伝説の登山家、ラインホルト・メスナーがフイナムに降臨。
2011.08.02
8000メートルを超える14の山々を最初に制覇した登山家、ラインホルト・メスナー。シリアスクライマーたちにとって「神」と称される、この伝説の人物が自ら原作者を務める映画『ヒマラヤ 運命の人』の公開を前に緊急来日! 生ける伝説に触れられる絶好の機会ということでフイナムでもインタビューを申請。が、許された時間は僅か10分。そこで、インタビュアーとして〈ホグロフス(HAGLOFS)〉などの輸入代理店「フルマークス」に勤める田中嵐洋氏を招聘。限られた時間のなかでお話を伺ってきました!
Interview_Ranyo Tanaka(FULLMARKS Inc.)
ラインホルト・メスナー
1944年、南チロルのフィルネスで生まれ、5歳で3000メートル級の山に登る。8000メートル峰14座すべての登頂に成功。また、冒険家としてのみならず数多くの著書を手がけるなど、創作者としても才能を発揮している。
www.reinhold-messner.de/
―映画『ヒマラヤ運命の人』に描かれた出来事は、弟の死や下山後の初登攀に関する度重なる訴訟など、ご自身にとって決して良い思い出とは言えないと思うのですが。
メスナー:確かに私自身にとって、ナンガ・パルバートの初登攀は決して良い思い出とは言えないかもしれません。特に雪崩による弟ギュンターの死は、とても悲しい出来事であり、今でも責任を感じることがあります。それでも私は、この事故については何度も思い返し、多くの本を書き、ナンガ・パルバートへも足を運び続けていくなかで、自分なりに心の整理を付けてきました。
―そのうえで、こういった出来事を何故今、映画化しようと思ったのでしょうか。
メスナー:タイミングに関しては、これまで私も含め誰もこの物語を映画化しようと思わなかったから、今になったというだけですね。映像作品として残すお話はありましたが、実際に映画を作るというのはプロジェクトとしてとても大きくなってしまうので、実現はしていませんでした。それにこの物語を撮りたい監督がいなければ始まりませんからね。
―なるほど。映画化を決意した理由についてはいかがですか。
メスナー:この山で起こった出来事が映画に値するストーリーだと思い、映画化を決心したんです。そこで自ら監督のヨゼフ・フィルスマイアーへ手紙を送り、話を具体的に進めていきました。フィルスマイアーがこの物語を英雄の物語ではなく、兄弟愛や命について描こうとしてくれたことには、とても感銘を受けました。なぜなら、それは私自身の想いと共通する部分だったからです。
―実際、映画製作においてどういった役割を担ったのでしょうか。
メスナー:原作者としてだけではなく、俳優への助言、ピッケルの打ち込み方からその音、さらには撮影場所の手配や雪崩のときの対処方法、高所の撮影での天候の把握など、アドバイザーとして様々な形で尽力しました。そういえば、当時のテントや衣装を再現するために実際のメモを提供することもありましたね。
―実際にナンガ・パルバートでの撮影の際には、当時の想いが甦ったりはされなかったのですか。
メスナー:撮影中は作品作りに集中していたので、さほど感じなかったんですが、編集作業で撮った映像を確認していると、様々な想いが巡りました。気持ちの整理は自分なりに付けてはいますが、下山途中で起こった悲劇を再現した映像を見ることに、大きな葛藤があったのは事実ですね。
―映画を通して伝えたいメッセージはありますか。
メスナー:これは真実の物語です。メッセージを謳うのではなく、現実に起こった事柄を、そのまま再現しています。つまり、私自身はこの映画を通して、何かメッセージを発しようという意図はありません。ただ、見て頂いた方々の判断にもよりますが、何か感じてもらえる作品に仕上がっているという自信はあります。
―それでは最後に、今後の活動予定を教えてください。
メスナー:これまで登山家として8000メートル峰14座を制覇し、その後は南極大陸やグリーンランド、ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠も横断。さらにはイエティの研究、政治活動、ディアミールでの学校建設支援など、あらゆることに挑戦し、多くのことを学んできました。そして今回の初めての映画製作では原作者、アドバイザーとして関わったのですが、これが実に面白い経験でした。
―ということは、今度は映画を撮るのですか?
メスナー:名言はできませんが、興味を持ったのは事実です。ただ、映画製作というのはプロジェクトとしてとても大きくなるので、すぐに実現できるとは限りません。
―とはいえ、非常に楽しみです。これまで様々な困難を実現してきたメスナーですからね。完成を心待ちにしておきます。この度は、ありがとうございました!