前線でやたらフィジカルのある奴がいるなって思ってたら、それが千ちゃんだった。
いよいよ今月からスタートする新連載の企画ですが、そもそも小澤さんと平野さんはこうしたメディア上での対談は初めてになるのでしょうか?
小澤千一朗(以下、小澤) 対談ではないけど、ビジュアル出演という形なら実は過去に一度だけあるんだよね。かつて僕らで作っていた『WHEEL magazine』 ※1 という雑誌があって、そのなかで「スケートボード寓話」 ※2 という企画をやった時。
スケートボードにまつわるありもしない架空話を作って、その話に紐付いた挿絵を撮影しに行った時の扉ページで2人揃って出演したことがある。
※1 1990年代後期、ストリートスケートが隆盛を誇った時代に日本で創刊されたスケートボード専門誌。質感やサイズ、さらに斬新な企画や構成など様々な要素において日本のスケートマガジン史における金字塔的な存在となった。
※2 『WHEEL magazine』の後期に行われた一大特集。スケートボード=自由というスケートカルチャーにおける基本的な概念を自由という言葉を使わずにして誌面に残すことを目的に企画された。ノーコンセプトなままに太呂が撮りたいと思って切り取ったグラビアに、完全フィクションの小澤が書きなぐった短編小説をシンクロさせたもの。
平野太呂(以下、平野) あったね。覚えてるよ。確か僕の家で撮影したんだよね。
平野 懐かしいね。それこそ仙台まで阿部さん ※3 とかを撮影しに行ったりしたよね。
※3 本名、阿部圭介(あべ・けいすけ)。仙台出身のスケートボーダー。地に足着いた、力強いスケートスタイルで90年代から第一線で活躍。コンクリートウェーブ、プールコーティング、天然のRといった、男らしいスケートワードがぴたりとハマるスケーター。
小澤 たった一人のスケーターを撮影するために地方に行けた時代だったからね。いい時代だった。
平野 『Sb』のときにもマル ※4 のポートレートを撮りに行ったよね。帰りの交通費がなくなっちゃって、マルに相談したら「あそこの深夜バスが安いっすよ」って教えてもらってね。
いざ行ってみたら怪しい感じの東南アジア系の深夜バスで、東京まで8時間くらいかかるって言われて(笑)。でも大人2人で3800円。バカみたいに安かったから、ここでいっかって。
※4 本名、丸山晋太郎(まるやま・しんたろう)。仙台のスケートショップ「BRIDGE」のオーナーであり、プロスケーター。国内外を問わずに若い頃から現在に至るまで、スケートボードにまつわる言動や、その一挙手一投足には常に注目が集まる。
小澤 で、いざ乗ってみたらぎゅうぎゅうのすし詰め状態で、飛ばすわ、揺れるわ、休憩もないわで最悪なの(笑)。
平野 僕らは乗車時間ギリギリまでマルとか現地のスケーターたちとご飯を食べてて、乗り込むのが最後になっちゃったんだよ。だから席が全然空いていなくて、後ろの方の狭いスペースに2人で座ることになったんだけど、僕は我慢しきれずに運転手の近くにあったステップに勝手に座り込んだんだ。注意されても体調悪いふりして(笑)。
小澤 僕はそれで救われたんだけどね。結局最後まで運転手は嫌な顔していたけど(笑)。
楽しそうですね(笑)。ちなみにお二人の出会いっていつ頃なんですか?
