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国内スケーターたちの気になるセカンドキャリア論。

HOUYHNHNM SKATEBOARD CLUB vol.7

国内スケーターたちの気になるセカンドキャリア論。

スケートボード専門誌『Sb』の編集長である小澤千一朗さんと、スケートボードフォトグラファーの第一人者である平野太呂さんがホストを務める、フイナムによるスケートボード連載企画「フイナム スケートボード クラブ」がポッドキャストの収録へとアップデートを遂げ、気持ち新たに後半戦がスタート。7回目のテーマは、「スケートボードとビジネス」。ゲストにはスケートボードブランドの輸入代理店を手がける田中憲治氏と、かつてプロスケーターとして世界中に名を馳せ、現在はスケートカンパニーを切り盛りする中島壮一郎氏をお招き。スケートボーダーとしてのセカンドキャリアを築く2人を中心に、拡大化していくスケートシーンをビジネス的視点から紐解いていきます。

  • Photo_Shin Hamada
  • Illustration_Sho Miyata
  • Text_Yuho Nomura
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小澤千一朗 / ライター・編集者

90年代、国内初のスケートボード専門誌である『WHEEL magazine』の編集長としてアメリカでのスケートカルチャーの取材を精力的にこなした後、2001年に『Sb SkateboardJournal』を刊行。以後、定期刊行する傍らストリートカルチャーにとどまることなく、多角的に国内外の媒体で執筆活動を続ける。新著書として、パンダのグラビア本三部作『HELLO PANDA』、『PANDA MENTAL』、『HELLO PANDA CAKE』が発売中。

平野太呂 / フォトグラファー

武蔵野美術大学で現代美術としての写真を学ぶ。その後、講談社でアシスタントを務め、スケートボード専門誌の『WHEEL magazine』や『Sb』の立ち上げに関わり、フォトエディターを務める。以後、広告やCDジャケット、さらにファッション誌やカルチャー誌などを中心に活躍中。主な作品に、写真集『POOL』、『Los Angeles Car Club』、『The Kings』など。

中島壮一朗 / 「INDECKS」代表

1979年生まれ、神奈川県生まれ。90年代後半よりプロスケーターとしてのキャリアをスタートさせ、その日本人離れしたスケートスキルは、国内はもちろん海外のメディアでも大きく取り上げられ、2006年にはアメリカの大手スケートカンパニーである「ELEMENT」から世界初のシグネイチャーモデルのデッキをリリースし、一躍話題に。その後、2008年には自身がプロデュースするビスブランドの〈SOURCE〉を、2009年にはスケートブランドの〈IFO SKATEBOARD〉を始動。各ブランドの運営を総括するスケートカンパニー「INDECKS」を指揮するなど、スケートカルチャーにまつわる活動を多岐にわたって行う。

田中憲治 / 「UNDERDOG DISTRIBUTION」代表

1977年生まれ、群馬県出身。80年代後半にスケートボードと出会い、90年代から本格的にスケーターとしてのキャリアをスタート。当時にしては、いち早く海外へと飛び出し、現地のローカルスケーターたちとの交流を深め、その後2000年代に勤めていたスケートブランドに精通した輸入代理店を経て、現在は〈CONSOLIDATED〉や〈BLACK LABEL〉などのハードコアな海外スケートブランドをメインで取り扱う輸入代理店「UNDERDOG DISTRIBUTION」を立ち上げ、その代表を務める。さらにスケートパークの建設にも携わるなど、国内スケートーシーンの発展にも貢献する。

このまま日本でスケートボードをしていても限界があるなって感じていた。(中島)

平野太呂(以下、平野)フイナムスケートボードクラブ、第七回目のテーマは、「スケートボードとビジネス」というテーマでお送りします。スケートボードとビジネスというと、皆さんがどんなことを思い浮かべるのか分からないんですけど、まず分かりやすいところでいうとプロスケーターはどのようにお金を稼いでいるのか、という部分。

小澤千一朗(以下、小澤)そこに関して一番知っているのは、やっぱり中島壮一朗だよね。かつてはプロスケーターで、現在はスケートブランドとスケートカンパニーを手がけている彼に早速聞いてみたいよね。

平野いきなりですが、聞いてみますか。

中島壮一朗(以下、中島)中島壮一朗です。皆さんお久しぶりですね。現役の時は、毎週のように撮影とかしていましたけど。

小澤今はもう現役じゃないの?

