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FEATURE|「生きていることが懐かしい」を共有できる小袋成彬と又吉直樹の世界観。

「生きていることが懐かしい」を共有できる小袋成彬と又吉直樹の世界観。

How do they see this world?

「生きていることが懐かしい」を共有できる小袋成彬と又吉直樹の世界観。

話題のアルバム『分離派の夏』をリリースした小袋成彬さんが対談に指名したのは、小説、お笑いをはじめさまざまなジャンルで活躍している又吉直樹さん。二人は初顔合わせでありながらも、言葉にこだわる者同士、創作をなりわいにする者同士として、自分たちの世界観を大いに語りあってくれました。又吉作品の物語はどのように生み出されるのか? 小袋作品の言葉の特殊性はどこにあるのか? 売れるということに対しての意識は? ひとつ確かなのは、表現者たちの考えていることはこんなに豊かで面白いということ。

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又吉直樹

1980年生まれ。大阪府出身。高校卒業後、NSC東京校の5期生として入学。同期の綾部祐二とお笑いコンビ「ピース」を結成し、人気を博す。コントや舞台の脚本も手がけるなど早くからマルチな活動を続け、芸人活動の傍ら執筆した『火花』が第153回芥川賞を受賞。2017年小説2作目となる『劇場』を発表し、こちらも大きな注目を集める。

小袋成彬

1991年生まれ。R&BユニットN.O.R.K.のボーカルとして活躍。音楽レーベル「Tokyo Recordings」を設立し、水曜日のカンパネラへの歌詞提供のほか、adieuなど様々なアーティストのプロデュースを手掛ける。2016年、宇多田ヒカルのアルバム『Fantôme』収録曲『ともだち with 小袋成彬』にゲストボーカルとして参加。伸びやかな声と挑戦的なサウンドデザイン、文藝の薫り高き歌詞が特徴。2018年4月25日、デビューアルバム『分離派の夏』を携え、ソロアーティストとしてデビュー。

ただ風が吹いてるだけなのにすごく世界が美しく見える。

今回の対談は、小袋さん側からのオファーが実現した格好になるのですが、小袋さんはどうして又吉さんを対談相手にご指名されたんですか?

小袋成彬(以下、小袋)恥ずかしながら、僕が又吉さんの著作を読んだのって、わりと最近のことなんです。もともと読書は好きなんですけど、最近の作家さんの本を読むことがほとんどなくて。あるとき『火花』の担当編集だった方とお会いする機会があって、それが直接のきっかけで、その『火花』と、2作目の小説の『劇場』と、あとエッセイの『東京百景』を買って。だいたい僕は書かれた順に読むのが好きなんで、まず『東京百景』から読んだんですよ。

又吉直樹(以下、又吉)はいはい。

小袋そうしたら、又吉さんは、僕とすごく似た風景を共有していらして、ぐっと引き込まれたんです。例えば目黒川の源流の、細い川がチロチロ流れてるあたりとか、世田谷公園のあたりとか。

又吉『東京百景』に自分でも書いたんですけど、僕は昔、池尻大橋に住んでいた時期があって。

小袋僕もその「池尻大橋の小さな部屋」という一編が一番好きで。その話が『劇場』にもつながっていて、恐れおののいたんです。しかも、その『劇場』で、ちょうどいまの、僕の個人的な状況を的確に言語化しているところがあって。つまり主人公の永田の「どうしようもない」という心情を言葉によって表現している、といったらさすがに陳腐すぎるかもしれないんですけど、それを描ききった人への100%の敬服がいまの僕にはあるという感じです。

又吉ありがとうございます。

小袋そこを読んだ瞬間、思わず昔の友達に連絡したくなったというか、実際にその場でメールしたんですけど、それくらい強烈で。

又吉僕も小袋さんの『分離派の夏』を聴かせてもらったんですけど、そういう自分の表現したいことと、時代の中で必要とされてることってあるじゃないですか。そこの齟齬というか違和感みたいなものの捉え方は、近いんじゃないかなと思っています。小袋さんの歌詞の中にすごい好きなフレーズがあって、それは『なぜか生きていることが懐かしい』という言葉なんですけど。

小袋「門出」という曲の歌詞ですね。

又吉あれは、もちろんあの歌詞の文脈の中で出てきている言葉だと思うんですけど、僕も最近、ずっとそうで。

小袋最近ですか?

