったというのも理由のひとつです。
—大阪に戻った当初は何をしていたのですか?
古巣のフルカウントでデニムやカットソーの企画やデザインを担当していました。そのなかで改めて思ったんです、やっぱり服作りって面白いなと。
—その後、THE UNIONを立ち上げたきっかけとは?
大阪に戻った最初の頃は、再びブランドをやろうとはまったく思っていませんでした。きっかけは、フルカウントで、今いっしょにTHE UNIONをやっている西村(顕)に出会ったこと。西村は自分と同じでモノ作りが好きで、いろいろと話しているなかで共感できることが多く、じゃあいっしょにやろうかと。そうこうしているうちに、同じ価値観を共有できる北村(大樹)にも出会って。そうして3人で始めたのがTHE UNION。2009年の12月のことです。
—“UNION”は「連合」「組合」といった意味ですが、そのように名付けた狙いとは?
MOTIVE時代は洋服、小物、リメイク、デニムなどをひとりでやっていましたが、ひとりでやれることに限界を感じていました。もっとひとつひとつの製品に作り手の思いやストーリーが込められたモノ作りはできないものかと。西村は工場を持っていて、小物関係のモノ作りを得意としているし、北村は古着の卸をやっていて、アメリカへ頻繁に買い付けに行っている。そういったひとりひとりの得意分野をひとつひとつ分業化してブランド化していこうというのがTHE UNIONの基本姿勢。THE UNIONはそれぞれの分野のプロフェッショナルの集合体であり、スペシャリストたちの“組合”なんです。また、MOTIVEのときは僕以外にも営業や生産がいましたが、結果として僕ばかりに光が当たっていた。でもTHE UNIONではみんなに光を当てたい。そう考えています。
設立から5年。手応えと実感。そして大阪での物作りについて。
—THE UNIONではすべてのブランドに「THE」がついていますよね。
そうですね。西村がやっている小物のブランドは「THE COLOR」、北村がやっているリメイクブランドは「THE ONE SHOW」といったように。最初はこの3つで始まって、その後はレディースブランドの「THE MERMAID」、ガジェットブランドの「THE THINGING」、サーフカルチャーブランドの「THE WOOOPS」、デニムブランドの「THE OVERALLS」と、すこしずつ増えていきました。それぞれにデザイナーがいて、それぞれのやり方でモノ作りをする。僕は洋服のブランド「THE FABRIC」をやりながら、ディレクターとして全体を統括する。そのようなかたちでTHE UNIONは構成されています。
—THE UNION設立から5年が経ちますが、手応えはいかがですか?
じわじわと広がっていっているという実感はあります。それも大阪でやったからこそなのかなと。まわりには損得勘定を抜きにして面白いことをやっていこうという気概を持った人が多いので。
—東京から大阪に移り、環境が変わったことは、牧田さんのクリエイションに影響を与えましたか?
大きく変わったと思います。12年間暮らした東京では都会のど真ん中で仕事をしていて、あらゆる面でスピード感を感じていました。それはそれで楽しかったし、あのときの経験は下地として大きかったと思います。お世話になった人もたくさんいるし、東京には感謝しかないです。そして今、大阪では、親父と兄貴がやっている鉄工所の一角にアトリエ兼作業場を構えています。ミナミやキタといった繁華街から離れた、東住吉の工場エリアの一角です。アットホームな環境で、東京とはスピード感はまったく違ってのんびりしていますが、居心地はいいですよ。気の合う仲間もたくさんいるし、周辺には安くて美味しいお店も多いし。ただ、好きなもの自体は昔から変わらないかな。デニムだったり、アメカジだったり、古着のリメイクだったり。
—最後に、今後のヴィジョンを聞かせてください。
たとえば、THE MERMAIDを着ている彼女と、THE FABRICKを着ている彼氏がいたとして、「どっちもTHE UNIONじゃん」となったときに、ストーリーが完結するというか。THE UNIONのブランドなら間違いない、そんな存在を目指していきたいですね。