中島6年前に膝を怪我してからは、一線からは退いていますね。病院とかも行ったんですけど、半月板も軟骨もなくなってしまい、膝の上下の骨もえぐり取られてしまった状態なので、もう治せないんです。僕も今年40歳なので。

平野治らないんだ、それは大変だ。それとここでもう一名、ゲストをご紹介しておきますか。

中島まだ全然質問に答えられてないけど(笑)。

平野ごめんごめん(笑)。とりあえず自己紹介だけ先にしておきましょうか。

田中憲治(以下、田中)田中憲治です。「UNDERDOG DISTRIBUTION」という輸入代理店をやっています。スケートボードの業界ではディストリビューションなんて言われ方もしますが、要は海外のスケートブランドを輸入して日本のスケートショップに卸している仕事ですね。あとは自給自足したりして暮らしています。

小澤改めて、今回2人をゲストに呼んだのは、90年代からともにスケートシーンに身を置きながら、その一線で活躍していた2人のセカンドキャリアと言っていいのか怪しいけど、スケーターとしてではないスケートボードとの関わり方が知りたい。しかもそれをどう仕事にしていくのかという部分に迫りたいなと。アメリカだとサンプルケースが沢山あるけど、日本だと世代的に僕らが最初だったりするからね。だからこそセカンドキャリアの最先端にいる彼らに、普段語られることのないスケートボードのビジネスについて語ってもらいたいと思っているんだよね。

平野僕は小澤と一緒にずっと雑誌を作ってきて、雑誌が売れればそれがお金になっていくような世界にいたわけで、スケートボードと関わりながら出版という側面で仕事をして生活をしていたんだけど、その被写体となるスケーターたちにはお金が発生することってほとんどなかったじゃない? もちろん広告的な撮影やスポンサーとの仕事は別で。なので当時どう思っていたのかなっていうのが、まず気になったかな。

中島僕は割と、当時は恵まれていた環境に置かれていたのかなって思いますね。その頃サポートを受けていたいくつかのスポンサーブランドからは、毎月給料制でお金をもらっていたり、雑誌に掲載されたらフォトインセンティブっていう形で報酬をもらっていたりもしたので。

平野なるほどね。それはアメリカでもそうだったの? 例えば〈STEREO〉*1の時とか。

*1 1992年に当時〈BLIND〉の看板ライダーであったジェイソン・リーとアーティストとしても著名なクリス・パストラスによって立ち上げられたスケートデッキの専業ブランド。日本が誇るプロスケーターの中島壮一郎が90年代後半に、同ブランドからアジア人としては初のシグネイチャーデッキをリリースしたことでも知られる。

中島アメリカでももらっていましたよ。でも〈STEREO〉からはもらっていませんでしたね。基本的に「DLX」は、お金でライダーを獲得するっていうよりは、もっと人間味のあるカンパニーだったので。

田中仲間になったスケーターを迎え入れるって感覚に近いんだろうね。

中島そうそう。

平野そのカンパニーの雰囲気って誰が作っているの?

中島誰だろう? やっぱりジム・シーボー*2なのかな?

*2 かつて80年代には〈Santa Monica Airline〉所属のトップライダーとして活躍し、その後一線を退いてからは、〈ANTI HERO〉や自身がトミー・ゲレロと共に立ち上げた〈REAL〉、 〈KROOKED〉、〈SPITFIRE〉、〈Thuder〉などの錚々たるスケートブランドを抱える、世界トップクラスのスケートカンパニーである「DLX」の社長に。今なお多くのスケーターから支持される存在。

田中あとは会社をやっている人とライダーたちだろうね。

平野チームマネージャーとか?

中島チームマネージャーはあくまでもライダーを管理する立場なので、そこまでブランドイメージを一から作るような感じでもなかったのかな。「DLX」の場合は、ジム・シーボーとかミッキー・レイズ *3とかがトップに立って、牽引していた感じですね。そのファウンダーたちに引き寄せられるようにして、サンフランシスコのキッズスケーターたちがスタッフとして働いているような100%スケートボーダーで形成されている会社なんです。

*3 トミー・ゲレロやダニー・サージェントと並び、80年代後半のサンフランシスコを代表するプロスケーター。現在は「DLX」のNo.2を務め、ジム・シーボーと共にスケートボードシーンにおいて多大な影響を与える重鎮。

小澤いきなり核心に迫れた気がするね。

平野そうだね。ちなみに壮一朗は湘南の茅ヶ崎とか鵠沼が地元で、そのエリアでずっとスケートボードをしていて、そこから思い切ってアメリカに打って出たわけじゃない? その時の想いってどうだったの?

中島僕がこんな言い方をすると角が立つかもしれないんですけど、その当時ってこのまま日本でスケートボードをしていても限界があるなって感じていたんですよね。小さい頃からスケートボードのプロになって、スケートボードで生活したいって強く思っていたので、その夢を叶えるにはアメリカに行くしかないかなって。

平野その限界っていうのはお金の面で?