平野 僕は幼稚園の頃から和光の一貫校だったので小中高とずっと同じ仲間と遊んでいて、その後は武蔵野美術大学に通うようになるんだけど、その和光出身の友達と千ちゃんが大学で仲良くなっていて、自然と一緒に遊ぶようになったんだよね。最初はスケートとかじゃなく、「バセッタ」っていう草サッカーチームで一緒にサッカーをしていたんだよね。
小澤 そうそう。僕は田舎出身でスケートカルチャーなんてほとんど皆無な地域で育ったから、とにかくスポーツに汗を流していたタイプ。高校もサッカーの名門校だったから、とにかくみんなサッカーばっかりやっていたんだよ。
平野 それで練習試合の時とかに、なんか前線でやたらフィジカルのある奴がいるなって思っていたら、それが千ちゃんだった(笑)。
小澤 僕は昔からフィジカルを使ったスポーツはなんでも得意だったんだよね。それで「バセッタ」で一緒にサッカーをやるようになり、ユニフォームなんかもこだわったりしながらね。
平野 あのコロンビアをオマージュしたユニフォームでね。
小澤 太呂は昔から7番の似合う、7番っぽいプレイヤーだった。草野球でも爆発こそしないんだけれど、平均4割の打率で安定した成績を残すタイプ。僕が作っていたスポーツ新聞には、その当時の成績が全部残ってるから今でも覚えている(笑)。
平野 そんなの作ってたね(笑)。友達や関係者には『WHEEL magazine』の雑誌に折込みの付録にしたりして、あげてたよね。
小澤 そこには、ここでは書けないような太呂イジリもきちんと残っている。もしそれを太呂を知る読者が見たら、いわゆる太呂の持つパブリックイメージとはあまりにもかけ離れすぎてて、ビックリすると思うよ。
平野 ◯玉振り子打法とかね(笑)。千ちゃんは野球なら三振かホームラン。サッカーならポストプレーで反転してシュートみたいな。とにかくフィジカル系だったよね。
僕らのスケート熱が加速していた頃、その時に買ったスケートデッキがもれなくゴンズのデッキだった。
当時のお話からなんとなく2人の関係性が見えてきますね。最初は普通の友達だった。それがいつしか仕事を通じてパートナーとなっていくわけですが、そのきっかけはなんだったんですか?
小澤 僕が大学を卒業して、就職もせずに編集のバイトを始めるようになったんだけど、当時在籍していたファッション雑誌の編集部でモノクロページを担当しててね。
平野 そのとき僕は講談社でスタジオのアシスタントをしていた頃かな。そこで雑誌に載るような写真の技術を勉強していたんだよね。
小澤 そうそう。その頃、僕と太呂の共通の友達にカクっていうゴンズ ※5 好きがいるんだけど、当時彼や太呂がゴンズのスケートデッキを集めていて、ちょうどゴンズがパリからサンフランシスコに拠点を移すぞ! ってタイミングでさ。
〈リアル〉からスケートデッキをリリースするってニュースが僕らの耳にも届くんだ。それで一気に僕らのスケート熱が加速して行った。そしてその時に僕が買ったスケートデッキも、もれなくゴンズのデッキだった。
※5 本名、マーク・ゴンザレス。レジェンドスケーターで、アーティストとしても知られるプロスケーター。プロスケーターに「アイドルは?」と訊くと、大体ランクインしてくるスケーターズ・スケーター(スケーターが選ぶスケーター)のひとり。独自の発想と表現力でストリートでの見せ方と遊び方を確立した人物。
平野 それからはちょこちょこみんなで砧公園とかでスケートしていたんだよね。
小澤 それから初めて一緒に仕事をするようになったのは、確かグレン・E・フリードマン ※6 が来日して、その取材だったと思う。場所は確か渋谷のスペースエッジ ※7 だったかな。
※6 70年代後期、プールがストリートへと飛び出していったドッグタウンのスケートシーンを記録した写真家。その他にイアン・マッケイやBAD BRAINS、RUN DMCなどハードコアやヒッピホップシーンなども克明に残し、写真集『FUCK YOU HEROS』などはあまりにも有名。
