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マスターピースがジャパンメイドにこだわる理由。

2011.10.21

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プロユースの機能性を持ちながら、"日常"で使うことを第一の目的に考えているバッグブランド〈master-piece〉。1994年のブランド創立以来、機能美という言葉にピッタリなプロダクトを数多く生み出してきました。そんなバッグ作りを支えるのは、自社工場〈BASE OSAKA〉をはじめとする日本の職人達だったのです。

Photos_Tomoyo Yamazaki
Text_Jun Takahashi

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左:野村 広夫
1931年生まれ。master-pieceブランド立ち上げ当初からバッグのサンプル作成を引き受け、定番シリーズ「OVER」「INDY」シリーズを作製。現在はBASEのゼネラルマネージャーとして若き職人たち、工場の運営を熱く指導中!

右:富士松 大智
1970年生まれ。master-pieceディレクター。バッグを日々デザインし続けている。休日の過ごし方は大好きなサーフィンと、3人の娘と遊ぶこと。

信頼する職人達との出会い。

―master-pieceが自社工場を作ろうと思ったきっかけとは?

富士松:まだマスターピースがスタートしたばかりの時は、できたてのブランドで少数生産にも関わらず、無理を言って一般の工場に作ってもらっていました。そんな工場さんたちのおかげでブランドが少しずつ大きくなり、大量生産ができるようになったのですが、今までお世話になってきた職人さん達に恩返しがしたく、ずっと国内のメーカーで作っていました。決して海外の工場が悪いというわけではなく、それ以上に日本の職人さんたちの器用で繊細なもの作りが良かったんですね。〈master-piece〉の在り方としては、信頼できる職人さん達と一緒に名前の通り「傑作」を作っていきたいな、という考えがありましたから。そうしてバッグを作っていると、お願いしている工場さんでの「職人の高齢化」という実情を見ました。更に後継者がいない、と。これは日本製を世に送り出すウチのブランドとして良くないし、何より日本が誇る素晴らしい職人さんが消えてしまうのは大問題だと考えたんです。そこで自社工場を構える決意をしました。まず、いつもお願いしていたメーカーの社長だった野村さんに工場を運営していく相談したんです。

野村:その当時、すでに私は引退していたのですが、富士松さんに一緒に「傑作」というブランド名のバッグを作ろう、と声を掛けて頂いたのがすごく嬉しくて、二つ返事でOKしました。そしてすぐにいろんなメーカーに連絡して、信頼できる職人を集めました。元々〈マスターピース〉のバッグを作っていただいていた方たちだったので、話しは早かったですね。

―そこからトントン拍子に今日のBASE OSAKAが生まれるのですか?

富士松:最初は5名の職人で作っていました。それがどんどん規模が拡大して東大阪に引っ越し、3年前、ここ天王寺に「BASE OSAKA」という名前を冠した工場を、始動しました。現在、40名がここで働いています。

野村:こんな大規模の自社工場を持つバッグメーカーは本当に珍しい。富士松部長の製品に対する厳しさからか、みんなしっかり働いています(笑)。

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