森田貴宏氏 / プロスケーター、映像作家、「FESN」主宰
ホームタウンの中野区を拠点に10代からストリートの最前線で活躍するプロスケーター。またプレイヤーとしてだけではなく、早くから映像作家、フィルマーとしての活動を始動させ、スケートボードを中心に様々な映像作品を発表し続ける。そしてオリジナルレーベルでビデオプロダクションでもある 「FESN」を主宰し、2008年には、国内だけではなく世界各国で賞賛を得た代表作「overground broadcasting」をリリース。同時に自身がデザイナーを務めるアパレルブランド〈LIBE BRAND UNIVS. 〉のディレクターも務め、現在はDIYで制作するオリジナルのクルーザー専門店「FESN laboratory」も運営。また今年、 千葉の市原湖畔美術館にて開催された「そとのあそび展」にてスケートボードを使ったフリーハンドの展示を発表し、大きな話題を呼んだ。
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平野太呂(以下、平野) 皆さん、こんばんは。今日でHSCのイベントはとうとう4回目。月に一度の開催でやっているスケートボードのカルチャー講座、あるいはクラスという形でやらせてもらってますが、今回のテーマは「スケートボードとビデオ」。
ゲストは後ほど出てきてもらう森田君なんですが、まずスケートビデオってスケートカルチャーととても密接なものなんです。例えば、僕も昔から色んなスケーターたちと撮影をしてきたんですが、そういった現場に必ずビデオを撮影する人もいるんですよね。多分会場にいる皆さんも街中なんかで、スケートボードに乗りながらビデオカメラを持って、スケーターを追いかけながら撮影している人を見たことがあるんじゃないかな?
僕の周りでも「トリックをするスケーターもすごいけど、それを撮っている人たちもすごいよね」なんて声を聞いたりします。そういった人たちをスケートボードの業界ではフィルマーと呼びます。変な話、写真の場合はアングルやライティングによっては色々と演出ができるんですけど、ビデオはごまかしが効かないんです。
小澤千一朗(以下、小澤) 写真はトリックに対してその1点の写真を使うけど、ビデオはその前後の流れを汲み取るものだからね。
平野 そうそう。だからスケーターたちの顔や体、手の動き1つとってもダサかったらそれが如実に現れてしまうし、逆にたいしたトリックをやっていなくても映像を通してその人らしいスタイルが滲み出ていることもある。
平野 小澤なんかは特に『Sb』時代に色んなフィルマーに会ってきたり、「FESN」チームともよく撮影していたと思うけど、その辺はどうかな?
小澤 「FESN」で言えば、僕は『43-26』の作品を撮影している時に会うことが多かったですかね。やっぱり森田の存在感は大きかったですよね。極限まで追い込むし、どんなに時間がかかっても諦めないし。
18歳の時に転機が訪れるんですよね。(森田)
森田貴宏(以下、森田) これってもう俺、喋っていいのかな?
平野 大丈夫だよ。この講義は台本なしのイベントなので(笑)。
森田 なら良かった。改めまして森田です。こんばんは。えーなにから話そうかな。とりあえず小澤くんと太呂くんとは『WHEEL magazine』の頃からの付き合いなんだよね。それで僕がスケートを始めた頃の話からすると、僕がスケートと出会ったのはトランジション※1 が全盛だった80年代で、そこからスケートシーンっていうのは90年代に向けて少しだけ衰退していくんですよね。
というのも僕にとってのスケートカルチャーってどこか不良文化に精通するものがあったんです。地元のヤンキーがスケートボードを持ってたむろしているようなイメージですよね。学校ではヒゲを生やして、今でいうおっさんみたいな格好している奴らがいざ放課後、公園に行ったら見たこともないイケてる乗り物に乗ってジャンプしたり、回転したりしてるみたいな。
それを見たときにただのヤンキーとは違う、ファッショナブルなセンスを感じて。そこから僕もスケートボードにのめり込んでいったんですよね。
※1一般的にはスケートパークにあるアールやランプなどの形状をした構造物の総称。別名トラニーとも言う。
森田 そうなんです。僕は13歳でスケートを始めて、そこから真面目にスケートに取り組んで、沢山大会に出たりして、16歳で初めてスポンサーがついたんです。それから順調にスケート人生を歩んでいくんですが、18歳の時に転機が訪れるんですよね。
森田 うん、でもそれこそが僕がスケートビデオを撮るきっかけにもなったことなんですよね。
森田 怪我です。元々はスケーターだし撮られる側だったから、撮影の時とかも常に滑っていたいし、撮る側にまわるなんてごめんだね、なんて思ってたんだけど、その時に全治三週間くらいの大怪我をしてしまって、生まれて初めて滑れない悔しさみたいなのを味わったんだよね。
それでしばらくして地元のサーファーだった先輩がサーフィンに連れて行ってくれたんですけど、その時に1台のビデオカメラを渡されたんです。僕としては、サーフィンもできないし、怪我もしていたから先輩たちの波乗りを近くで見ていようと思ったら、「適当に撮影してくれよ」って言われて。
それで言われるがままに浜辺や浅瀬の海に入りながら撮影したんです。荒波にさらわれそうになったり、危ない目に遭ったりしたんですが、その時のイメージがすごい強烈で。今思うとあの瞬間に僕はビデオを撮りたいと潜在的に思っていたのかなって。
平野 きっかけはサーフィンだったんだ。それは意外な事実だね。
森田 そこからスケートをしながら少しずつ自分で撮るようになっていったんだよね。撮り始めた頃から映像作品っていうのは常に意識していたから、子供がビックリマンシールを集めるように、俺の作品にはあのスケーターのトリックが必要だとか、あの場所で撮る必要があるとか、そんなことを考えていましたね。
平野 その頃にはすでに撮りたいなっていうスケーターにも出会っていたんだ。
森田 そうだね。14歳の頃には既にジャブ池で滑ってたから、徹とかの「NEW TYPE」の面々とも会っていたしね。
平野 HSCのVol.2でも話題に上がっていたジャブ池ですね。あの回に来てくれた方は分かると思います。あるいは過去の記事を見てもらえたら。ちなみに森田は、当時はアメリカのビデオとかも見ていたの?