※7 渋谷にあるギャラリー、レンタルスペース。90年代にスケートカルチャーの大物が来日したときには、必ずここで個展や写真展を開催していた。展示スペースだけでなく、敷地内にミニランプを設置したりして、スケーターのオアシス的な場所にもなっていた。
平野 思い出した。そのときは1日だけ取材日が設けられていて、錚々たる雑誌やスタッフの面子がいる中で、まだペーペーだった僕らがなぜか紛れ込んでいるような感じでね。
小澤 友人の陽 ※8 を通訳に入れたりして、一丁前にやっていたよね。それからパスヘッド ※9 とかゴンズが来日したときにも一緒に取材してさ、お互い少しずつスケートカルチャーを仕事にも結びつけていったんだよ。
※8 本名、添田陽(そえだ・よう)。『WHEEL magazine』ではライターやインタビュアーとして活躍していたスケーターであり、ミュージシャン。O.A.CやBREAKfASTを経て、現在はSTRUGGLE FOR PRIDEのドラムを担当。ちなみに草サッカーチーム「バセッタ」でのポジションは、右サイドバック。
※9 METALLICAやMisfits、COCOBATなどのメタルやパンク、ハードコアバンドと蜜月なスケ―ドボード関連のアートワークを手掛けるイラストレーター界の鬼才。スカルをモチーフにした作品はもはや彼の代名詞でもある。
平野 あれ? その頃にもうゴンズの写真って撮っていたんだっけ? 全然覚えてないや(笑)。
小澤 撮ってたよ。それで関係者だけが招待されたゴンズの誕生日会があって、まだ英語がそこまで堪能じゃなかった僕は指を咥えつつ、その場所に陽と太呂を派遣したんだよ。それがゴンズたちと一緒にZINEを作るきっかけになったから鮮明に覚えてる。
それは日本でスケートカルチャーが今ほど盛り上がる、随分と昔の話ですよね。そこから小澤さんと平野さんは一緒に『WHEEL magazine』を立ち上げるんですか?
平野 正確には僕らが立ち上げたんではなくて、当時『WHEEL magazine』を運営していたメディアハウスって会社の社長と僕の友人のお母さんが知り合いで、「スケート専門の雑誌ができるみたいだよ」って話を聞いてから創刊号を手伝うようになったんだよね。
当時はまだ周りにスケート専門誌なんてない時代。正確にはデビルマン西岡 ※10 さんが作っていた「OLLIE」がかつてはあったけど。あとたまに「FINE」のモノクロページでスケートカルチャーを取り上げるくらいだった。そういえば『WHEEL magazine』創刊号の時って千ちゃんはいなかったんだっけ?
※10 日本だけでなく世界的にみても、スケートボードの黎明期から最前線で滑り、記録し、活動してきた、今は亡き伝説のスケーターでありフォトグラファー。晩年期に刊行していたリトルプレスマガジン『サイボーグ』は今なお色褪せない。
平野 そうか。ただ僕もスケーターの写真を撮りたい一心で参加したはいいけど、『WHEEL magazine』には編集をできる人があまりいなくて、環境も全く整っていなかった。
だけど当時は若かったこともあってその情熱だけで、自腹を切って単独でサンフランシスコまでスケーターを撮影しに行って、ページを作ったりしていたんだ。
海外のスケーターのライディングを収めた写真を1ページ裁ち落としで使うような大胆なページ作りをしていたのも、きっと日本では僕らが初めてだったと思う。
小澤 そうそう。確か創刊号の表紙は竜太郎 ※11 だったよね。
※11 本名、藤井竜太郎(ふじい・りゅうたろう)。スケーターや仲間たちからは龍神とも呼ばれる、東京下町出身のプロスケーター。抜群のキャラクターとスケートセンスによって、東京のストリートシーンのアイコンのひとりとして活躍。これまで『WHEEL magazine』をはじめ様々な雑誌の表紙を飾ってきた。
平野 それから次の号の企画で、福岡に出張で行った時に、現地のスケーターを撮影していたら「なんであんなスケーターでもなくて、スケートも知らないような奴が来るんだよ」って文句を言われたんだよね。