又吉はい。最近、ただ風が吹いてるだけなのにすごく世界が美しく見えるんですよ。だから「もう俺、死ぬんちゃうか?」みたいな(笑)。

一同ははは(笑)。

又吉もしくは、それを僕は「死んだ人の目で世界を見てるみたいやな」って自分では思っていて、だから「生きていることが懐かしい」みたいな言葉では切り取れてなくて。この言葉が出てきたのは、なぜなんでしょう?

小袋なんでしょうね。「門出」は、僕の妹の結婚式について書いた曲なんですけど、僕は妹と、大学を卒業するまで22年間ずっと一緒に実家で暮らしてたんです。にもかかわらず、妹の結婚がすごく他人事のように思えてきて。「懐かしい」と感じているのは紛れもなく自分自身なんですけど、「生きている」にはどこか遠くの目線を感じていて、その主観と客観のバランスが、うまく表せたのかなあと。

又吉おもしろい言葉ですよね。「生きていることが懐かしい」。そこには、例えば地球に住めなくなって、宇宙ににげていた人間が、もう一度地球の風景を見に帰ってこられたときぐらいの感動がなんとなくあるんですよ。そういう、劇的な瞬間てあるじゃないですか。失恋した直後とか、自分の感情と風景がうまく重なって美しく見えるときがあるんですけど、最近、僕ずっとそう見えてるから、やっぱりヤバいんちゃうかなって(笑)。

小袋それ聞いたら、僕は笑えないかもしれないです。あるとき僕も、まさにその感覚になったというか、世界の機微が無視できなくなったんです。いままでは「世界を変えてやろう」とかずっと思っていたのに、むしろ自分が変わることで、世界が違って見えるんじゃないか。その楽しさと美しさに目覚めてしまったんですよ。それがこのアルバムを作る直截的なきっかけだったんですけど、でもそれ以来、ほとんどその感覚がなくなってて。

又吉ああー。

小袋その感覚が創作意欲につながるのであれば、なにがきっかけで、どういう刺激があってそこに至るのか、自分でわかりますか?

又吉僕の場合は、いま3作目の小説書こうとしてて、ずっとウォーミングアップしてる状態やと思うんです。だからそうなってきたのもある気がするんですけど、やっぱり僕もそういう瞬間がないとなかなかものを作れなくて。さっきもちょっと言いましたけど、好きな人ができて、付き合って、別れるとか。経験上、その別れたあとが一番、創作意欲が湧くっていうのはあると思います。

小袋それは、ほんとに、僕もそう思います。

又吉あとは、ちっさい刺激としては、音楽とか演劇とか文学からもらうことも多いですし。それで、なんちゅうんですかね、僕はずうっとね、自分に薄い膜がかかってるみたいな感覚だったんですよね。

小袋ああ、はい。

又吉それが、夜中に外歩いたり、音楽聴いたりしてて、なんか気になるものがあったら、それがバーって晴れて「いけるぞ」みたいな感覚になってきて。その瞬間を大事にするというのと、どういうときにそうなったかを覚えて、同じ状況を繰り返して作るっていうのは僕はわりと続けていますかね。

小袋刺激を受けるのは、人の作品ないしは物語が多いですか? あるいは自然の風景とかノスタルジア?

