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フイナムテレビ ドラマのものさし『おやじの背中』

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『おやじの背中』 TBS 日曜21時
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公式HPより
"おやじの背中"は何を語るのか。
不言実行、男はことばじゃなく背中で人生を語るもんだ...などという言い方がある。「自分、不器用なんで...」とコートの襟を立てて去っていくケン・タカクラのイメージだが、そんなアティテュードはもう流行らないのだろうか、とドラマ『おやじの背中』を見ていて考える。

倉本總、山田太一、三谷幸喜、岡田惠和、坂元裕二、木皿泉ら日本を代表する10人の脚本家が集結してオリジナル脚本を書き、毎回異なるキャストによる1話完結のホームドラマをつくる。タイトルは『おやじの背中』。このニュースを知った時には「おお!」とうれしい悲鳴を発したものだ。プロデューサーは『うちの子にかぎって...』『オヤジぃ』など、田村正和とのタッグによるヒットドラマを手掛けてきた八木康夫。

7月13日放送の第1話は、『続・最後から二番目の恋』も記憶に新しい岡田惠和脚本の『桂さんと瞳子さん』で静かに幕を開けた。舞台は東京郊外の国分寺。ビートルズの『ヒア・カム・ザ・サン』の調べに乗せて、古い民家の台所で松たか子演じる「瞳子さん」が焼き魚と玉子焼き、ニンジンとホウレンソウのゴマ和えの弁当をつくっている。そこに田村正和演じる父親の「圭さん」が入ってきて、「おっと。瞳子さん、弁当の蓋、閉めた?」と聞く。どうやら、おかずが何か分かってしまうと昼飯の楽しみが半減する、ということらしい。瞳子さんに促され、圭さんは自宅の前を流れる湧き水で珈琲を淹れるための水を汲みに外へ出る。

...という出だしからして、もう名作の予感しかしない。桂さんの妻が亡くなり、娘とふたりだけで静かに、そして丁寧に暮らしている様子が開始5分でわかる。父と娘がお互いを「さん」づけで呼び合う理由は物語の終盤に明かされるのだが、寄り添うようにして生きてきたふたりきりの時間にも、やがて終わりが訪れる。

ここには、「おやじの背中」ということばから連想される「がんこおやじの威厳」といったニュアンスは皆無だ。幼少期、自分をかばって母親が交通事故に遭い亡くなったことからパニック障害を患っている瞳子さんに対して、「あなたが名前を呼んでくれたら、すぐに飛んで行くから」というキャロル・キングの名曲『ユーヴ・ガット・ア・フレンド』の歌詞のごとく接する圭さんはひたすら優しい。「枯れ専」な方々が喜びそうな老執事感すら醸し出す田村正和の佇まいと相まって、うつくしい暮らしを営むうつくしい父娘がそこにいる、という感じだ。しかし、よく考えてみると、これは妻を失った父親に対して娘が妻の代わりをしているという、かなり奇妙な(現実にはおそらくありえない)暮らしでもあるのだ。

お互いに恋人が出来たと誤解して嫉妬し合うくだりは、あたかも恋愛感情がそこにあるかのように描かれているし、瞳子さんが発作の恐怖からひとりで寝ることができないというエピソードがさらりと圭さんの口から出るが、ということはふたりはいつも一緒に寝ているのかと想像するわけで、病気のことがあるとはいえ、70歳の父と35歳の娘が一緒に寝ているというのも実に奇妙な父娘関係といえよう。妻が亡くなった日から娘が妻に、母を失った娘はその日から父の妻になった、ということか。田村正和と松たか子なので不自然さはないが、設定自体を「気持ち悪い」と思うひとがいても、まあ不思議ではないだろう。

最大の疑問は、「おやじの背中」というお題はどこにいったのだろうということだ。父が子どもに背中で語りかける、ことばを超えた教訓なりメッセージってやつは? コートの襟を立てて去って行くケン・タカクラは? 視聴者が期待したのはその辺りではないかと思うのだが、フタを開けてみたら「夫婦のような父娘のハナシ」だった...という期待と結果のズレが生じたからなのか、1話の視聴率は15.3%とそれなりに好調だったにも関わらず、2話では9.2%と1ケタになり、以後2ケタに戻ることなく横ばいに(6話に至っては7.7%)。

八木プロデューサーと田村正和は過去さまざまなヒットドラマをともにつくってきた間柄ゆえ、この企画のしょっぱなに田村を持ってきたかったのはわかるのだが、視聴者目線で見ると、ここでボタンを掛け違えた可能性はある。が、『最高の離婚』の坂元裕二が脚本を手掛けた2話の『ウエディング・マッチ』、『すいか』『Q10』の木皿泉脚本の5話『ドブコ』はさすがの面白さで、これが視聴率1ケタってありえないでしょうと思うものの、初回のつまずきはなかなか取り戻せないのかもしれん。いや、1話も内容的につまずいている訳では決してないのだが、みんなの見たかったものとはちょっと違ったのかもしれないな、という気はする。