森田 もちろん。俺がスケートを始めたきっかけでもあるからね。
森田 やっぱり『public domain』 ※2 は外せないよね。みんな知ってるかな? この名作ビデオの存在を。
※2 1988年に「Powell Peralta」からリリースされたどうスケートチームとしては4作目にあたる作品。『Animal Chin』や『Ban This』と並ぶ最高傑作としての呼び声も高い。今では大御所のスケーターとなった若き日のスティーブ・キャバレロやトニー・ホーク、トミー・ゲレロ、ロドニー・ミューレンなどが多数出演。またストリートスケートが流行し始めるきっかけとなった作品とも言われる。
森田 13歳の時かな。衝撃だったね。全てが新しく見えたんだよね。
小澤 やっぱり演出の仕方だったり、編集方法が参考になったりしたのかな。
森田 いや当時はそこまで考えていたわけではないんだけど、全体の印象ですね。ただ何度も観てきて言えるのは、この作品って本当に計算され尽くしているんですよね。後々自分の映像にも役立てたいと思って、分析もいろいろさせてもらっていたので。例えば、ここで効果的に「McRAD」 ※3 の音を使っているなとかね。
※3 「BLKTOP PROJECT」のメンバーとしても名を連ねる伝説的なプロスケーターであるチャック・トリースも在籍していた、スケーター集団によるハードコア&パンクバンド。「POWELL PERALTA」からリリースされた多くの映像作品に楽曲が使用され、当時のスケーターにとってはアンセム的な存在に。また1987年に発売された彼らのファーストアルバム『Absence of Sanity』は、2001年に再発されるなど一部でクラシック化されている。2007年にセカンドアルバムの『FDR』を発表。
平野 うんうん。スケートビデオで使われた音楽や効果音ってなぜだか分からないけど、自然と頭の中に刷り込まれているよね。
森田 「POWELL PERALTA」の人たちがこのビデオを通して、本当にスケートボードのシーンを変えようとしているのが分かるよね。それぐらいの気概を感じる。
平野 このビデオの監督がステイシー・ペラルタ※4 という往年のスケーターなんですよね。
※4 カリフォルニアはベニスビーチ出身の映画監督。かつて70年代にはプロサーファー、プロスケーターとして活躍し、伝説的なチーム「Z-BOYS」のオリジナルメンバーでもある。1976年には生産者であったジョージ・パウエルと共にスケートカンパニーの「POWELL PERALTA」を設立。以後世界的なスケートシーンの繁栄に貢献し、その礎を築いたひとりでもある。近年は映画『DOGTOWN』 などの作品の監督や監修を行いながら、「POWELL PERALTA」のブレインとして活動する。
森田 レジェンドですね。映画『LORDS OF DOGTOWN』※5 でも有名な人ですね。この人が本当の意味でのスケートビデオのパイオニアなんじゃないかな。
※5 70年代にスケートボードを発端にさまざまなカルチャーを巻き込みながら一世を風靡した「Z-BOYS」の活動を描いた青春映画。ピンク・フロイドの名曲をスパークルホースがカバーした「Wish You were Here」をメインソングに迎え、作中にも登場する「POWELL PERALTA」の創立者であるステイシーが脚本を担当。監督はキャサリン・ハードウィック。2005年に公開され、世界的なムーブメントとなり、ここ日本でも同映画に影響を受けたスケーターは数知れない。
俺もこんな風になれるのかなって一筋の希望を抱けたんだよね。(森田)
平野 森田はこの作品のどんなところに惹かれたんだろう? もちろん全体の印象というのが大きいんだろうけど、もう少し踏み込むと。
森田 この作品は、ラグジュアリーな空間にいる、お金持ちっぽい若者がスケートをしている風景から始まるんです。それって僕が思うにもっと広い人たちにもスケートを広めたかったていうか、スケートってバブリーなんだぜっていう意思表示にも思えたんですよね。
平野 なるほど。それにステイシー・ペラルタの作品ってどれも必ず最初に彼が被写体として滑るところから始まるよね。あれはなんでなんだろう?
森田 なんでか分からないですか? 「スケートボード=自分」だからですよ。それは彼が70年代のスケーター・オブ・ザ・イヤー※6 の最初の受賞者であることにも起因していると思います。それに彼のチーム名には自分の名を冠した「POWELL PERALTA」にしている。それくらいスケートボードを表現する上で自分に絶対の自信を持っているんですよね。だからこそ自分が作る映像にも積極的に出ていくんじゃないかな。
※6 世界で最も権威のあるスケート専門誌の「Thrasher」が企画する、その年最も活躍したスケートボーダーを讃えるために贈られる賞。通称SOTY。今年はナイジャ・ヒューストンやオースティン・ジレットなどの実力派を抑え、〈Supreme〉の最新映像作品「BLEESED」での活躍も記憶に新しい、次世代ニューヨークスケーターのキングとも称されるタイショーン・ジョーンズが受賞。
平野 この作品ではトミー・ゲレロが組んでいる「BLKTOP PROJECT」※7 でドラムを叩いているチャック・トリース※8 も出てきますよね。
※7 トミー・ゲレロやレイ・バービーを中心としたレジェンドスケーター五人組からなるロックバンド。2002年に「SLAP Skateboard Magazine」の企画のために結成された即席バンドが、好評を得て以後もバンドとしての形態を継続。2008年にファーストアルバム『lane change』を、2016年にはセカンドアルバムの『CONCRETE JUNGLE』をそれぞれ発表。近年は年に一度のペースで来日を果たしている。
※8 80年代に全盛期を迎えたレジェンドスケーター。かつて「Santa Cruz」や「POWELL PERALTA」などのブランドからスポンサードされ、出世作となった『public domain』では圧巻のフッテージを披露。またスケート同様に音楽的才能を見出され、伝説的なスケートロックバンドの「McRAD」のリーダーを務め、数々のトップミュージシャンと共演。2002年からは「BLKTOP PROJECT」のドラムとして活動。
森田 そうだね。俺はこの映像に本当に胸を打たれたんだよ。とにかく超カッコよくてね。俺もこんな風になれるのかなって一筋の希望を抱けたんだよね。それで結果的には俺もこういったビデオを撮れるようになったし、プロスケーターとしても活動できるようになった。そういった意味でも思い入れが深いんだよね。
1万回くらい観ようって思って冗談抜きにテープが擦り切れるまで観てましたからね。(森田)
森田 うん。これに勝りたくて頑張って映像を撮ってきたといっても過言ではないからね。
小澤 森田が映像を撮る理由というか原動力になっていると。
森田 ですね。もちろん僕がそうだったようにスケートをこれから始める子供達にも観て欲しいし、僕の作った作品を通してスケーターが増えてくれたら最高ですよね。
少なくとも俺はスケートボードの入り口がビデオで、スケートボードのおかげで生き方そのものがガラッと変わった。本当に楽しい人生に変わったんだよ。そうした感動を一人でも多くの人に味わって欲しいという願いが僕の作品にも込められているんですよ。
平野 うんうん。ちなみにこれは初めて観たビデオというわけではなかったの?