又吉ああー。なんやろ、自分の中での思い出とか、個人的な経験も大事ですし、社会で起こってることに対しても、絶対に影響を受けてしまうんですよ。だから両者に対してどれぐらいの距離感を保つのかが、結構難しいですけどね、僕の場合は。

小袋僕も、ほんとそうですね。ときどきインタビューで「これは実体験に基づいているんですか?」って聞かれるんですけど「野暮なこと聞くなよ」ってすごい思います。その中庸さが美しいんじゃないかって。その距離感を保つことが、僕も一番大事なのかなって思ってます。

出会ったときには、もうすでにそこには別れが含まれている。

お二人とも失恋した際に創作意欲が湧くということでしたが、それはご自身の感覚がある種、過敏になっているから?

又吉いろいろやと思いますけど。

結構、辛い状態ということですよね?

小袋いや、僕はわりと恍惚としてて。それによって想起される昔の思い出とかが、突然意味を帯びはじめて、言葉ないしは音楽で表現せざるを得ない。じゃないと心が休まらない、気が済まないみたいな感覚です。

又吉なかなか説明するのが難しいんですけど、出会って別れたら創作意欲が湧くっていうのを、僕は経験として知ってしまってるんですよね。だから変な話、出会ったときには、もうすでにそこには別れが含まれているというか。お笑い芸人って、なにかおもしろいことが起こらな喋れないじゃないですか。例えば町で変な人に絡まれて、もしかしたら殴られたりするかもしれへんから逃げるべきなんやけど、これをおもしろい話にするためにはもう一歩踏み込んでみなあかんみたいな、そういう瞬間があって。

小袋へええ。

又吉それって、いわば進んでトラブルに巻き込まれにいってるんですけど、そこまで言い切れるほど自分では計算してるわけでもなくて、自然にそうなっていってるんですよ。それにすごく近い感覚があって。つまり誰かを好きになる一方で、「この人にフラれたら、めちゃくちゃおもろいこと思いつくんちゃうか」とか。でも、本当はそう考えてはいけないんですよ。

作為的な刺激になってしまう?

又吉そうなるし、そもそも僕が求めてるその感覚にたどり着けない可能性があるというか、初恋でフラれたときとか、若いころに得た経験とは別物になってしまうから。だからすごく複雑ではあるんですけど、経験としては知っていることを、一回忘れたフリをして。

小袋その感覚は、もうずっと昔からあるんですか?

又吉ありますね。なんやろな、たぶん「俺は人に受け入れられる存在やないんや」って思ったときに、自分の立ち位置が見えると思うんですよ、創作するにあたっての。それを確認できたときに、いらんこと考えんでよくなるというか。

小袋ああ。

又吉僕は、子供のころにみんなで遊んでるときも一人になりやすかったり、好きな子ができてもむちゃくちゃな扱いを受けたりしてたんですよ。あるときね、ノブくんっていうかっこいい友達と二人で遊んでたら、好きな女の子から「一緒に遊ぼう」って初めて声かけられてすごいテンション上がって、「なにして遊ぶ?」って聞いたら「お姫様ごっこ」って。で、「どうやって遊ぶの?」って聞いたら、その子が「ノブくん王様、又吉乞食。ノブくん王様、又吉乞食」って言い出して。

一同ははは(笑)。

又吉めちゃめちゃショックやったんですよ。どう反応していいかわからんくて、怒ることも泣くこともできへんし。でも、とりあえず乞食役を全力でやってみたら、その子がすごい笑ってくれて。むちゃくちゃな状況やけど笑ってくれてるってことがなんか嬉しくて、たぶん、それが僕の立ち位置なんですよ。なにかを表現するにあたっての。

小袋うんうん。

又吉だから、人に褒められたり、調子がいいときっていうのは、頭も働くんですけど、そういう状態からスコンとズレたとき、「あ、めっちゃ一人になった」っていうその瞬間が、わりと大切というか。

小袋なるほど。

又吉ただ、その回数が減ってきてもいるんです。そういう状況になりにくいというか、周りに仲間が集まってきてるし。だから、また違うやり方を見つけはじめてるのかもしれないですけど、いままではそんな感じでした。

それぞれの人間が見てきた風景とかに、どうやったら自分の言葉を接続できるのか。

小袋僕は、まだ一つしか作品を作ってないんですけど、又吉さんは作品を重ねるごとに、毎回の変化に自覚的ですか? あるいは毎回なにかに挑戦していたり?