中島お金っていうよりは、環境ですかね。アメリカだとプロのフォトグラファーとかチームマネージャーとかスケートボードにまつわる職種の人がきちんと周りにいるから、毎日のように撮影しに行けるんですよね。でも当時の日本はみんな仕事の片手間だったり、学生という本業があったりで、なかなか撮影しに行けなかった。

平野なるほどね。毎日スケートボードをして、毎日なにかしらの痕跡を残したいっていう気持ちがあったんだ。

中島スケートボードをしたいって思った時にいつでもできる環境ってやっぱり大きいですよね。

平野最初にアメリカへ行った時は、なにかツテがあったの?

中島ある時アクティブコレクション *4 に行ったら、昔から可愛がってもらっている、今はオリンピックのスケートボード男子日本代表の監督になった西川さん *5 がいて、その時に『壮一郎に紹介したい人がいるんだけど』って言われて、紹介されたのが、サーフィンのプロロングボーダーの枡田琢治くん *6だったの。

僕は初めて会ったんですが、琢治くんは僕のことを一方的に知っていてくれて。僕が載っていた雑誌の話とかをされて、いきなり『アメリカ行く?』って聞かれたんです。急すぎて戸惑いながらも『え、行きたいです!』って答えたら、『よし、行こう!』ってトントン拍子に話が進んで。それからチケットもホテルも用意してもらって。

*4 1989年から2004年まで開催された日本最大級のアクティブスポーツのトレードショー。国内外のサーフボードやスケートボード、スノーボード、BMXなどのスポーツギアからアパレル・アクセサリーまでが一同に集まった合同個展会で、現在の「インタースタイル」の前身となるイベント。当時は池袋パルコや東京ビッグサイトなどの会場で開催されていた。

*5 本名、西川隆。一般社団法人日本スケートボード協会(AJSA)の理事を務め、日本代表チームの監督を指揮する人物。東京五輪オリンピックで初めて競技として採用されるスケートボードの取り組みに関して、さらにはその出場資格を持った若手スケーターの人材育成など、その実務は多岐に渡る。

*6 1971年神奈川県出身で、現在はスイスに在住する日本のプロサーファー。1994年のカリフォルニア滞在中に、フランスのスポンサー会社とプロ契約を結び、2001年に開催されたJPSA主催のコンテストでグランドチャンピオンとなり、一躍話題に。現在は一線からは退き、悠悠自適なフリーサーフィンライフを送る。

平野すごいね。

中島そうなんですよ。しかもアメリカに行くってことで、『クリス・パストラス *7 と仲が良いから、彼に〈STEREO〉で壮一郎をサポートするように話をしておく』って言ってくれて。嘘か本当なのかも分からないまま、その言葉を鵜呑みにしてアメリカに飛び立ったんです。

*7 DUNEの相性で親しまれる、プロスケーター兼アーティスト。80年代には東海岸のDOGTOWNという異名を持ったニューヨークの老舗スケートショップ「SHUT」のライダーでもあった。現在は盟友ジェイソン・リーと共に立ち上げた〈STEREO〉のディレクターを務める。アイコニックな眼鏡は彼のトレードマークでもある。

平野いきなりサンフランシスコ?

中島最初は、琢治くんの会社が当時マリブにあって、そこで寝泊まりする予定だったので、2,3日はロサンゼルスにいて、それからサンフランシスコって感じですかね。サンフランシスコでは一応宿になるアパートの手配までは琢治くんが予約してくれたんですけど、実際に行くのは僕だけで。『あとは頑張って』って(笑)。土地勘もないし、サンフランシスコに知り合いもいないから、頼りになるのは紹介してもらった「DLX」くらいだったんですよね。

よく分からない状況だったんですけど、それ以上に憧れだったアメリカに来れたという嬉しさと、思う存分スケートボードができるって喜びを考えたら、そんな不安もすぐに吹き飛びましたけどね。

小澤うんうん。そういうスケーターらしい警戒心のなさがいいよね。でも話を聞いて、当時僕とか太呂は、壮一朗と枡田琢治くんが昔から仲が良いから、それで一緒に行ったのかと思っていたよ。そんな話があったとはね。

田中その時に「411VM」*8 の撮影もしたの?

*8 1993年に誕生した伝説的なスケートビデオマガジン。そのオープニングを飾ったのが日本人スケーターの中島壮一郎であったことはスケーター業界ではあまりにも有名な逸話。また411の数字はアメリカの番号案内を示し、情報というスラングから派生して名付けられており、さらにスラムシーンのみを収録したスピンオフ的作品の「911VM」は、警察や救急車を呼ぶ電話番号から由来された。

中島いや、あれは2回目の渡米の時ですかね。サンフランシスコに今でも住んでいるKEN GOTOというフォトグラファーの方がいて、その人の家に泊まらせてもらっている時に、夜中いきなり酔っ払った白人が家に入ってきて、『おまえのこと知ってるぜ』って。『俺カメラマンだから、明日撮影しに行こうぜ』って言われて。その時に撮影したんですよね。