森田 んー、スケートボードの映像でいったら、昔TVでやっていた世界衝撃映像みたいな番組で出てたのとかが初めてブラウン管を通してみたスケート映像だったのかな。
平野 びっくり映像みたいなやつね。確かに昔はよくあったね。
森田 その時に観ていた海外のスケーターたちは、僕が憧れていた地元の怖いスケーターの先輩たちと一緒だったんですよね。派手なシャツを着て、キャップは後ろ向きに被って、見るからに不良みたいな佇まいで。
森田 でも僕らの地元のヤンキーの先輩たちとかってみんな金持ちな不良だったんですよ。家はハイソなところに住んでいて、でも学校ではちょっと悪かったり。
平野 当時の時代や僕らからしたらスケートボードは決して安くなかったもんね。少し話を戻すと、森田にとって最も印象に残っている映像作品が『public domain』だったように、今の若い子たちにとってもそうした思い入れの深い作品が必ずあるのだと思うけれど、やっぱり今と昔では変わってくるんだろうね。スケートボードのビデオはどのようにして変遷を辿ってきたんだろう?
森田 僕が思うには、80年代は熱いスピリットと気概を持った、限られた作り手によって作られていましたが、スケートビデオが広く浸透したのは、92年頃にカリフォルニアのスケーターたちがこぞってホームビデオを取り入れてからかなと思っているんです。
森田 その映像を見た時に初めて、「これなら俺らでも撮れるんじゃねぇか?」ってなったんですよね。国内だとさっきも少し名前の上がった「NEWTYPE」の吉田徹たちが早かったですよね。俺はそれを傍目に見てて、羨ましかったんです。本格的なビデオカメラも持ってて、沢山の仲間にも恵まれてて。
平野 例えビデオを手に入れて、仲間を集めても、80年代後半から90年代前半の頃って編集ができなかったよね。そんな思い出はない?
森田 できなかったね。「NEWTYPE」の場合は、ビデオ屋の息子がいたおかげで可能にしてましたよね。
平野 あ、そうだったんだ、なるほどね。僕も実はその昔に映像っていうのを作ったことがあったんだけど、てんで作り方なんてわからなくて。VHSデッキを一度止めてみたり、今まで使ったこともない機能をフルに活かしてみたり、試行錯誤しながらなんとか繋ぐみたいことをやっていましたね。
森田 そうだね。俺らもそんな感じだった。当時はビデオカメラって高価だし、スケートボードの撮影なんかで使ったらすぐに壊れちゃったりするからね。持っている人の方が少なかったんじゃないかな。
平野 うんうん。ちなみに森田は当時どんなビデオカメラを使っていたの?
森田 当時ビクターから出ていた「SVHSC」ってモデルですね。
森田 そうそう。そのビデオがたまたま家にあったから、それを最初はずっと使っていましたね。スケートボードの大会があれば、必ず持って行って記録用に撮影したり。
平野 僕も最初、友達同士で撮影した時はVHSタイプのモデルだったね。とにかく重くてね(笑)。
平野 それに比べて『public domain』を作ってた人たちは全然違う機材を使っていたよね。
森田 色々使っていたと思う。フィルムも使っていたしね。あ、そういえば面白い話があって、トニー・ホーク※9 っているじゃないですか? 皆さんもご存知の通りスケートボードのレベルをネクストクラスに押し上げたひとりでもあるスーパースターなんですけど、そんな彼のお父さんが軍人をやりながら、当時アメリカのスケートボードの協会で会長をやっていたんですよね。
それで、今の日本のパークにいるキッズたちのように、トニー・ホークもお父さんからかなりの投資や指導を受けていたみたいなんです。もちろん彼自身に相当の素質があったし、相応の努力もしたからこその今があるんですけど、そうしたサラブレットとして才能を開花させ始めたトニー・ホークは『public domain』で大トリを務めることになるんですよね。ここからは僕の憶測ですが、そこには間違いなく協会からの資金援助もあったはずだっていうゴシップ的な裏話です。
※9 「バードマン」の愛称で親しまれるスケートボード界の生きる伝説として今なお多くのスケーターからの尊敬を集めるレジェンド。2000年にゲームソフト開発会社の「Activision」とライセンス契約を結び、「トニー・ホーク プロスケーターシリーズ」を製作。さらに「X GAME」のハーフパイプにおいて史上初の900°(2回転半)のトリックを成功させた人物としても知られる。
森田 この作品の収益もとんでもなかったと聞いてますからね。スケートボードのビデオって当時1万円くらいしたじゃないですか? そんだけ高かったら本気で観るじゃないですか?
俺はそんな高いビデオ買ったんだから、1万回くらい観ようって思って冗談抜きにテープが擦り切れるまで観てましたからね。だからこそ俺らはビデオを一本作ることに対する気構えだけは、尋常じゃない思いを賭けてるんですよ。
森田 さらに余談にはなるんだけど、『public domain』は「POWELL PERALTA」の4作目にあたる作品で文句なしの最高傑作なんだけど、彼らの作風がガラッと変わった作品があって、それが実は3作目の『Animal Chin』※10 なんだよね。
※10 1987年にリリースされた「POWELL PERALTA」のサード作品。出演スケーターである「Bones Brigade」の面々が、伝説のスケーターであるアニマルチンを探すというストーリー仕立ての構成が話題となり、当時では画期的な台詞ありのスケートビデオとして今なお語り継がれる名作。
平野 映画みたいなドキュメンタリーなテイストでね。好きだったな。
森田 そうそう。この作品が世に出た時っていうのは、賛否両論だったんだよね。僕自身も初めて観た時はリアルタイムではなかったんだけど、面白かったけどカッコ良いとは思えなかったんだ。
平野 僕は森田よりも二つ歳上なんだけど、『Animal Chin』好きだったな。
平野 なったね。僕が初めて観たスケートビデオは『Thrasher』のものだったんですけど、『Animal Chin』はストリートスケーティングの要素は少ないんだけど、ファッションとか音楽の面で影響は受けましたね。まぁ森田にとっての『public domain』みたいなものなんだろうね。
森田 『public domain』は超えたい存在だったけど、最初はとにかくずっとお手本にしてましたね。こんな風に、スポンサーとか気にせずにカッコ良い音楽と、カッコ良いスケーターたちと、カッコ良い滑りを映像に収めて、みんなに届けられたら最高だなって思って僕が初めてスケートビデオで表現したのが、1995年に初めてリリースした『Far East Skate Network』※11 ですね。