又吉毎回、挑戦はしてるつもりですね。最初に発表した『火花』っていう小説は、34歳で書いてるんです。で、僕は20代の感覚っていうのをすごく信用してるんですね。その年代特有の、衝動的な言動であったり、周りの人との関係性みたいなものが好きなんですけど、34歳になった僕はそこからちょっと遠ざかっていて。だから『火花』を書くときは、どうやって自分が20代のときに持っていた、むき出しというか、痛々しいような感覚を再現するかが一つ大きなポイントやったんです。

小袋だから、『火花』はああいう構成に。

又吉そうですね。要は、主人公である徳永の視点と、30代になった僕の視点っていうのが両方あるんですよ。おそらく徳永が当時を振り返って書いてるやろうから、そこには20代の感覚が宿ってるけど、どこかでそれを編集してる可能性があるっていう書き方にしたんです。それが『火花』を書くときの挑戦で、2作目の『劇場』の挑戦は、書いてあること以外に、なにを書けるか。

小袋それはいわゆる「行間を読む」みたいなのとは違う次元の話ですよね。

又吉はい。もっと大きな視点で、主人公で語り手である永田が語ってることは本当なのかっていう。僕たちは喋るときに嘘ついたり、「これは言わんとこう」とか選別したり、誰かを守るために言い方をぼかしたりするじゃないですか。それを、小説でできひんかなっていうことは考えました。

例えば、永田は会話文だと関西弁だけど、地の文だと標準語と、使い分けていたり。

又吉そうですね。それも手段の一つとして。

小袋又吉さんは、言葉にできないものとはどう対峙します? 僕は、音楽をやっているおかげで、言葉で表せないものをリズムとか旋律とか、そういうもので表現できたんですけど。

又吉難しいですよね。だって、例えば夕暮れの風景を見てるほうが、僕の描写よりも何倍も美しいですからね。だから、それぞれの人間が見てきた風景とかに、どうやったら自分の言葉を接続できるのかなっていうことを考えます。言葉だけでは絶対に語れへんから、その言葉を経由して、それぞれの最強の夕暮れに結びつくような表現を探すというか。

小袋なにかを表現するにあたって、常に他者がいるんですか?

又吉そうですね。「伝える」っていうことに関しては。もちろん小説を書いてるなかで、読者をまったく想定できてない瞬間も絶対にあるんで、一概には言えないですけど。なんか、趣味程度なんですけど、僕は俳句をやる機会があって。

小袋へええ。

又吉俳句って、風景をそのまま言葉にするんじゃなくて、言葉を発射台にして、それを鑑賞する側がより大きなものをつかめるというか、発想を飛躍させることのできる表現行為だと思うし、僕はそういうものが好きなんですよ。だから、それやったら活字で書く意味があるかなと。世界と戦うんじゃなくて、世界と自分の文章をつなげるっていう考え方ですかね。

小袋最近、僕も俳句にめちゃくちゃハマってて。自分で作りはしないんですけど、種田山頭火や尾崎放哉を研究してらした村上護さんが書かれた山頭火の伝記を読んだら、食らっちゃって。山頭火は、福岡県の八幡市(現在の北九州市の一部)で中原中也の弟の呉郎に会ってるんですよね。呉郎は、山頭火に「医者になれ」と言われて本当に医者になった人なんですけど、彼が書いた『海の旅路』っていう本を最近手に入れて、いま読んでます。

又吉村上護さんの本は僕も何冊か持ってますね。特に放哉は、結構読みましたね。

最も優先されるのは音楽ではなく、言葉なのかな。

又吉小袋さんは、歌詞を書かれるときはどうされるんですか?