*9 90年代よりサンフランシスコを拠点とする日本人フォトグラファー。10代からスケートボードに没頭し、以来スケートボードが自身のライフスタイルに。また現地のコミュニティカレッジに通っている頃に、カメラと出会い、フォトグラファーを志す。90年代後半には、「STRENGTH MAGAZINE」でスケートフォトグラファーとしてのデビューを飾り、著名なプロスケーターたちと親交を育みながら、現在はスケートボードのみならずファッションやブランド、広告など様々なクライアントワークを手がける。2011年には、サンフランシスコの「Cassel Gallery」で個展を開催し、その巡回展を2012年に東京の「COMMON Gallery」にて行った。

アクティブコレクションに行った時、初めてスケートボードに関連する流通や仕組みを認識できた。(田中)

小澤壮一朗は、その頃からすでに海外で知られていたわけだけど、壮一朗自身が思う自分の魅力ってなんだと思う?

中島僕の魅力? 毎日ピアセブン*10 やサードアンドアーミー*11 とかの色々なスケートスポットでスケートボードはしていたけど、改めて考えるとなんなんだろう…。ピート・トンプソンとかとも一緒に撮影しに行ったりはしていたけど。

*10 サンフランシスコで最も著名な伝説的ストリートスケートスポット。正式名称はPIER 7。1990年代にスケートスポットの中心地として栄えたEMBこと EMBARCADERO(エンバーカデロ)が取り壊しになったことで、90年代後半から00年代初期に隆盛を誇ったスポット。かつて「411VM」の19作目で収録されたスポットチェックコーナーで紹介された映像はあまりに有名。2016年には、〈FTC〉よりピアセブンでの往年のフッテージをまとめた珠玉のDVD『PIER 7』が発売され、話題に。海が近く、近辺にはフィッシマンズワーフなどの観光スポットもあり、日夜観光客やローカルのスケーターたちで賑わう。

*11 サンフランシスコのローカルスケーターにとってはお馴染みのストリートのスケートスポット。ピアセブン同様、海沿いにあり、セクションの難易度は少々高め。英語表記では3rd and armyとなる。

平野琢治くんから他にも色々人を紹介されたわけではなく、自分で自然と開拓していったんだね。ローカルのスケートスポットを巡りながら、友達になっていった感じなのかな。

中島そうですね。スポットでスケーターに出会ったら、英語も話せなかったので、とりあえず何を言われても「イエス」みたいな。

小澤いいねえ(笑)。

中島そうした流れで、『もしこのトリックができたら「411VM」に載せてやるよ』って言われて、撮影という名のミッションみたいな感じで、ほぼ専属みたいになったカメラマンと一ヶ月半くらい、ほぼ毎日のように撮影して過ごしていましたね。

小澤それが何年くらい?

中島2000年くらいですね。

小澤なるほどね。その一方で時を同じくして、憲治くんは代理店に勤務していたんだよね。

中島あれ? そういえば、その時に憲治くんがいた会社って、〈STEREO〉やってなかったでしたっけ?

田中あの頃は〈STEREO〉を扱う代理店が沢山あったんだよね。「ハヤシ トレーディング」*12とか「アドバンス」*13 とか。ひとつのブランドを沢山の代理店で扱うっていう形式を、当時の「DLX」は会社の方針として採用していたんだよね。

*12 日本の大手スケートボード輸入代理店。1996年よりサンフランシスコに拠点を置く、「DLX」傘下の〈ANTI HERO〉や〈REAL〉、 〈KROOKED〉、〈SPITFIRE〉、〈Thuder〉などのブランドの取り扱いを行う。

*13 正式名称は「アドバンス マーケティング」。1987年にアウトドアスポーツの輸入販売をスタートし、当初はスケートブランドの〈H-STREET〉やサーフブランドの〈Bullit〉をメインに取り扱う。現在はスノーボード、スケートボード、サーフィンの3Sを主軸に人気海外ブランドの輸入代理店を手がけながら、各種コンテストの主催なども行う。

小澤だとしたら当時から壮一朗の存在は見えていたの?

田中もちろん。「411VM」は観ていたしね。ウェルカムパートの映像で軽く話していたりしていたよね?

平野英語で?

中島英語とも言えない、レゴブロックのように単語を並べただけの簡単な自己紹介でしたけど(笑)。

平野それでもすごいよね。ちなみに憲治は「アドバンス」に入る前はなにをしていたの?

