俳優という仕事を見つめ直した、ある監督との出会い。
ー光石さんを紹介するときに「名バイプレイヤー」という呼称は外せないですよね。いつ頃からそう呼ばれるようになったんでしょう?
光石: やっぱりドラマ『バイプレイヤーズ』がきっかけじゃないですかね。あれがタイトルとして強烈で、それ以来、出演者の僕らのことをみんな「バイプレイヤーズ」って呼ぶようになったんです。
ーなるほど。あの出演者の皆さんは元々親しい関係だったんですよね。
光石: そうですね。僕が50歳くらいの時に出演したんですが、その10年以上前に下北沢の小さな映画館で映画祭があったんです。みんなでそれぞれ映画を5本ずつ持ち寄ってね。それが2000年のちょっと前かな。そこで集まった時に、大杉漣さんが「このメンバーで映画をつくったらおもしろいよね」っておっしゃっていたんですよ。それから10年以上経って、ああいう形になったんです。
ー光石さんのデビューは、高校時代にオーディションで合格した映画『博多っ子純情』です。
光石: 中学生の3人組が主人公の話なんですが、実際に友達3人で「オーディションを受けてみようぜ」となって挑戦しました。オーディションでは芝居をするというよりも、素のままで行きました。前日にケンカして顔を切って行ったら、審査員に「どうしたの?」って聞かれて「ケンカしました」と答えたら「ちょっとやってみて」と言われて。ふざけて真似したらウケたんです。それがおもしろかったのか、次は「酔っ払いの真似して」言われてやったらまたウケて、炭坑節を歌えば大爆笑で。その勢いで合格しました。
ーすごい度胸ですね。
光石: いや、やっぱりひとに笑ってもらうのが好きなんですね。子供の頃からそうで、勉強も運動も突出してなかったけど、ちょっとしたモノマネや変な返事でみんなが笑ってくれるのが嬉しくて。「これが自分の生きる道だ」ぐらいに思っていました。ただ子供の頃はふざけて大人から叱られてばかり。「うるさい」「静かにしろ」「落ち着きがない」と。でも映画の世界のひとたちが初めて「君、おもしろいね」と言ってくれたんです。それが本当に嬉しかった。大人に認められた瞬間でしたね。
ーその後、高校を卒業して東京へ上京されます。九州を出たい気持ちが強かった?
光石: もう出たかったです。早く東京に行きたかった。俳優になれば東京に行けると思って。当時は1970年代で、誰もが映画館に行く時代でしたが、僕自身は特別に映画が好きだったわけではなくて、休日に友達と観に行く程度でした。何かの作品を観て雷に打たれるようにして、俳優を目指したわけじゃないんですよね。
ー観る側ではなく、最初から出る側だったんですね。
光石: そうなんです。映画をつくっている大人たちに憧れたんです。Tシャツにジーパンでレイバンのサングラスをして、ベルボトムを穿いたスタッフたち。アポロキャップをかぶっていたりしてね。当時の70年代らしい格好がすごく格好よかった。夜に話している内容も、政治や文化の話とかちょっとスノッブで、それがまた新鮮で。逆に照明部のひとたちは野球の話をしていたり、そのバランスもおもしろくて。この大人たちと一緒にいるのが楽しかったんですよね。
ー上京されて、俳優業もいきなり順調だったわけではないと伺っています。
光石: そうですね。でも、すぐに一人暮らしを始めてアパートに住んだり、友達とシェアしたりして。だから貧乏でも全然苦じゃなかったんです。むしろ楽しかった。世の中的にはまだバブル前でしたしね。
ー俳優として「一旗揚げてやろう」というような野心はなかったんですか?
光石: あまりそういう感覚はなかったですね。何かの作品を観て衝撃を受けて飛び込んだわけでもない。強いていえば、「就職先がたまたま俳優だった」という感覚に近いです。「俳優になれば仕事はあるんでしょ」くらいに思っていました。ほんと、なめてましたよね(笑)。他にも好きなことがいっぱいあって、レコードを買ったり、ベスパに乗ったり、住んでいた部屋の床を張り替えたりと楽しくて。思えば寄り道ばかりしてきましたね。
ーなるほど。では、ご結婚されてから仕事への向き合い方が変わったんでしょうか。
光石: そうですね。ちょうど仕事が入らなくなったのがバブルの時期。業界自体も過渡期で、自分自身も30代に入る頃でした。少し苦しかったですね。ただ、30代って、どの仕事をしているひとでも壁にぶつかる時期なんじゃないかと思います。会社員でも、一通り仕事を覚えて次の段階に迷う。そんな時期でした。その後バブルが弾けて、若い世代の監督たちが映画を撮り始めた。ちょうど僕らも同世代で、そこに呼んでもらえたのかなと思います。
ーそうした時代の流れの中で、俳優という仕事の捉え方が変わるきっかけになった出来事はありましたか?
光石: やっぱり、青山真治監督の『Helpless』の現場ですね。明確に意識が変わりました。20代の頃って、根拠のない自信があったんですよ。「俺はおもしろい」「なんでもできる」って。でも現場でそれが崩された。「君を撮ってるんじゃない、映画を撮ってるんだ」っていう感覚を突きつけられたんです。自分は何者でもない、と。そこから意識がどんどん変わっていきましたね。
ーそれは青山監督が直接言葉で教えてくれたんですか?
光石: いや、口に出して言われたわけではありません。青山監督の現場を体験したからそう感じたんです。ものすごく僕を尊重してくれて、やりやすいように言葉をかけてくださった。でも作品が完成したのを観ると、「やっぱり俺を撮ってるんじゃない。映画を撮ってるんだ」って強く思いました。そこで初めて「俳優ってこういうものなんだ」と自然に理解できましたね。