そして、『おやじの背中』というタイトル自体、ヒットとは縁遠いのかもしれない。なぜなら、今ひとびとがいちばん見たくないのが「おやじの背中」、聞きたくないのが「おやじの説教」ではないのか。たとえば昨年ヒットしたドラマに『三匹のおっさん』があったが、「おっさん」という響きにはどこか可愛げがあるが、「おやじ」にはそれがない。『父の背中』じゃだめだったのだろうか。あるいは父にこだわらず、『父の背中、母の味』とか。
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公式HPより
それはさておき、2話の『ウエディング・マッチ』は、元・ボクサーの父・草輔(役所広司)とオリンピックを目指す女子ボクサーの娘・誠(満島ひかり)の愛憎物語だ。親が果たせなかった夢を子どもに半ば強引に託すなんていうのは子役やアイドルの世界でもよく耳にする話ではあるし、家族という閉域においては、親が押し付けた夢がいつしか親子共通の夢になることも珍しくはない。夢といえば聞こえはいいが、それは呪縛であり、言ってみれば狂気の世界だ。

冒頭、草輔が「ハロプロのコンサートを見に来たデビュー前の松浦亜弥のエピソード」を誠にとうとうと語るシーンがある。一見唐突にも思えるが、「親が果たせなかった夢」の象徴としてアイドルの話が出るのにはそれなりの意味があるのだろう。そして、ボクシングに捧げてきた日々を思い返し、「夢を見るのって刑務所に入るようなもんだったよ、お父さん。」と言う誠のことば通り、ふたりは夢という名の狂気の城に囚われたまま生き続ける。

他人には理解できなくても、彼らはそれでしあわせなのかもしれない。罵り合い、嫉妬し合い、拳を突き出し、それを受け止める。ボクシングのトレーニングがまるで性愛の行為の応酬に見えるのは気のせいでも考え過ぎでもない。父と娘がボクシングをする姿を愛と憎しみが交錯する恋愛、もっとはっきり言えばセックスの代替行為として描いているのだ。

娘に誠という男子のような名を付け、生まれた時からボクサーとして育てようとする父親は、娘のかたちをした息子を育てているようなものだ。「今立ち止まったら悲しみにおぼれてしまう。進まなきゃ。」という『風の谷のナウシカ』のセリフを引用しつつ、「私、つらい時はいつもナウシカのこと考えてました。」と吐露する誠。ここでナウシカが出てくるのも唐突なようでいて意味があるはずだ。ナウシカもまた、少女の見た目で少年のような活躍を周囲に期待される存在なのである。

誠の母親は生きているが、娘が父の妻であり愛人のようなものだから、当然ながら母親の居場所はない。これまた実にいびつな父娘関係だ。
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公式HPより
8月24日放送の7話は、杏の実父の渡辺謙と、杏と交際中といわれる東出昌大の共演という下世話な関心を集めそうなキャストで、しかもタイトルが『よろしくな。息子』。さらに脚本がドラマ界の巨匠・山田太一センセイということもあり、視聴率は9.7%とやや持ち直した。

内容は、これまで山田太一が繰り返し描いてきた「本来出会うはずのない者たちがひょんなきっかけで出会い、互いの人生観に変化が生じる」話のダイジェスト版と言ってよいだろう。渡辺謙演じる浩司という男は靴職人というより靴オタクと言ったほうがよさそうな社会性のない男で、見合いを断った泰子(余貴美子)をあきらめきれず、その息子・祐介(東出)のバイト先のコンビニをこっそり覗いている時、コンビニ強盗に出くわす。そこでの祐介の冷静な態度に感銘を受けた浩司は、自分の仕事を受け継いでほしいと提案する...。

突拍子もない展開と思うだろうか。しかし、靴づくりにのめり込んで生きてきた浩司が、突然目の前に出現したコンビニ強盗にビビることなく、冷静な対処をした青年の姿に心地よい衝撃と感銘を受けたであろうことは想像がつく。もちろん、母親との結婚という前提があるとはいえ、自分にないものを持った若い世代に眩しさを感じ、これまで自分が培ってきたものを託してみたい気持ちになることは、一定の年齢を重ねた男(女性も?)には身に覚えがあるのではないだろうか。この靴職人の姿はそのまま山田太一自身だろうし、渡辺謙にもダブって見える。「日本人の足をいちばん良く知ってるのは日本人なのに」という浩司のセリフは、日本人に合うドラマをつくり続けてきた山田太一の脚本家としての矜持ではないか。

そして、重要なのは、これがコメディだということ。演出がややシリアスに傾いていたためそのニュアンスが薄くなっているものの、前半部は特に笑えるシーンが多かった。山田太一のルーツである松竹大船の木下恵介監督の作風に...なんてことを言い出すといたずらに文字数が増えるだけなのでやめよう。

残すところ後3話で終了だが、1話完結の、小説でいえば短編のオムニバス集のようなドラマをつくるのはおそらくとても難しい。キャラクターへの愛着が生まれる前に終わってしまうから、話自体の骨格やセリフの構築がしっかりしてないともたない。ベテランの仕事ぶりを堪能するのもいいが、もし次にこうした企画があるとしたら、今度はもっと若い脚本家にも場を与えてほしいなとは思う。あるいはベテランの脚本を若い演出家に託すとか。

渡辺謙演じる浩司が若者に技を継承しようとしたように、日本のドラマづくりの技を次の世代に伝えていくことは、これからのドラマ界にとっても重要だろう。そして、「巨匠の脚本、つまんねー」と言って乗り越えていく若者が現れれば、それこそが最もすばらしい「おやじの背中」になるのではないだろうか。
※2014年8月26日公開。