小袋僕はなにかに触れないと言葉が降りてこないタイプなんですけど、ただきっかけはほんとになんでもよくって、それが誰かの作品であることが多いですね。そこに対して自分の思い出が重なったときに言葉になっていくというか。で、たぶん僕は生粋の音楽家ではないような気がしてて。

又吉どうしてですか?

小袋例えば、ピアノを弾いてそれを表現することはできないんですよ。一回言葉に落とし込んで、その言葉から浮かんできたものを音楽にしていくっていう方法をとることが多いので。だから、自分がなにかを残そうと思ったときに、最も優先されるのは音楽ではなく、言葉なのかなって最近気づいて。その言葉で表現しきれないものを音楽にしていくっていう感覚なんです。だから、描ききれないものが怖いんですよ。

それは、自分の伝えたいことが聴き手に伝わらないかもしれないという怖さですか?

小袋いや、「伝える」という前提がそもそもあんまりなくて。僕は結構自己中心的で、自分がしっくりくるかどうかでしか判断できないので、しっくりこないのが嫌なんですよ。逆に言えばしっくりきたら完成なんですよね。又吉さんは、一つの作品の終着点って、どこに置いてますか?

又吉どこなんやろうな。僕は、自分が知らなかったこととか、自分が気づいてなかったことまで書けたら、作品として成立したなと思うんですよ。例えばコント作ってても「え、なにこの展開?」とか自分でも驚けるものができたりするんですけど、小説でも同じように、自分で書いてて「これどういうことなんやろ?」とか「なぜこいつは、いまこんなこと言ったんやろ?」みたいなフレーズが出てくることがあるんです。

小袋理由なく出てきたものが。

又吉はい。それを自分なりに解釈して、小説に反映させていくと、最初に想定していたものには絶対ならないんですよ。それができたら、自分の作品としてビビらずに出せるなあって。

小袋なるほど。

又吉エッセイとかにしても、時間がなかったりして、自分が持ってる型とかパターンみたいなものにハメてしまうとね、すごい罪悪感を覚えるんですよ。「これ、全然仕事してへん」「なんも生み出してないし、なんも発見してへん」って。それは、鑑賞する側の評価とはほとんど関係ないんですけど、僕個人の作品に対する満足度を大きく左右する部分ではありますね。

『火花』のラストシーンなどは、そのパターンを脱した一例では?

又吉そうですね。わりと早い段階で、主人公の先輩芸人の神谷ってやつが「美しい世界を、鮮やかな世界をいかに台無しにするかが肝心なんや」って言うんです。そこまではわかるというか、美しい世界を台無しにしたらおもろいやろなって、なにかしら衝撃があるってことはなんとなく僕も知ってたんですね。でも、そのあと神谷は「ぶっ壊したらさらに美しい世界が、そこに現れるんや」って言うんですよ。その意味が、自分で書いててわからんくて、考えた末に「じゃあ一回こいつの言葉に乗っかってみよう」と。物語的には、終盤で主人公のコンビ解散とかあって「そこで終わったほうがよかった」ってあとからいろんな人に言われたんですけど、でも神谷の言葉に従うなら、美しい世界が完成したあとに、それを壊さなければいけない。

小袋うんうん。

又吉僕としては「壊したあとにどうなんねやろ?」と思ってたんですけど、結局「あ、なるほど。これを神谷は言ってたんや」っていう地点にたどり着いたので、これでええんかなって。

小袋さんの作品作りにおいても、自分で自分の予想を裏切りたいみたいなモチベーションはありますか?