それは僕と一緒に行っていたメディアハウスの人に対してだったんだけど。その出来事がきっかけで、これから『WHEEL magazine』をもっと広めていくには、編集部にスケーターか、あるいは僕と同じようにスケートカルチャーが好きで、若くて活きのいい編集者が必要だなって思ったんだ。
それで千ちゃんを誘ったんだよ。
知ったかぶりが一番カッコ悪いからさ。
小澤 当時はスケートボードの専門誌といえど、その雑誌を作る人が少なかった。そこで若くて突進力のある、身軽なフィジカルを持った編集者として僕に白羽の矢が立った。
僕も生粋のスケーターというわけではなかったけど、とにかくそれまで以上にスケートカルチャーを自分なりに掘り下げていこうと躍起になっていたんだ。しかも当時はまだ『WHEEL magazine』も創刊したばかりで、スケーターたちからは全く認められてなかったから余計だよね。
取材のオファーを出しても「ダセェから受けねぇよ」なんて門前払いを喰らうのは当たり前。それがとにかく悔しかったし、だったらかっこいい雑誌作ってやるよって逆に火がついた。それからは知らないことがあればとにかく貪欲に吸収する日々。なんでもそうだけど知ったかぶりが一番カッコ悪いからさ。
平野 だから、僕らはそれまでに活躍していたスケーターももちろん撮影していたけど、新しい才能の発掘にも力を入れていたんだよね。
小澤 でも実はその時「ダセェから受けねぇよ」って言った人っていうのが、僕に後々『Sb』を始めるきっかけをくれることになるんだけど。まぁ、それはまた『Sb』の話になった時にでも。
それと今でも鮮明に覚えているのは、キース・ハフナゲル ※12 が来日した際に、当時のPR会社から声が掛かって取材することになったんだけど、僕らの取材の順番が一番最後だったんだよね。鳴り物入りで参画したばかりとはいえスケートボードの専門誌であるにもかかわらず、一般誌よりもプライオリティが低かった。
それで結局僕らの番になったら既に撮り尽くされたスポットしか候補に残っていなくて、これじゃページにならないってことで僕と太呂は撮るのをやめたんだ。でも結果的にその出来事が僕らの闘志を燃やすことになる。いつか海外のスケーターが来た時には、「小澤&太呂コンビに最初に撮ってもらいたい」って言わせるように、かっこいいページを作ろうって2人で誓ったんだよ。
※12 キース・ハフナゲル / オーリーの高さとクールなスケートスタイルを武器に、ニューヨーク、ロサンゼルス、サンフランシスコと本国アメリカのどんなエリアでも愛されたプロスケーター。同時に、国内でも人気を博すスケートブランド〈HUF〉のファウンダーなのは、あまりにも有名。
平野 写真をどれだけかっこよく見せられるか、とか誌面に載せる写真は必ずバージンスポット ※13 のものでないとダメとかね。
※13 ストリートのイリーガルなオブジェやレッジをスケートセクションにしてしまう行為とその場所のこと。腕利きのスケーターならトライしたくなるスポットで誰よりも早く一番にそこでトリックをメイクし記録を残すことが重要。
小澤 それまでは、スケーターのトリックを撮るのもフィッシュアイ ※14 で撮るのが一般的だったけど、ポートレートの時はわざわざレンズを変えて撮ったりしてたよね。
それから何年かしたら、ジョン・ハンフリーズ ※15 とかジェイミー・トーマス ※16 なんかが来日した時に「Sbだったら撮影受けてやるよ」って言われるようになった。
※14 魚眼レンズ、またはフィッシュアイレンズとも言う。ロングレンズなどに比べて、ライダーとのコミュニケーションがとり易く、迫力のある映像を撮影するのに適していると言える。90年代のスケートビデオの多くがこのフィッシュアイレンズを採用。現在でも「VX-1000」などの名機は人気が高い。
※15 当時は米誌「トランスワールド・スケートボーディング」のスタッフフォトグラファーで、その後広告写真なども数多く手がける。年に1度、「トランスワールド・スケートボーディング」から発行されるフォト・アニュアル号(グラビア特集号)では、彼とピート・トンプソン、アティバ・ジェファーソンの写真が群を抜いていた。