※11 森田貴宏が主催するビデオプロダクション「FESN」の記念すべきデビュー作。「T-19」や「NEWTYPE」のライダーを始め東京のみならず大阪、神戸、福岡を拠点とするストリートスケーターのフッテージを収めた国内スケートシーンの記録的作品。ここから森田貴宏とスケートビデオの歴史が始まる。
小澤 ここから森田のフィルマーとしてのスケート人生がまた新しく始動していくわけだもんね。
森田 そうですね。ちなみに僕のこの処女作で一番最初に出演する人物が江口くん※12 という人なんですけど、実は『public domain』という作品は、彼に教えてもらったんですよね。
※12 本名、江口勲二郎(えぐち・くんじろう)。80年代より国内のスケートシーンの一線で活躍するスケーター、フィルマー。国内のみならず海外のスケーターとも広い親交を持ち、過去には〈FTC〉のプレスを務めていた経験も。現在はアジアで最も影響力のあるスケートボード専門メディアである『VHS MAG』とスケートボード専門誌の『SLIDER』で編集を行う。メディアという立場からスケートシーンに今なお貢献し続ける功労者でもある。
小澤 そうだったんだ。ということは出演者それぞれに森田なりのストーリーがあるんだろうね。
森田 そうですね。誰でも良いというわけではなかったですからね。
森田 この時はね、ソニーのセミフィッシュタイプのもので0.4って種類を使ってたかな。
ディープなものだけが映像の作品として残るってだけじゃないですかね。(森田)
森田 そうそう。あと江口の他にもハッチャキくん※13 っていう僕の師匠のような存在でもあるスケーターも出てもらってますね。
※13 本名、石原和晃(いしはら・かずあき)。80年代に国内スケートシーンにおける天才スケーターとして名を馳せたスケーター。彼を師と仰ぐスケーターも少なくない。近年はグラフィックデザイナーとしてスケートシーンのみならず様々な企業のデザインなどを製作。
小澤 その後にリリースしたのが半年後の96年に出した「SUBWAY」※14 。半年で作っちゃうっていうのもすごいけど、このタイトルになにか意味はあったのかな。
※14 1996年2月にリリースされた「FESN」名義によるセカンドビデオ。前作同様全国各地に点在する名もなき無名のスケータたちにスポットライトを当て、多くのストリートスケーターを世に送り出した作品。前作では即興的なDJプレイの音源を使用していたが、本作よりヒップホップやジャズ、ロックなどの多彩な音源を映像に被せていく手法を採用した。
森田 由来みたいなものは特にないんだけど、この頃の俺らはパンクじゃなくて俄然イーストコーストのヒップホップを聴いてて、ビデオのイントロ部分ではリアル・ライブ※15 ってラップユニットの『REAL LIVE SHIT』を入れてるんだよね。そうした音楽面でも、また前作とは違った色の作品になってると思う。
同時にスケートを始めた当初はサンフランシスコのスケートシーンに憧れを抱いていたんだけど、この頃っていうのはニューヨークのヒップホップシーンが盛り上がっていて、ニューヨークに惹かれていた時期でもあったんだ。なんていうかあっちの地下鉄のロゴひとつとってもカッコ良く見えちゃう時期って誰しもがあるじゃん?
あとはスケートビデオを通して地下鉄のようにアンダーグラウンドなネットワークを広げていくっていうコンセプトもあったから、そうした地下の住人たちともリンクしていくっていうね。
※15 ニュージャージー州出身でクイーンズを拠点とする、Larry-OとK-Defからなるラップデュオ。1996年に発売された、彼らの唯一のアルバム『Turnaround: Long Awaited Drama』は、森田氏にとって思い入れの深い作品でもある。同作のリード曲『REAL LIVE SHIT』は、「SUBWAY」の序章にも挿入される。
小澤 なるほどね。それにこの作品では無名の若手もフックアップしているんだよね。
森田 そうなんだよ。当時はまったくノーマークだった北島宗一※16 ってスケーターを初めて起用したんだ。ネームバリューこそなかったけど、ステア※17 のトリックは天下一品だった。加えて肝も座ってて、どんなスポットに行ってもさくっとメイク※18 しやがるんだよね(笑)。たいした奴だったよ。
※16 高校三年生だった18歳の時に、その才能を森田氏によって見出され、「SUBWAY」に初出演。当時コンテストに向けたスケーターが多かった時代ながら、ストリートスケートを体現し続けた元祖マニュアルキング。近年はキッズスクールの開催や自身のブランド〈SunDanceFlow〉での活動が活発。
※17 街中やパークにある階段。通常スケートシーンにおいてステアというと階段を使ったトリックに関連した意味を指す。(例)昨日新宿公園の10段ステア飛んだよ。
※18 スケートのトリックを成功させること。スケートボードの専門用語としては基礎的なワードと言える。(例)やっとキックフリップ、メイクできたよ。
小澤 それとひとつ気になったのは、森田の時代は撮り貯めた映像を編集してフィジカルの作品にして世に送り出すのが当たり前だったけど、今の時代はインスタグラムでリアルタイムの映像を届けたり、すぐに映像を届けられるようになったわけだけど、その辺りに感じることはあるのかな?
森田 ディープなものだけが映像の作品として残るってだけじゃないですかね。フィジカルに残るものはハードルが上がったというか、より本物しか残れなくなったっていうか。だからやってることは同じなんですよね。スケートカルチャーにおけるひとつのルールで言えば、誰もやっていないことをやるのがやっぱり大事なわけだしね。
小澤 そこでもやっぱりスタイルの見せ合いがあるわけだね。
森田 じゃないですかね。それで俺らはコンスタントに映像作品を作りながら、スケートだけじゃないってことを誇示するためにも新境地を見出したくて、1999年に初めて音楽のアーティストとセッションすることになるんです。それが盟友でもある「THA BLUE HERB」のライブ映像を作品にした『演武』※19 ですね。
※19 国内ヒップホップシーンにおいて、孤高のリリシストとしての存在を揺るぎないものにしたラッパーILL-BOSSTINOとトラックメイカーであるO.N.O、そしてライブDJを務めるDJ DYEの3人からなる「THA BLUE HERB」。その彼らの東京初進出となる伝説のライブを映像化した歴史的作品。そして撮影と編集を担当したのは、彼らの良き理解者であり、盟友の森田貴宏。音楽とスケートという異分野同士の才能がクロスオーバーし実現した本作は、その後の国内映像作品にも多大な影響を与える。
小澤 「THA BLUE HERB」との出会いはなにがきっかけだったの?