小袋いや、全然なくって。だからいま僕は、ある意味、人生の中でどん底にいるのかもしれないと感じていて。なんでしょう、アルバムをリリースしたことで突然、日の目を見てしまったというか、今日も喫茶店で本読んでてたら隣の席で僕の話してる人がいて、怖いなと思って逃げたんですよ。まあ時期が時期ですし、ありがたいことなんですけど、それとは別に音楽家の心情として、晒されているような感覚が嫌で。

又吉はいはい。

小袋で、なんで嫌なのか、今日又吉さんに聞こうと思ってたんですけど、いまの話を聞いて、たぶん僕の音楽は、僕の中ですべて説明がついてしまうからなんじゃないかって思ったんです。要は、曲のモチーフにしても、リズムパターンにしても、BPMにしても、なぜそうなったかを全部自分で説明できちゃってて。もちろん明確にできてない部分もあるんですけど、おおよその影響は分析できてしまう。それに対してある種の気持ち悪さと、世間に嘘をついてるような感覚を覚えてしまうんじゃないか。だからインタビューで聞かれても困っちゃうし。より感覚的というか、「ただ体をビートに委ねて!」みたいなタイプだったらもっと楽に生きてたんだろうなとは思うんですけど(笑)。

又吉ああー。

小袋さっきも言ったように、最初に言葉にしちゃうし。それがたぶん僕の中で、後ろめたさみたいなものになってるんじゃないかって。だから次の作品で挑戦したいことも、いまわりとはっきりしたような気がします。

又吉でも、頭で考えんと感覚的にできてしまういわゆる天才タイプと、理詰めで自分の世界を構築していくタイプとあると思うんですけど、後者の場合でも、その先が袋小路ってことはないし、めっちゃおもしろいものを作り続けられるはずなんですよ。

小袋それは、どちらが優れてるとか劣ってるとかではなくてってことですよね。

又吉はい。やり方が違うだけで。あるいは、むちゃくちゃ考えに考えを重ねまくって、そんで一回それを全部捨てたときに出てくるものって、同じく感覚的な表現であっても、もともと感覚的な人がまったくの無から生み出したものとは種類が違うと思うんです。

小袋どうしてそう思えるんですか?

又吉僕自身、子供のころからいろいろ考えるタイプで、芸人になってからも「考えすぎる芸人ってどうなんやろな?」とか思ってたんですよ。で、例えばその場にあるモノを使って笑いを取る「モノボケ」ってあるじゃないですか。僕はこれがすごい苦手で。だいたいデビューして1年目とか2年目の若手ってみんなモノボケやるんですけど、ほとんどスベってて。なんか、芸人の自殺行為に見えるんです。

一同ははは(笑)。

又吉「なんでみんな自分からスベりにいくんやろ?」って思ったし、それがすごい怖かったんですよ。だからみんなでモノボケやるときも、僕だけモノを探してるフリしてずっと隠れたりしてたんです。でも、これじゃあかんよなって、どうにかして乗り越えなって思ったときに、やっぱり僕は考えるしかなかったんですよ。そのときに、ちょうど句集とか歌集をよくめくってて。

小袋ああ、なるほど。

又吉俳句って、たった17音でおもしろい風景を見せなあかんでしょ。それって一発ギャグみたいなもので、自殺行為なはずやのに、なんで俳人たちは成功してるんやろって考えたときに、さっき言ってたように、言葉で世界を説明してるんじゃなくて、言葉を世界と接続させてんねやと。だから自分がモノボケするときも、それがなんであるかを説明しきらずに、物語の一端を見せることで成立するような表現をやり始めたら、なんとなく自分のスタイルらしきものが見えてきて、恐れずにできるようになったんですよ。まあ、スベるときはちゃんとスベるんですけどね。

一同ははは(笑)。

「わかんない人はわかんなくていいから」って言える立場が一番楽。

小説家である又吉さんには、編集者が付きますよね。で、小袋さんの場合は、今回のアルバムは宇多田ヒカルさんがプロデュースをなさっています。そのような形でご自身の創作活動に関わる他者の存在を、お二人はどのように捉えてらっしゃいますか?