田中俺は普通に大学生でしたね。こんなナリだから誰も大卒だなんて思っていないんだけどね。でも大学時代はそれなりに勉強も真面目にしていたんだけど、それ以外の時間はスケートボードばっかりしていて、就活とか全くしていなかった。卒業したらどうしようって漠然と考えていた矢先に、さっきも話に挙がったアクティブコレクションに遊びに行ったんです。

その時に色々な代理店の会社が海外のスケートブランドの商品を展示していて、初めてスケートブランドの流通とか仕組みに関して認識したんですよね。それまでは当たり前のようにスケートショップに行けば、スケートボードのアイテムが並んでいるものだと思っていたのが、物事の見方が変わった瞬間でしたね。

平野そういった裏側の部分って最初はなかなか分からないもんね。

田中当時の「アドバンス」のブースに自分の好きなブランドが沢山あって、その時に初めて、働いてみたいなって思ったんですよね。それでその時、「俺を働かせてくれ!」って直談判したんです。その時は『特に今は募集していない』って言われてしまい、渋々諦めたんですが、しばらくしてパソコンでネットサーフィンをしていたら、「アドバンス」のHPで求人募集しているのを見つけて、すかさず電話したんです。『以前アクティブコレクションによく行っていた者です!』ってアピールしてね。

中島わざわざ言わなくてもいいのに(笑)。

田中それで本社のある茨城県のつくば市で面接してくれるっていうので、そこまで面接しに行ったら、社長が不在で、『また別の日にしてくれ』って言われてさ。ひでぇ会社だなって思いながらも、改めてアポイントを取って会いに行ったら、無事働けることになったんです。

中島もしかしたら試されていたのかもね。

田中「アドバンス」の社長はそういう人じゃないから、単純に忘れていただけだと思うんだけど、そんな経緯もあって晴れて「アドバンス」の社員になるんだけど、最初は主にスノーボードの商品の出荷をやっていたんですが、俺がたまたま英語を話せたっていうこともあって、それから2,3年くらいして他にも仕事を任されるようになったんですよね。

平野英語はたまたまなの?

田中勉強したってわけでもないんだけど、昔からスケートボードの雑誌を見るのが好きでね。それこそ「THRASHER MAGAZINE」とか読み漁って、辞書を引きながら読んでいたら自然と英語が話せるようになったんだよね。

平野すごいね。でもそれちょっと分かるかも。僕も昔「THRASHER MAGAZINE」の巻末あたりにあった白黒のゴシップページを見るのが大好きで。

田中スケートのビデオもそうだけど、雑誌とかって意外と勉強になるんだよね。

平野日常生活では絶対に出会わないような単語が沢山あるもんね。“ GNARLY” *14とかね。当時は“ GNARLY”ってなんだろう? ってずっと思っていたんだけど、周りの海外のスケーターはみんな使っているんだよね。

*14 スケーターやラッパーなどが頻用するスラング。「イケてる、クール、すごい、危ない」などの意味で使われる。同名で北欧発のスノーボードブランドがある。

田中直訳すると、でこぼこみたいな意味なんだけどね。スケーターが使うとスラングで、褒め言葉になるんだよね。

平野スケートボードをしていなかったら、まず出会わない言葉だよね。

田中あとは“ SICK” *15とかね。普通に訳せば病気なんだけど、スケーターたちが使い始めてからは、ヤバイって意味になるんだよね。

*15 一般的には「病気にかかる」と訳されるが、スラングでは「病的にヤバい、かっこいい」となる。スケーターのみならずラッパーやストリートカルチャーに根を張る人物たちに多用される。スラングのillと同義語。

平野病的なまでにヤバイみたいな派生の仕方なのかね。そういえば昔『SICK BOYS』*16っていうタイトルのスケートビデオがあったよね。

*16 現在はスノーボードシーンで活躍するフィルマーマックダウが活動初期となる1989年にリリースしたスケートビデオ。当時は〈SANTA CRUZ〉や〈POWELL PERALTA〉などのブランドが手がけるものが主流だった中で、異端な作品として話題に。のちに〈H-STREET〉による名作『HOCUS POCUS』も制作する、エクスストリームフィルマー界のレジェンド。

田中そうね。

僕らライダーとスポンサー会社の社員とのコミュニケーションが取りづらかった。ブランドをスタートさせたのは、その葛藤からの解決策でもあった。(中島)

小澤うんうん。なんとなく今までの話の流れを僕なりに整理すると、当時のアクティブコレクションってリアルなスケーターたちに良い影響を及ぼしていたんだね。

田中マルにあったのもアクティブコレクションだったからね。今から20年ちょっと前の話ですからね。

小澤そうだよね。それと普通であれば時給がいくらとか勤務地がどこでとかを基準にバイト先を探していた学生が、好きだからここで働くっていうピュアな想いを持っていたっていうのも良いストーリーだよね。

田中アクティブコレクションを通して仲良くなったスケーターや友達って今になって思うと沢山いるんですよね。

中島あの頃って今みたいにSNSもないし、インターネットも発達していない時代だったから、現場に行くしかなかったんですよね。

小澤その頃の経験が今の仕事に活かされていることってなにかある?