森田 それは俺らがまず一方的にこの人たちの音楽にやられたんですよね。それで俺らも東京の中野ってローカルを背負ってやってるから名前だけでも覚えてくれよって挨拶してさ。
小澤 この頃くらいからスケートボード以外にも映像に対するクリエイションとしての興味を持つようになったの?
森田 というよりもスケートボード以外で興味を持ったのは彼らが初めてでしたね。単純に撮りたいなって。スケートボードする時はいつも聴いていたしね。だから結果的にこうした形になったのかなって思う。
小澤 こうした密着系の映像作品ってこれまでのスケートボードの映像とは全然違うものだと思うけど、苦労したことはあった?
森田 この映像は撮り終えるのに4年近くかかってるんですよ。撮り始めたのは確か1995年だったので。セカンドビデオの『SUBWAY』と『東西南北 TOZAINANBOKU』※20 は昔から撮り続けていたものをベースに作っていたので、実質はフォースビデオの『43-26』※21 がリリースされるちょっと前までの90年代の後半はほぼこの人たちに捧げてましたね。もちろんコマーシャルムービーとか企業やブランドのプロモーション用のショートムービーなんかは作ったりはしていましたけどね。
※20 前作より約一年後にリリースされた「FESN」によるサードビデオ。今作でも多くのストリートスケーターをフックアップし、かつ編集技術においては2機のスイッチャーを連動させたリアルタイムリニア編集を採用するなどさらなる即興性を持った映像美は必見。現在は国内随一のスケートメディアである「VHS MAG」を運営する梶谷雅文氏や江口勲二朗氏のルーキーフッテージも収録。
※21 本企画でホストを務める小澤氏が「FESN」作品で最も影響を受けたと語る、四作目のビデオ作品。国内スケートビデオとしては初となる劇場でのプレミアショーを敢行し、大きな話題に。またこれまでの作品とは異なり、制作期間45ヶ月という長期に渡って日本国内のフッテージを撮り歩き完成させた大作。スケートビデオとしては当時画期的だったサウンドトラックも制作し、スケーター以外の才能もフックアップした本作。タイトルの『43-26』とは世界地図上での経緯度43、26度線内に位置する国、すなわち日本を意味する。
小澤 そうした異分野からの刺激を受けて、満を辞して『43-26』が放たれたと。
森田 そうですね。この作品を作っていた時は僕自身メンタル的にかなり不安定な時期で、孤独を感じている時期だったんですよ。それでスケートビデオを通して人は泣けるのかなってふと考えたんです。僕自身、感動はするけど泣いたことはなかったなって思って、だったらそんな作品を俺が作ってやるって思って編集してましたね。
この作品で国内のフィルマーとしての立ち位置を確立した感はあるよね。(平野)
小澤 しかも確かこの頃からスケートビデオの上映も映画館で行うっていう、もちろん海外での主流な方法なわけだけど、それを先駆けて取り入れていたのも森田だったんじゃないかなって記憶しているんだけど。今でこそ普通になっていることではあるけど、そのあたりの自覚はどうかな?
森田 もちろん意識してやりましたね。音もしっかり上質な環境で聴いて欲しいし、映像ならではの“間”とかね。俺は『43-26』以降、スケートビデオを映像科学として捉えていて、ビジュアルとBGMがどうやって脳内にインプットされていくのかっていうことをひたすら研究していた。スケートビデオにおいて音が大きなフックになるっていうことに本当の意味で気がついたのもこの時だった。
小澤 うんうん。少しづつ森田の作品の本質が見えてきたね。やっぱりその変化、進化を生み出したきっかけっていうのは「THA BLUE HERB」の存在が大きかったのかな?
森田 間違いないですね。やっぱりBOSSのリリックを聞いていたら、そうなっちゃいますよね。しかもこの頃はスケーターよりも「THA BLUE HERB」の面々と連んでましたからね。影響は嫌でも受けてると思いますね。昼間はスケートして、夜は「THA BLUE HERB」のライブに行って、みたいな生活をずっと繰り返してましたね。
とはいえ仕事の感覚というよりは、ほぼ遊びですけどね。それで、その後も変わらず「THA BLUE HERB」の映像や彼ら伝いで知り合った「Calm」ってアーティストのライブ映像の監督をしたりしながら、気が付いたら5年くらいスケートボードの映像作品をリリースしていなくて。
それでそろそろ国内のスケーターたちがみんなビビるような作品を作りたいなと思って『UNDERGROUND BROADCASTING』※22 を作りました。
※22 前作『43-26』から本格的なスケート作品としては約5年ぶりとなる新作。「Calm」や「THA BLUE HERB」などのミュージックDVDの製作を経て、さらに研ぎ澄まされた撮影技術と「FESN」独自の編集技術が垣間見えた今作。東京、大阪、神戸、岡山、名古屋、福岡、沖縄など日本中のトッププロからアマチュアまで総勢127人のスケーターによるフッテージを収録した、全71分の超大作。さらに音源では、「HERBEST MOON」やDJ KIYO、GOTH-TRADなどを始めとする16名のアーティストからなる豪華な楽曲ラインナップが彩る。
平野 この作品で国内のフィルマーとしての立ち位置を確立した感はあるよね。映像作品としてはもちろん、とにかく編集力なんかがメキメキ上達しているのが分かる。
小澤 うんうん。森田の真骨頂だよね。ちなみにこの頃っていうのは、撮りたくなるスケーターは何か理由があったの? 傾向というか。
森田 人間的な部分も滑りも両方ですね。こいつは撮ったら気持ち良いだろうなって直感で思える人を追いかけてましたね。
平野 そして次は、ついに“日本の森田”から“世界のMORITA”となった名作、『overground broadcasting』※23。
※23 1995年から本格的な映像作品を撮り続けてきた森田貴宏しいては「FESN」の集大成ともなる歴史的な名盤。ストイックなまでに徹底したカメラアングルと緻密な編集、そしてそれら全ての映像を彩る音楽。さらには彼自身によるスケートパフォーマンスから巻き起こる発想は作品全体に無数のメッセージを発信する。前作の対ともなる本作のテーマは「世界」。デニス・ブセニッツやマーク・ゴンザレス、リッキー・オヨラを始め、世界のレジェンドスケーターや新旧のスタースケーターが出揃った国内陣のラインナップは当時としては圧巻。この作品を機に、森田チルドレンと呼ばれる後継者が全国各地に次々と現れ、「FESN」以前、「FESN」以降という言葉まで生まれた。そして世界に森田貴宏の名を知らしめ、ワールドワイドに著名なスケーターやブランドなどと関係性が生まれるきっかけともなった。
森田 これは前作の『UNDERGROUND BROADCASTING』の世界版っていう意味合いの内容にしたくて、日本人だけじゃなくて半分以上が海外のスケーターっていう作品。俺の師匠でもあるリッキー・オヨラ※24 も出てるしね。
※24 90年代初頭よりイーストコーストを代表するプロスケーターとして数々の名パートを世に残してきた人物。またスケートボードシーンにおけるキング・オブ・ストリートの称号を欲しいままにするなど、ストリートスケートに精通するスケーターでもある。現在は日本でも人気のスケートブランド〈TRAFFIC〉の総指揮を執る。
平野 これはアメリカでももちろん撮影してるんだよね?