又吉編集さんは、完全な答えはくれないんですよね。僕が書いたものに対して「私はこう解釈しました」とか「これはこういう意図で合ってますか?」とか「ここは難しくてわからなかったんですけど」くらいで。で、僕が説明したら「じゃあ、もうちょっと言葉を足しませんか?」とか、そういうやりとりなんですけど、僕自身も答えを求めていないというか、「刺激をくれ」って思ってますし、そういう意味では絶対に必要な存在ですね。

小袋まったく一緒ですね。宇多田さんも答えはくれないし、僕も求めていないんで。宇多田さんは「これは、私にとってはこういう歌なんだけど」とか「だとしたら私はこう書く」とか、僕が書いた詞や曲に対して、僕とは違う視点でアドバイスをしてくれる。それこそ編集してくれるような感じで、それに対して僕の気づきもたくさんありましたね。

作品を作るうえで、芸術性と大衆性のバランスって、考えてらっしゃいます? 要は、自分のやりたいことをやる一方で、商業的な成功も視野に入れなければならないと思うのですが。

又吉すごい難しいんですけど、そこもたぶん変化していて、究極的には、自分の好きなこと以外はできないんですよ。それはもう決まってて。ただ、『火花』のときは、わりと書きたいように書いたんですけど、本を読み慣れてない人からすると、やっぱり僕は近代文学が好きでその影響も受けてるので「ちょっと読みづらい」とか「難しい」っていう声があったんです。でも、ほとんどの人が「それは小説家は気にしなくていい」と。

小袋ああー。

又吉ってことは、それが日本の文学のスタンダードな考え方やから「じゃあこれでええんや」と思いつつ、今度は芸人として備わってるサービス精神みたいなものが疼きはじめたというか。編集さんにはそこ止められるんですよ。「サービスしすぎないほうがいいですよ」って。それもわかるんですけど、だからといって読者を完全に無視するのも嫌やから、『劇場』を書くときは、『火花』を読みづらいと感じた人も楽に読める文体で、かつ『火花』よりも文学として進化した文体っていうのを模索したんですね。それってたぶん、僕にとっては一番難しいことなんですよ。

小袋簡単に読めて、でも実は文学的に高度な試みをしてる。

又吉なぞなぞみたいですよね。実際、大変でしたけど、じゃあ3作目どうすんねんっていったら、僕はそういうことなんも考えんと書こうかなって思ってるんです。やっぱり、毎度毎度考えすぎたらわけわからんようになってしまうし、人のことばっか気にしてると、自分が一番フィットする形っていうのも見失ってしまうんやないかなって。表現者として、「鑑賞する側が喜ぶものってなんなんやろ?」って考えるのは別に悪いことやないと思うんです。でも、「そんなんええから、お前の最強を見せてくれや」って言われたときに「ほな、これです」ってすぐ出せなあかんでしょ。「あれ、どれやったっけ?」みたいになってしまったら絶対にダメじゃないですか。そうならないように、心がけてはいます。

小袋僕は、もともと音楽のプロデューサーだったので、編集者みたいなところがあったんですよ。だから、それまでは音楽をどう伝えるかっていうことを考えるのが仕事だったので、今作においては、それを一切無視するっていうのが、大前提としてありましたね。ただ、やっぱり僕もプロデューサー的な感覚が染み付いてて、まったく受け手の側を意識してないわけじゃないんですけど、極力「あ、いまなんか、媚びる音楽になってるな」と思ったら、一回排除する。

一同ははは(笑)。

小袋っていう手法はとりましたね。だからちょっと突き放してるような作り方ではあるんですけど、まあ、作品のコンセプトというか、作るきっかけがそもそもそういうものだったんで。

又吉突き放すって、めっちゃ勇気いることではありますよね。

小袋でも、たぶん僕はそれが一番楽なんですよ。「わかんない人はわかんなくていいから」って言える立場が。「もう君はわからなくていい」って、「Selfish」という曲の歌詞に書いた通りなんですけど、もう小学生ぐらいのときからずっとそういう性格は変わってなくて。