田中さっきも話した友達の繋がりってスケートボードのコミュニティにおいてめちゃくちゃ大事だから、僕が自分で代理店を始めてからも、ディストリビューターを探しているスケーターやスケートブランドを友達が繋いでくれることは多々ありますね。むしろそれでしかないかも。だから代理店をやっているんだけど、僕の場合は自分からブランドを探したりすることがないんですよね。ラッキーですよね(笑)。

平野でもそれは憲治の人柄があってだろうし、人徳だよね。だって例えば、アメリカからプロスケーターやスケートチームがジャパンツアーと銘打って来日した時に、代理店の人とかがアテンドをするじゃない? 僕もそういった場に居合わせたことは何度もあるんだけど、大抵どこの代理店も腫れ物を扱うように過剰にへりくだって接するじゃない? 良い意味で憲治にはそういった距離感がなかったっていうのも大きかったんじゃないかな。

田中俺すぐ怒るしね(笑)。お酒を一緒に飲んで、騒いで、そのノリで喧嘩して殴り合いもしたしね。それでも次の日になったらみんな忘れているみたいな。

平野そのノリが魅力だったんだろうね。

小澤憲治くんは不思議だよね、デタラメな部分も多いのに、綺麗好きだったり、写真も好きでアーティーな美意識を持っていたり。ギャップなのかな。

田中誰が言っていたか忘れちゃったんですけど、『ジェイク・フェルプス *17 が世界で一番スケートボードが好きな人物だ』って言っていたんですよね。彼は決してスケートボーダーとして立派な実績を打ち立てたわけではないのに、今では「THRASHER MAGAZINE」の編集長ですからね。

*17 サンフランシスコで生まれ、幼い頃からスケートボードにのめり込み、20歳で「THRASHER MAGAZINE」の販売員としてのキャリアをスタート。その後、1993年より編集長に就任し、26年に渡って同誌ひいてはスケートボードカルチャー全体を牽引。2019年の3月にこの世を去るまで、「THRASHER MAGAZINE」創設者のトニー・ヴィテッロが放った言葉通り、スケートボードへの飽くなき情熱を注ぎ込んだ、100%スケートボーダーの体現者でもあった。

小澤元々は「THRASHER MAGAZINE」の倉庫番だもんね。

田中そうそう。その頃はケヴィン・ザッチャーっていう人が編集長だったんだけど、ある時プロスケーターでもなんでもないジェイク・フェルプスが「THRASHER MAGAZINE」の誌面にケチをつけて、ケヴィンの目の前でページを破り捨てたりしたらしいんです。そしたらケヴィンが面白がって、『だったらお前がやれ』ってことで、ジェイクが編集長に就任したんですよね。

そんな僕の指針にもなっていたジェイクが亡くなってしまったというのは、ひとつの時代が終わってしまったのかなって思いもありますよね。

平野そうだね。

小澤「THRASHER MAGAZINE」は紙媒体として根気強く残っているけど、他の大手スケートボードメディアは軒並み紙媒体の事業から撤退している。これからプリントメディアはどうなっていくかっていうのは、紙の雑誌が好きな僕とかフィルム写真をあえて紙にプリントして価値を持たせてきた太呂からすると気になるところだよね。時代の流れに合わせるべきなのか、俺たちが変わるべきなのか。

平野難しいね。

田中でもスケートボードの業界だけじゃないですけど、雑誌はこれからも残っていくと思いますよ。それこそただ物を売るだけが目的だったら、これからは「Amazon」で事足りてしまうし。
例えばスケートショップなんかは、お店というよりも文化施設として機能しているじゃないですか? スケートボードをこれから始めたいお客さんにレクチャーしたり、ローカルだからこそ知っている街の情報を教えたり。そうしたことは実店舗じゃないとできないし、文化的な側面を持っているからこそ。だから雑誌もそういう役割を持っていれば、決してなくなることはないですよ。

平野まさにこのHSCの最初の回で僕らが伝えたかったことが、それなんですよね。

小澤逆にスケートブランドを手がけている壮一郎から見て、スケートショップの存在ってどうなんだろう?

中島僕の場合は卸がメインですけど、自社で細々と直販とかもしていますよ。

平野そういえば、壮一郎は膝を壊して自分がプレイヤーとしてはそろそろ一線から退こうかなと思った時に、なんでブランドを始めようと思ったの?

中島実は怪我をする前の28歳くらいの時に、30歳になったら一度自分の環境を変えてみたいって思って、漠然とですけど自分のスケートブランドをやってみようと思ってはいたんです。

そのきっかけとなったのは、その頃サポートをしてくれていたブランドの会社が大手で、僕らライダーとスポンサー会社の社員とのコミュニケーションが取りづらかったことにあるんです。なのでブランドをスタートさせるというのは、その葛藤からの解決策でもあったんです。

小澤実際に運営してみてどう? 大変じゃない?

