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草彅洋平(東京ピストル)株式会社東京ピストル代表取締役1976年東京生まれ。あらゆるネタに対応、きわめて高い打率で人の会話に出塁することからついたあだ名は「トークのイチロー」。インテリア会社である株式会社イデー退社後、2006年株式会社東京ピストルを設立。ブランディングからプロモーション、紙からWEB媒体まで幅広く手がけるクリエイティブカンパニーの代表として、広告から書籍まで幅広く企画立案等を手がける次世代型編集者として活躍中。www.tokyopistol.com/

トークのイチロー就活日誌

草彅洋平(東京ピストル)
株式会社東京ピストル代表取締役
1976年東京生まれ。あらゆるネタに対応、きわめて高い打率で人の会話に出塁することからついたあだ名は「トークのイチロー」。インテリア会社である株式会社イデー退社後、2006年株式会社東京ピストルを設立。ブランディングからプロモーション、紙からWEB媒体まで幅広く手がけるクリエイティブカンパニーの代表として、広告から書籍まで幅広く企画立案等を手がける次世代型編集者として活躍中。
www.tokyopistol.com/

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DJ iPSはいかにして誕生したか?(2)

2012.12.21

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←前編はこちら

礼儀正しく、普通に面白い話をしてくれる、どこにでもいそうなおじさん。
それが秋葉原の居酒屋ではじめて出会った森口尚史氏の印象でした。

かなりお酒が好きなご様子で、楽しそうに飲んでくれると私まで楽しくなってきます。
そこで話して分かったのは、意外な音楽好きという姿でした。

「音楽はむかしは相当やってたよ。バンドマンだったからね。その後ベッドルームテクノにはまってね。デリック・メイジェフ・ミルズケヴィン・サンダーソンが出てきた時の衝撃は忘れられない。最近読んだジュリアン・コープの『ジャップ・ロック・サンプラー』は名著だね!」


先生のペースに釣られ、不覚にもベロベロに酔ってしまったため、上記のお話が正確な記憶かどうかは不確かですが、初対面に関わらず森口氏は楽しそうに話してくれました。

無学な私にとって先生の話は高尚そのもので理解できない部分も多々ありました。
ですが、話が盛り上がり、尽きることがなかったのは事実。
すっかり酩酊していた私は「先生も今後ラップで一本やってみませんか?」と今思えば大変失礼なことを提案したのですが、森口氏は大変上機嫌で、すぐに即興でラップがはじまりました。

上の2曲がその時に生まれた曲です。特にSAIBOはいま聞いても即興とは思えぬ神曲!
「細胞→最高」との韻の踏み方も一級のライム、Pitbullを意識した笑い声のカオスっぷりが素晴らしいとしか言いようがありません。


すっかり驚いた私は機を見て先生に提案をしました。

「実は今年からその年一番話題になった方にDJをして頂く忘年会を開催しようと考えているのですが、そこまで音楽がお好きならうちの忘年会でDJをお願いできませんか?」
「やろうやろう」
「名前は、そうですね...。例えばDJ iPSでもいいでしょうか?」
「もちろんいいとも!」

「笑っていいとも」のごとく常に同意してくれる先生はまさにオファーする側にとって神様。
こうしてわずか数時間の邂逅でDJ iPSが誕生したのです。
この時点で各メディアが報道したような「タレントになる」という野心は先生には皆無。
純粋に音楽をやろうと話した結果のDJデビューだったわけです。

居酒屋の終盤、先生は夢から覚めたかのように今後の人生について悩んでいました。
「マスコミはどう責任とってくれるんじゃ〜」
確かにです。誤報をした彼らの責任のとり方は公共の電波で森口氏をガン絞めするという手法でした。それはあまりにも重すぎる懲罰。その公開処刑の結果を帰り道で目撃することができました。先生を駅までお送りしようとしていると、マンガ「闇金ウシジマくん」の1-3巻に登場するかのようなガラの悪い金髪チンピラに先生が絡まれたのです。

「おめー、知ってるぜ〜。ウソツキだろう〜」

すかさず私ともう一名でフォローして、金髪DQNにニラミを効かせつつ先生を連れて電車まで送り届けました。
和製テレンス・リーこと武闘派として名の知られた私が鬼ガンを飛ばさなければ、確実に因縁を付けられていたでしょう。
まさにピンチの連続。
「これが大人のウソの責任のとり方なのか...」
私は森口氏の身に迫る危険指数100%に衝撃を受けました。

(これがもし俺だったら...耐えられるわけがない...)

当たり前の事実ですが、先生はもはや単なる音楽好きではないのです。
別れた後、一人ホームに佇む先生は、また帰りにさまざまな人から嘲笑を受け、からかわれる可能性に怯えて生きねばならない十字架を背負っていました。
そのとき私は先生の背中にはじめてサウダーヂを見たのです。

つづく