実際、アルバム自体も非常にパーソナルなものになっていますよね。歌詞にも「僕」と「君」しか出てこなかったり。

小袋僕が「いいな」と考えているのは、ある個人に対する強烈な思いであり、その人との関係を徹頭徹尾、描ききることなんです。それを修飾する他者や社会はもちろん現実には存在するんですけど、ただ一人のためだけに書くことが、僕にとっては非常に重要なことなんです。例えばロックバンドとかは、イデアみたいなものがあって、そこに近づけないことへの焦りや怒りだったり、あるいは社会に対する疑問や不満を音楽にしていくこともあると思うんですけど、僕はそういうタイプではないから。だから「They」とか、第三者的な存在や社会との関わりみたいなものも、理想もないんです。どちらかといえば芸術は内向きであるべきというか、自分の内面をしっかり描くことにしか興味がないと思うタイプなので。

又吉そうですよね。誰かに対しての思いを描くっていうのは、僕もわりとそうですね。

小袋『東京百景』にも、必ず誰かいますよね。ベンチに座ってるおじさんとか。そこが、やっぱり僕はすごい好きなんです。

又吉ちょっと話がズレてしまうかもしれないんですけど、僕は『火花』を書いてるときに、芸人を辞めた後輩と会ったんですよ。そいつは新しい仕事でがんばってて収入も増えてるんですけど、なんか元気なくて「みんなまだ芸人続けてるのに自分だけ辞めたから、後ろめたいんですよね」みたいなこと言ってて。

小袋はい。

又吉それに対して僕は「いや、なんも後ろめたく感じることなんてないやん。別に芸人が一番偉い職業でもないし、生きてりゃええし、自分で選んだ仕事できて、俺らよりもしかしたら自分のほうが正しいかもしれんし。逆に俺らはそっちのほうが正しいと思ったらあかんから、それぞれ自信持ってやっていってええんちゃうん?」って言いながらも、全然うまく喋れてないなって思って。それはどうしてなんやろかっていうのは、『火花』を書きながら探れたかな。つまり、僕もそいつと同じ状況になったら後ろめたさを感じてしまうだろうし、一方で「いや、後ろめたくなんかない」っていうのも本心なんですよ。そうやって自分の中に二つの気持ちが存在してしまっていたからうまく話せなかったんやって、書いていくなかでなんとなくわかったなって。かといって『火花』はその後輩のために書いたかといわれると、決してそうではないんですけど。

小袋最初のほうで話した、「門出」の「なぜか生きていることが 懐かしい」っていうフレーズが出てきた理由も、それと似てるかもしれません。なんか、傍観してる自分がいるんですけど、それを音楽にすることで逃げてるみたいで、自分で嫌だなって思っちゃうんですけど、でもそんな感覚に近いんだと思います。

又吉僕は、それがいいなと思うんですけどね。みんな、だいたい言い切るじゃないですか。結婚したら「おめでとう」とか。逆に「いや、めでたくない」「取り残されて寂しい」とか。でも実は、一人の人間の中にどっちの感情もあって、それがブレンドされてる状態なんやけど、表現としてはどっちかに振り切らないと、ちょっと人格が破綻した人になっちゃうんですよね。

小袋そうそう。

又吉「どっちなん?」とか「さっきと言ってたことと違うやん?」とか突っ込まれるんで、だからみんなどっちにするか決めてしまって、言うんですけど、本当は、みんな微妙に嘘ついてるというか。それをちゃんとすくい取ろうとすると、ああいう表現が出てくるんじゃないですか。

小袋ああ。それを聞いて、なんか、救われた気がしましたね。

小袋成彬「分離派の夏」

2018年4月25日発売
EPICレコードジャパン
¥3,000(in TAX)

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