中島最初は大変でしたね。0から全部自分でやらなきゃいけなかったので。

平野その30歳の時って変な話、スケートボード業界以外でも転職はできそうな年齢だけど、スケートボードの道をまた選んだのはなにか理由があるのかな?

中島中学の頃からその時までスケートボードしかしてこなくて、スケートボード以外の仕事なんてしたことなかったから、それ以外は考えたこともなかったですね。

小澤それは憲治くんも同じかな?

田中そうですね。他にやりたいこともなかったし、とにかくスケートボードが好きだったから、その好きなことで仕事ができるって分かったら俺にはこれしかないって。

小澤一緒の仕事にしていくんだって思うと、プレッシャーになったりはしない?

田中というよりは一生の仕事にしていくしかないですからね。俺にはこれしかないから。

平野ディストリビューション以外のスケートボード関連の仕事は考えたことはない?

田中俺はブランドをやれるような器の人間ではなかったし、壮一郎みたいに実績のあるプロスケーターでもないしね。だから裏方でもある代理店というのが結果的にはちょうど良かったのかもしれないですね。

平野憲治が思うに、ディストリビューションという仕事の醍醐味はどこにあると思う?

田中海外のスケーターたちと一緒に仕事をすることが多いんだけど、彼らって本当にめちゃくちゃで、連絡もなしに急に俺の家に泊まりにきたりするような奴らなんだけど、そんな破天荒なスケーターたちでも、きちんと生活ができているんですよね。

そんなのってスケートボードの世界だけじゃないですか。そうした環境に身を置けるのが一番楽しいことですかね。

平野出会いってことなのかな。でもそういうめちゃくちゃな奴らとビジネスするって大変じゃない?

田中大変ですね。でもそれ以上に楽しんでいるというか、俺自身が彼らとのやりとりとかコミュニケーションをとることに対して、ビジネスとして捉えていないっていうのもあるかもね。ビジネスをしているっていうよりも助け合いをしているって感覚に近い。
だから僕の場合、自分でビジネスをやっているんじゃなくて、周りのスケーターに助けられて生きているんですよね。それは本当に綺麗事ではなくて。

今の仕事をして気が付いたのが、本来ならお金を払ってでも体験したいこととかが味わえているわけで、決してお金では買えることのできない価値をもらえているだけでも幸せなんです。お金に支配されているこんな世の中で、友情みたいなものだけで生活させてもらっているのでありがたいですよ。

小澤それもめちゃくちゃな奴らを愛せる憲治だからっていうのもあるよね。彼らと同じように社会から逸脱している憲治だから(笑)。

平野逸脱(笑)。

田中逸脱しちゃったんですよね、本当。あるいは社会に対して反抗しているわけじゃなくて、自然と自ら離れていったんでしょうね。だから今、自給自足とかも始めちゃっているんでしょうね。でもそうした生き方っていうのもアメリカのスケーターたちにみんな教えてもらったことなんです。

スケーター同士でビジネスをしていくってことが大事。(田中)

小澤憲治のそのスタンスだったら、これからもずっと続いていく気がするな。たとえ代替わりしても。壮一郎のスケートカンパニーも同じように長く続いていて、今年で10年目だったよね?

中島そうですね。気が付いたら10年経っていたって感じですね。

平野そういえば壮一郎の普段の仕事って具体的にはどんな感じなの?

中島もう全部だね(笑)。チームのライダーとどんな撮影をするかって話し合ったり、どこにツアー行くかっていうプランニングとかプロモーションも考えたり、あとはWEBサイトの更新もするし、営業の電話もするし、海外との生産の話もするしね。

平野チームのケアとか管理までするんだね。例えば誰をライダーにするかって部分も壮一郎が決めているの?

中島まぁ他にやる人がいないからね(笑)。

小澤ライダーを選定する時に、やっぱり好みとかはあるわけでしょ?

中島ありますね。僕は憲治くんとは逆で、破天荒なやつは避けがちですね(笑)。常識のある子の方が安心しますね。

平野今は何人くらいいるの?

中島今は9人くらいかな。プロとアマ合わせてね。

平野プロにはお金を払っているの?

中島プロには払っていますね。あとスケートデッキとかのサポートも。

小澤偉いね。でもそれはきっと壮一郎がプレイヤーだった時にそうしてもらってきたからっていうのもあるのかな?

中島そうですね。自分がライダーの時は、メーカーの人たちに散々注文を言っていたから、それを自分がやらないっていうのはダサいじゃないですか。

平野いや偉いよ。ちなみに今だとライダーはどうやって決めているの?

中島まぁ一緒に滑ったりとかして仲良くなったスケーターが多いですね。

平野相変わらずスポンサーミービデオとかの売り込みも多いの?