※16 アメリカはウエストコーストの元祖ハンマートリック系を得意とするプロスケーター。名作『MISLED YOUTH』を世に出し、スケートブランド〈ZERO〉をビッグカンパニーへと押し上げた張本人。90年代、泣く子も黙らせるスケーターといえば、彼だった。
平野さんの処女作である「POOL」の初版本と2人にとって特に思い入れの深い号でもある『Sb』のバックナンバー2冊。
2人が揃って大好きだと話す、ロサンゼルス在住のスケートボードフォトグラファー、アティバ・ジェファーソン。彼が90年代にカナダで、「スケートボーディング・デイ」のイベント時に撮影した貴重な1枚を収めたページ。(「Sb vol.16」)
国内のスケートシーンにおけるレジェンドでもあるT-19の創始者、故・大滝ひろし氏の貴重なポートレートカット。(「Sb vol.14」)
結局僕らはスケートシーンの中でいうと完全にアウトサイダー。
小澤 スケートカルチャーに関わる魅力として一番に挙げられるのは、努力した結果がきちんと実を結ぶこと。もちろん失敗すればめちゃくちゃディスられるっていう平等性があることが前提だけどね。そして決して予定調和なんかじゃない、ドラマ性。
平野 僕は千ちゃんと一緒に『WHEEL magazine』や『Sb』を作っていて感じたのは、千ちゃんの特異なキャラクターがスケーターに受けていたのが大きかったのかなって思う部分もあるんだよね。さっきも言ったようにスケーターってスケーターじゃない人間が関わることに対して、とてもシビアなんだよ。
ただし、スケーターじゃなかったとしても面白いことをやっているやつだったら認める、みたいな習性もあったりするんだ。まさに千ちゃんはそのタイプだった。
小澤 そうなのかな。自分ではあまり実感ないけどね。あとはスケートの撮影ってどうしてもケガや痛みを伴うことが多いから、敬意を常に持つことは意識しているかな。昔から。だからこそ写真は大きく綺麗に使ってあげたいんだ。
確かに僕はキャラクターが先行しちゃうくらいふざけていることも多かったけど、そこだけは真摯に、真面目に取り組んでいるつもりだからね。
平野 結局僕らはスケートシーンの中でいうと完全にアウトサイダー。それまではスケーターやスケートを知っている人たちが仲間内で撮影して、一般誌のモノクロページに載ればいいっていうような少し排他的な一面もあったから。分からないやつは仲間外れみたいなね。
小澤 シーンの重鎮たちと深い関わりを持っていないだけで認められないって風潮を変えたかったのはあるよね。スケートカルチャーはやっぱり反抗心やアンチテーゼから成り立っていったカルチャーだから。
僕らみたいな新興勢力の存在も絶対必要だったと思っている。それは今も変わっていないけど。だからこそ僕は太呂と変えたかったんだと思う。
平野 うんうん。スケーターだけじゃなく、スケートを知らない人にもスケートカルチャーって面白い! と思ってもらえるようにね。そういった意味でも当時はまだまだ海外に比べてクオリティが追いついてなかった気がする。
写真としてはもちろん、アートとしても素質があるスケートってカルチャーを昇華しきれてなかったからね。
小澤 そうだね。いやー、けどまだまだ全然話せるけど、尺が足りなくなっちゃうな。
平野 今回はあくまでもイントロダクションだからね(笑)。
小澤 でもこんな感じで、僕たちおじさん2人を中心にしてスケートが大好きなゲストを毎回募って、あーでもないこーでもないって普段しているような四方山話をできたらいいなって思うよね。
平野 そこから僕らなりにスケートカルチャーってどんなものなのかっていうのを改めて考えて、それを聴講生の人たちやこの記事を読んでくれている人にも届けていくのが目的でもあるしね。
小澤 『Sb』時代のオフレコ話もたくさんあるけど、それはまた次のアウトロダクションまでとっておこうか。
VACANT
電話:03-6459-2962
www.vacant.vc