小径逍遥、再び。
青野賢一
ビームス クリエイティブディレクター / ビームス レコーズ ディレクター
「ビームス創造研究所」所属。選曲・DJ業、執筆業。音楽、ファッション、文学、映画、アートを繋ぐ。
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No.35 潮だまり
2012.05.07
先頃、44回目の誕生日を迎えた。
4月の後半は、色々な場所で多くの方にお祝いいただき、
有り難い限りである。
この場を借りてお礼を申し上げたい。
そういう時期だからかどうか、定かでないが、
子どもの頃に興味を持ったものを、最近改めて思い起こしている。
ひとつひとつ挙げて解説していくには
あまりに取り留めのないものだし、
他者にとってはさほど面白いものでもないだろうから割愛するが、
その中で、自分でも興味深かったものを
ひとつだけ書かせてもらおう。
海には、潮の満ち引きがある。
岩場のある海だと、潮が満ちている時には姿が見えず、
引き潮の時にひょっこり顔を覗かせるものがある。
潮だまりだ。
もう随分と昔のことだから、
地名などはすっかり抜け落ちてしまっているが、
子どもの頃に連れていってもらった海に
この潮だまりがあって、とても興味を惹かれた私は、
夢中になってずっとそこを覗き込んでいたものだった。
とある雑誌の原稿執筆の資料として、
南米ウルグアイ出身のフランス人詩人
ジュール・シュペルヴィエルの代表作『海の上の少女』を読んだ時、
この子ども時代の記憶が甦ってきた。
作品中に、潮だまりは出てはこないが、
「水に浮かんでいるこの道はどのようにしてできたのだろう?」
という冒頭の一節(綱島寿秀訳/みすず書房)が、
記憶のトリガーとなって、潮だまりを想起させた。
潮だまりの魅力とは何であろうか。
それまで存在していなかった(とされる)ものが、
干潮で出現する不思議さが、まず挙げられる。
そして、そうした自然の作用を利用して、
そこに棲息する生物の面白さもある。
しかし、何より興味深いのは、
潮だまりの、海であって海でないという両義性だ。
満潮時には「潮だまり」という名前すらなくなってしまうのに、
干潮時ともなると、名前を与えられてそこに現出するわけで、
存在そのものが非常に曖昧であり両義的、
簡単にいうとどっちつかずなものなのである。
この両義性は、例えば19世紀以降のパリに多く存在した
パサージュと同様のものではないだろうか。
つまり、どちらも入り口であり出口、
屋外であるのに(屋根つきの)内的な要素を持っている、
というこの「曖昧な」存在は、
海であって海でない潮だまりのようであり、
また、パサージュに軒を連ねる様々な商店が、
パサージュに適したショーウインドウや軒先の意匠を備え、
いわゆる路面の商店とは異なる発展をせざるを得なかったのと同じく、
潮だまりに棲息する生き物が、大海原を自由に泳ぎ回る生き物とは別の
独自性を体得した、というところにも双方の共通点を見いだせる。
「どちらともつかないもの」に魅入られ、
40数年が経過してしまった。
これからも、小径をふらふらと彷徨いながら、
そんな物事に足を止め、眺め、調べ、感じ、驚くことだろう。
このパサージュは、果たしてどこまで続くのだろうか。
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