森田 そうだね。敵が増えるかもしれないけど、この時期は「日本なんてしゃべえ」って思ってたんだよね。俺らこの作品の制作とかデザインとかは3ヶ月で作ったんですよ。
森田 この作品を出したことでフランス人が日本にやってきて、自分たちと繋がるようになった。
小澤 そうかそうか。しかしこの頃の作品を改めて観返すと本当に脇目も振らずに森田節全開でいってるよね。太呂もこの辺りの作品はよく観ていたんじゃない?
平野 そうだね。あの時期の映像作品って世界的にも前例のない新しさがあったよね。かつて『public domain』に憧れてビデオを撮り始めた男が、気がついたら世界のスケートビデオをどんどん追い越していく姿を見ているような感じだよね。
この作品で、海外からも「森田は他の奴らとはちょっと違うぞ」って知られるきっかけになった。一言で言えば、日本のスケートビデオのイメージをグッと押し上げたんだよね。
平野 まぁ、プレイヤーとしてのスケーターでいったら宮城豪※25 君もそうなんだろうけどね。でもこの作品を改めて観てみると、随所に『public domain』っぽさっていうのが感じられるんだよね。劇的な構成だったり、仕込みのこんだ演出だったり。でもその一方でフィッシュアイレンズとノーマルレンズを織り交ぜながら魅せるっていうのはそれまで僕は観たことがない発想だったね。とにかく森田の才能が爆発した作品だったんじゃないかな。
※25森田貴宏氏もそのセンスを認め、世界各国から注目を集める奇才なオリエンタルスケーター。変形レールで魅せるオリジナリティ溢れるトリックやスタイルで世界中の注目を集め、いま最も世界に名の知れ渡ったスケーターでもある。愛称はドラボン。
小澤 日本ではもちろんだけど、海外の著名なスケーターたちも皆この作品は観てるんだよね。リック・ハワード※26 なんかもこの作品にとても驚いていたしね。トップスケーターで観ていない人はいないって感じの名作だよね。
※26 マイク・キャロルの盟友として知られ、「Girl Skateboards」や「LAKAI」の創立者でもあるスケートボード界の風雲児的な存在。1996年にリリースされた「Girl Skateboards」の名作ビデオ『Mouse』は一世を風靡するほどの人気に。さらにプロスケーターとしても自身の名を冠した「ハワード・フリップ(ファイキー・フロントサイドビッグスピン・ヒールフリップ)」の発明者としても著名。
森田 『overground broadcasting』は僕の手掛けた作品のなかで最も思い入れの深いものなんですよね、やっぱり。正直これが完成した時に、『この作品を作るために僕はここまでビデオを撮ってきたんだな』って思えたんです。常に前作を超えたいという気持ちで4作品をリリースしてきて、これが僕のある意味での映像作家としての集大成的な作品だったんです。
平野 同時にアメリカっていうのも強く意識していたんだよね?
森田 アメリカのビデオをやっつけてやるって気持ちだったからね。っていうのはちょっと前に話したようにホームビデオの普及によってスケートボードのビデオが誰でも撮れるようになったら、今度は映像の作品性よりもスケーターたちのトリックの難易度を競うようになっていたんだよ。
著名なスケーターも、チームもそのネームバリューにあぐらをかいていることもしばしばあった。こんなんじゃスケートシーンが成長していかないって勝手に危惧していた頃に、ニューヨークのアンダーグラウンドなスケートシーンを見てみると、全然腐ってなんかいなかったんだよ。めちゃくちゃスケートも上手くて、スタイルもあって、カッコ良い映像を作っている奴らがいっぱいいたんだ。
小澤 魅せ方としてのスタイルを極めるか、スケートトリックのスキルを極めるかっていうところだよね。
森田 ステアを30段とか飛ばれちゃうとさ、もうスケーターっていうよりもびっくり人間っていう領域なんだよね。すごいなーって思うけど、でもカッコ良いとはまた別だなって。そこから抜け出せない人っていっぱいいるんですよね。
ビッグトリックにチャレンジしていくスケーターを否定するわけではないんだけど、そうしたビッグトリックでないと感動できなくなってしまう不感症なスケーターを増やし続けちゃうんだよね。
それって僕が思うにスケートデッキのカンパニーが板を売りたいからこそ、そうした流れを作っていったんですよね。難しいトリックを促してデッキが折れれば沢山売れるじゃないですか。
森田 スケートデッキをわざと折るような映像を入れたりするじゃない? あんなの俺からしたらありえないからね。日本人の俺からしたら、お金持ちになった海外スケーターの余暇活動っていうか。よくそんな風にスケートデッキを扱えるなって。
小澤 そこが森田の抱くアメリカのスケートシーンへの感情へと繋がっていくんだね。
森田 そうかもしれないですね。僕の中でスケートビデオのあるべき姿ってスケートボード本来の魅力を最大限に引き出すっていうことなんですよ。それはスケートボードって人生を豊かにしてくれるものなんだぜっていうのをたくさんの人に伝えることでもある。さっきInstagramの話が出てきましたけど、どんなに新しいメディアが登場しようとスケートボードのビデオって文化としてあり続けるわけだから、絶対になくならないと僕は信じていますね。
平野 そうした想いがあって森田はトレンドや主流の逆を自ら進んでいくわけだもんね。
森田 俺なんかあえて同じスケートデッキに一年とか乗ってましたからね。どんなにボロボロになっても折れるまで乗り続けるっていうね。
平野 そんな時期もあったね。森田はこの辺りの作品の時期からスケートビデオの在り方や、スケートビデオを通してシーンに対してなにを伝えるべきなのかっていうところまで考えるようになっていったんだね。
スケートカルチャーにルールや規制を持ち込むと必ずいざこざが起こる。(森田)
森田 ですね。最近は渋谷でもストリートスケートの危険性についてニュースになったりとかネガティブなトピックも少なくないじゃないですか。
平野 これは最近ハロウィンの時期に渋谷でたむろしているスケーターたちがニュースになった事件で、スケーター界隈ではちょっとした話題になった話ですよね。
森田 これが俺にとっては大問題だったんですよね。なんでかっていうと俺って普段街中でしか滑らないから。パークだと気分が乗らないっていうか。
平野 うん。実は僕もあの事件に関しては色々思うことがあって、ニュースで取り上げられたようなスケーターに対して非難するスケーターもいると思うんだよね。「お前みたいなやつがいるからストリートスケートができなくなるじゃねえか」って。あるいは「せっかくオリンピックがあるのにダメじゃん、こんなことしたら」って言うスケーターもいると思うんだよね。
