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ネペンテスのこれまでとこれから。

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創業から27年。ネペンテスの総括について。

―27年ともなると、本当に様々な紆余曲折があったかと思います。新店舗に映ったタイミングで、これまでの「ネペンテス」の話を色々とお伺いできたらなぁ、と思いまして。

色んなことがありましたよ、本当に(笑)。様々なことに挑戦し、成長してきたと思います。「ネペンテス」をはじめた頃は、日本人が誰も知らないようなアメリカのアウトレットに行って商品を買い付けていたんです。今ではここ日本にもアウトレットモールなんかができていますけど、当時の日本にはまだありませんでしたからね。あとはアメリカのデパートのダブルネーム(コラボレーション)を買い付けたりして、とにかく他のショップにないものを集めていました。

―その頃には、盟友であり〈エンジニアド ガーメンツ〉のデザイナーの鈴木大器さんと共に働かれていたのでしょうか?

大器にはバイイングを任せていました。初めて出会ったのは、「ネペンテス」を始める前にやっていた「レッドウッド」というお店でした。はじめはそこのお客さんとして遊びに来ていたんですが、すぐに一緒に働くことになって。で、自分が「レッドウッド」を辞めた後は大器が店長になりましたが、彼もすぐも辞めてしまいました。それで自分が「ネペンテス」をはじめてすぐ、大器にアメリカに買い付け行ってほしいと頼んだんですよ。

―では、「レッドウッド」時代からの付き合いで、なおかつ「ネペンテス」創設時からずっと一緒というわけですか。

そうです。当時は向こうのシッパーさんを通して仕入れるのが普通で、それだと他のお店とも差別化できませんでした。シッパーさんはうちのお店だけでなく、もちろん他のお店にも卸していたわけですからね。だから「ネペンテス」をスタートする時から、現地にスタッフを送り込んで直接買い付けをしたいなぁって思っていたんです。

―それで、鈴木大器さんがバイヤーとして「ネペンテス」に携わることになったわけですね。

大器は感覚的に一番合うってわかっていましたし、やりたいビジョンも同じ方向だったから話が早かったですね。自分がいいと思うものを彼なら見つけられるだろうと確信していました。

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ー自分の分身のような存在だったわけですね。

そういっても過言ではないかもしれませんね。それで最初は2000ドルだけ渡して、モカシンなどで有名なニューイングランド地方というところに買い付けに行ってもらったんです。もちろん最初は英語もできないし、泊まるところも決まっていません(笑)。彼は非常にバイタリティがある人間なので全然心配していませんでしたけどね。あとはご存知の通り、どんどん現地のカルチャーにも入り込んでいきました。彼の開拓精神は私の予想を越えていましたね(笑)。

―なるほど。清水さんの右腕として、そしてバイヤーとしての道を歩んでいたのですね。

その後、徐々にアメリカ人の若手デザイナーにも注目して結局的に買い付けを行ったり、その傍らではヨーロッパで〈ルイジボレッリ(LUIGI BORRELLI)〉や〈JM.WESTON〉などに別注でアイテムを作ってもらったりしていたんです。そういった取り組みは、当時ではかなり珍しく、そして先進的なことだったのではないか思います。

―今でこそよく見かける別注というスタイルですが、当時はまだまだ確立していなかったんですね。

そうだと思います。ですが、そのやり方が評価され始めると、当然同じようなこと始める人たちがいますよね。で、自分たちはオリジナルブランドを始めようってなったんです。それとほぼ同じくらいの時期、だいたい92年くらいの頃に大器が〈オパス(OPUS)〉というブランドをはじめました。それが今の〈エンジニアド ガーメンツ〉の前身ブランドみたいな感じですね。

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ーなるほど、〈オパス〉も〈エンジニアド ガーメンツ〉同様にアメリカ生産だったんですか?

そうなんです。もうその頃には大器は英語もペラペラでしたし、工場の人ともずいぶんと仲良くなって、ほぼ毎日入り浸っていましたね。一方、その頃にはアメリカの生産自体がすごく難しくなり始めていて、結構数を作るのに苦労していました。そこで一度〈オパス〉をストップすることになったんです。

―〈ニードルズ〉はいつ頃誕生したのでしょうか。

ちょうど〈オパス〉をストップしたくらいに、僕が日本で〈ニードルズ〉をスタートさせていましたね。大器とは表現方法が少し違うだけで、方向性は同じだったので。しかし、大器がニューヨークでもう一度生産しようという話をしてきました。彼は以前よりも工場側に入り込んでいって、今使われていないようなミシンを購入し、自ら縫子さんに縫い方を説明したりして、育てていったんです。

―そうして誕生したのが〈エンジニアド ガーメンツ〉ですか。

そうです。努力の甲斐あって、生産もどんどんアップしていき、海外のショーに出たりするようになりました。タイミング的にもアメリカンクラシックというのが注目されていましたし、自分達でいうことではありませんが、〈エンジニアド ガーメンツ〉はアメリカンクラシックという流れにかなり影響を与えたと思います。

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