森田 それについては僕も面白い話があって、昔、島根県の出雲にスケートをしにいった時に、街中に東京では見たこともないようなストリートセクション※27 があって、テンション上がって滑ってたら、すぐにパトカーと僕らを呼んでくれた現地のスケートショップの人が飛んできて、「森田くん~、ごめんなさい! 出雲はストリートスケート、だめなんですよ~!」って言われてさ(笑)。「街中で滑っちゃダメな街なんてあるのかよ!」ってカルチャーショックを受けたんですよね。
※27 街中で見られる、縁石や階段、手すりなどの建造物に対する総称。それぞれの建造物はそのままセクションとして見立てられ、ストリートスケーターにとっては絶好の遊び場となる。ただしその多くがスケートボードを禁止されているエリアやスポットのため、基本的にはイリーガルとなる行為。
平野 へ~。なんでだろうね。神様がいるからとかなのかな。
森田 それが理由を聞いてみたら、スケートパークを作ったからって言うんですよ。
平野 滑るならそっちで滑りなさいってことだよね。パーク派とストリート派っていうので大きな分断があるんですよね。
森田 僕がこの出雲で感じたのは、スケートカルチャーにルールや規制を持ち込むと必ずいざこざが起こるってこと。「ストリートで滑ったやつがいるからスケートパークは閉鎖します」とか「お前のせいでスケートパークが閉鎖しちゃうだろ」とか。
平野 そうそう。今ってさ、スケートパークも沢山できてさ、子供達のスケート人口も増えててさ、世界大会で優勝するような日本人スケーターが生まれたり技術面も向上していて、一見国内のスケートシーンが成長しているようにも思えるけど、実は僕自身も森田と似たような怖さを感じているんですよね。
森田 今こそスケーターは意識することが大事ですよね。
森田 あとは過保護すぎるのもよくないですよね。スケーターたるものスケートで怪我したり、事故に遭ったとしても自己責任なわけだからね。
平野 確かに。一概にストリートスケートだけが危険っていう論は成り立たないよね。
森田のその時々の考えやマインドっていうのがきちんと映像作品に表現されている。(小澤)
森田 僕らは今中野区で行政の人や「FAT BROS」の萩原さんたちと一緒に無償でスケート教室をしているんですが、そこでは子供達にももちろんスケートを教えていますが、その親御さんにもスケートボードってこういうものなんですよっていうのを伝えているんです。
森田 で、よく聞かれるのがオリンピックに対してはどうなのかっていう点。ストリートスケートを推進しているってことはオリンピックには反対なのかって思われるけど、逆なんですよ。大賛成。
だって子供達に夢ができるし、目標もできる。でもそれとストリートスケートを排除する動きってのは違うんじゃないですかって。ストリートスケートを見せしめに人質にとって、パークを推進するようなら反対だってはっきり言ったんです、行政の人たちにも。
小澤 森田がここまで熱くストリートにこだわる理由をもう少し聞いてみたいな。それはきっとストリートを舞台に映像を撮り続けてきた森田の言葉で聞くことでより説得力を持つと思うから。
森田 街中に溢れる建造物をスケートボード一本で攻略していく楽しさですよね。
小澤 本来はスケートボードのために作られていない街中の建造物を遊び場に変えていけると。
森田 はい。あとは僕がビデオを通して初めて感動した映像がストリートスケートだったから。初期衝動みたいなものですよね。あれがランプやパークでの映像だったら今でも僕はそっちをメインに滑っていると思う。
平野 『public domain』もそうだったもんね。
森田 だからこそ映像っていうかスケートビデオが与える影響力ってとんでもなく大きいんですよね。それくらいビジュアルを通してスケートボードの魅力を伝えるって大変だし、すごいことなんですよ。
森田 最近はインスタグラムやYOUTUBEでも手軽に映像を届けられる時代になったって何度も話してますが、そのあたりの認識が浅いアマチュアな作り手が誤解を招くような映像を届けてしまう。するとスケートシーンの向かうべき方向性っていうのも変わってきしてしまうんです。だから受け手もそこはしっかりと見定めて欲しいですよね。
平野 そこが本当の意味で森田がスケートビデオを作っていくことに対して大きく意識が変わった瞬間なのかもね。
森田 そうですね。スクールを始める前はパーク推進派への反発が偏りすぎて、だったらストリートスケート=犯罪者っていうストーリーをあえて作って、『STREET KILLER』ってタイトルの映像を作ってやろうと思ってたんですよ(笑)。でもそれがスケートスクールをやっていた経験があったからこそ、「あ、これは違う違う」って思えたんだけど(笑)。
森田 大人になったっていうのもあるのかもですね(笑)。
小澤 こうして話を聞いていくと、森田のその時々の考えやマインドっていうのがきちんと映像作品に表現されているよね。当時リアルタイムで観ていた人にとってもこの話を聞いた上で改めて観てもらえたら新しい発見があるんじゃないかな。ちなみにこれから初めてスケートビデオを観てみたいと思った人になんか森田からアドバイスはあるかな? 森田が初めてストリートスケートのビデオを観てからその分野に傾倒していったように、最初の1本って大切じゃない?
森田 もうそれは『overground broadcasting』しかないですよね。
森田 あとはその次に僕がやっているクロージングブランドのプロモーション映像作品としてリリースした『LIBE BRAND UNIVS.』※28 ですね。他にもいっぱいあるけど、手前味噌ながらこの辺りは必見だと自負しています。
※28 2010年にリリースされた、森田貴宏氏が主宰するクロージングブランド「LIBE BRAND UNIVS」のプロモーションDVD。より多くの人が楽しめるようなもの、そしてより多くの人が手に取れるように、との理由から低価格での販売を実現。盟友である「THA BLUE HERB」の出演が作品に華を添える。
小澤 『LIBE BRAND UNIVS.』は確か千円とかだったよね? それこそ当時の一万円以上するスケートビデオからしたら破格だよね。ビギナーや初めてスケートビデオを知る人にとっては手に取りやすいかもね。
平野 そうだね。まだまだ森田に聞いてみたいことが沢山あるんだけど、時間が許す限り聞いていってもいいかな?
平野 森田が映像を撮るときに、被写体と対峙して一番意識することってなんなんだろう? 良い映像を撮るコツとして。
平野 カメラを向けるタイミングとかも難しいじゃない?
森田 あー、確かにそうですね。でも良いものを撮りたかったらまずは自分が一番滑ることですよね。モチベーションを上げていかないといけないし、その場のムードも作っていかないといけないしね。
固定概念を壊すというよりも固定概念なんか最初からないんだっていうこと。(森田)
小澤 僕の印象だと森田はライティングとかにも強いこだわりがあったように感じるけど、その辺りはどうなのかな? かつてはビデオカメラにコンビニの袋を被せて光を柔らかくする工夫を凝らしたりもしてたよね。
森田 そうですね。今は流石にやっていないですけど、ライティングや光の演出は今も意識しているし、研究していますね。基本スケートボードの撮影は夜に行われることが多いので、陰影の見え方っていうのが重要なんです。それはきっと太呂くんなんかは専門分野だと思いますけど、スケートビデオも一緒なんです。
森田 あとはスケートビデオを撮るようになったら、一度スケートビデオから距離を置いて映画や音楽からインスピレーションをもらうっていうのも大事ですよね。
小澤 ある時から森田の作品を観ていると映画を観ているかのような感覚に陥ることがあるもんね。
森田 あと編集の感覚はDJと似ているかもしれないですね。それこそスケートと同じくらいクラブで遊んだりもしていましたからね、僕は。
森田 ちなみに『MISSING OUR BROTHER (THE LAST EPISODE OF A SERIES)』※29 では、ライティング含め映像の可能性を模索するために全編Go Proを使って撮影したりもしました。
※29 2013年に開催された『ISFF+GoPro Filmmaker Challenge』というコンテストで日本代表として発表した作品。フランスのスケートクルーである〈Magenta Skateboards〉との共作『SOLEIL LEVANT』のプロモーション作品からスタートした同シリーズの完結編でもある。この作品で見事準グランプリを受賞。前編GoProによって撮影された、森田氏にとって新境地ともなる作品。
平野 この作品もすごいね。やっぱりどこか『public domain』に通じるものがあるね。最近の作品にも少し触れておきたいんだけど、変わらず純粋なスケートビデオじゃない映像も撮っているよね。
森田 そうですね。「RedBull」の企画でラッパーのBESくんやISSUGIくんたちと一緒にドキュメンタリーの映像※30 や音楽を作ったり、今年の夏に千葉の市原にある現代美術館で開催した展示※31 の映像や最近一番刺激を受けた北九州のスケーターで彫り師でもあるBABUくんの生き様を紹介した「MY FRIEND “BABU”」※32 って作品とかね。色々作ってますよ。
※30 国内ヒップホップシーンで揺るぎない存在感を示すラッパー兼ビートメイカーのISSUGI氏とBES氏が即興を基に作り上げた「RedBull」企画のキャンペーン楽曲「プレイグラウンド2018」。その制作の裏側やクリエイション風景を切り取った映像を森田氏の手によって映像化。スケートボードからヒップホップへ、ヒップホップからスケートボードへ。感覚が交差し、伝播していく熱量が体現された、未だかつてないジョイントムービー。
※31 今年7月14日から9月17日まで市原湖畔美術館にて開催された、「そとのあそび」をテーマにした14組のアーティストとグループによる展覧会。そのなかで森田貴宏氏は最も大きいフロアにフリーハンドによる大規模なアート空間を表現。書家でもある実の父からインスパイアを受けたスケートデッキによる筆の筆跡を施したモノクロ空間は、現代美術家としての森田氏の新たな第一歩となった。
※32 北九州出身で小倉在住のストリートアーティスト。また生粋のスケーターでもあり、旅を通じて自らのスケートデッキを世界で一枚しかないアートピースへとカスタムしながら、全国各地で精力的に展示を行う。また彫り師としても活動する。
小澤 森田の場合は、単純にフィルマーというよりも本当に優れた映像作家としての片鱗を感じるんだけど、普段のクリエイションでは絵コンテとかプロットを用意したりしているの?
森田 時と場合によりますね。ノリだけで作っちゃうこともあるし。でもコンセプトとかテーマは必ずありますね。とはいえ僕ってやっぱり実験的な作品を作ることが好きなんだと思うんですよ。今まで誰も着手したことがないようなものを作ることが僕の使命でもあるというか。
小澤 固定概念をぶっ壊すっていうね。それはまさに「スケートボードとアート」の回で話したニール・ブレンダーのようにね。
森田 コンテスト中にスプレーアートをやっちゃうみたいなね。
小澤 どんなテーマであっても通じるものがあるっていうのがスケートカルチャーの良いところですよね。
森田 固定概念を壊すというよりも固定概念なんか最初からないんだっていうこと。ここまで色々僕も偉そうに話してきたんですけど、結局のところスケートボードって自由なんですよね。究極滑ってなくてもスケートボードが好きならそれで良いわけだし。レイシストが一番良くないじゃないですか。
作り手としてはこだわりは当然あるけど、プレイヤーとしては気持ち良かったらOKなんですよ。スケートボードって妬みや比較のない世界で、ヘイトもない。だから警備員とも仲良くなっちゃうしね(笑)。
平野 警備員と仲良くなって、ストリートで滑ってる森田の映像何度か観たことあるな(笑)。
森田 結局は人間だからね。分かり合えるとスポットシーク※34 だって楽だし、撮影もスムーズにいくんだよね。
※34 街中に溢れるストリートのスケートスポットを、既存のものではなく新たなにスポットとして探し出すこと。このような行為を実践するスケーターをスポットシーカーとも呼ぶ。
森田 13歳で始まった僕のスケートライフの半生を映像化したものもあるんですが、たまにそれを観返してみてもやっぱりその原点というか根本は変わっていないんですよね。
平野 うんうん。いろいろ話を聞いてみてやっぱり森田は唯一無二な存在で、昔と変わらずスタイルを貫いていて安心しました。そうしたら名残惜しいんですが、そろそろ時間が来てしまったので、この辺りで一旦おひらきにしようかなと思います。本当はもっともっと話したいことがあるんだけどね。
小澤 スピンオフの回とかで話したいよね。それこそその時は森田の回とかにしてね。
平野 ありがとう。それでは次回は、また毛色の異なるゲストをお呼びして、「スケートボードとファッション」をテーマに開催したいと思います。
小澤 そろそろこの講座クラスでも中間テストをやってみようか。
平野 問題作らないとね(笑)。ではみなさん、また12月12日(水)にお会いしましょう~。