中島なくはないですけど、取引先のお店の人に紹介されて、とかは多いかもしれないです。あとはロクでもないビデオの映像がSNSで届いたりとかもありますね(笑)。

平野やっぱり今はSNSなんだね。

中島それこそSNSだから世界中から届きますよ。でもどれもロクでもないっていう(笑)。

平野それはそれでまとめたら面白そうだけどね(笑)。

小澤それに映像作品も定期的にリリースしていて、スケートボードのブランドとしては成熟した段階にあると思うけど、今後はどうなっていきたいの?

中島そればっかりは分からないですね。ずっとやっていきたいって気持ちは持っているけど、時代は変わっていくのに今のように自分が歳をとっても同じことができるのかって不安はありますよね。それこそ60歳になってもスケートボードのデッキを作っていられるかって言ったら、分からないじゃないですか。

小澤あるいは壮一郎なら、アメリカ的なアプローチで会社を売却とかね。

中島それは面白いかも。でも果たして売れるのかな?(笑)。

小澤まさか壮一郎がこんなに立派に会社を立ち上げて、ビジネスをやるようになるなんて思ってもみなかった。昔一緒にアメリカへ行った時の印象も、やっぱりどこか若さゆえのノリで乗り切ってるところがあったからさ。

田中それが重要だったんじゃないですかね。とりあえず始めちゃう、っていう瞬発力ですよね。

中島それはあるかもですね。深く考えすぎたら足踏みしちゃって、日本でスケートボードのビジネスなんてやらないと思う。リスクが高すぎる。

田中仕事でみたら、もっとマシな仕事なんて沢山あるしね(笑)。

小澤アメリカのプロスケーターたちのセカンドキャリアは、どうなんだろうね。

田中僕や壮一郎のようにスケートボードにまつわる会社や仕事をやっている人もいれば、全く違う仕事をしている人も沢山いますよ。でも最近は代理店やスケートカンパニー以外に、スケートパークを作るっていう選択肢がひとつ増えましたよね。

平野そうだね。パークビルダーっていう職種だよね。

田中はっきり言って、スケートパークが作れたらなんでも作れちゃうんですよね。庭を作ったり、家の壁を作ったりとか外構(エクステリア)って呼ばれる仕事なんだけど、汎用性があるんですよね。

平野日本でも多いもんね。

田中そうそう、俺たちの仲間で「MBM PARK BUILDERS」*18って集団がいて、日本でもめちゃくちゃスケートパークを作っていますね。

*18 茨城県つくば市を拠点に、スケートボードパークの施工を専門としているパークビルダー集団。同エリアには、彼がDIYによって一から作り上げたスケートパークの「AXIS skate & snow boardshop」がある。東静岡の「H.L.N.Aパーク」や奈良県の「GSP」、愛知県の「Blackline」、東品川の「Nike SB dojo」など全国規模で様々なコンクリートパークを手がける。

中島日本ではそうした再就職のオプションが増えてきて、みんななんとなくスケートボードの仕事に携わっているような感じですけど、憲治くんの言う通りアメリカはもっとシビアですよね。

小澤まずスケートボードをする人口が違うもんね。

田中でも面白いのが、雑誌の表紙を飾ったこともあるような著名なアメリカ人の元プロスケーターが、スケートボードと全く異なる職種に転職しても、その会社にかつてスケートボードをしていた社員とかが沢山いて、優遇されたりするらしいんですよ。いわゆるプロップスってやつですよね。

小澤日本の元プロ野球選手が引退後に、保険の営業やるとすごい成績がいいっていう話と似ているね。

平野日本もそうなってくれるといいね。

中島確かに僕もそうした経験は何度かありましたね。

田中スケーターとして収入を得られなくなっても、スケーター社会に所属さえしていれば、なにかしらのサポートを受けられるってことなんでしょうね。それがスケーターのマインドでもある、助け合いですよね。

小澤そうしたコミュニティが日本でも作られることを望みながらも、2人が先導していく構図っていうのも期待したいよね。実際にその後続勢として「KUKUNOCHI」*19とか〈Evisen Skateboards〉とかがでてきているわけだから。

*19 ニューヨークとヨーロッパを軸にした日本のスケートボード輸入代理店。若者やファッション界隈にも人気な〈5boro〉や〈Polar Skate Co. 〉、〈Magenta Skateboards〉、〈Alltimers〉などを取り扱う。今年5月には、同社がプロデュースするスケートショップ「LACQUER」を横浜エリアにオープンした。

田中スケーター同士でビジネスをしていくってことが大事だよね。周りの仲間たちを活かしながら。それってアメリカではサスティナブルな働き方としてもう随分前から一般的にも浸透していることでもある。一人勝ちするような村ではなく、淀みのない川を作っていかないとね。今はそういうお金を健全に流通させる若い人たちも出てきているし、本当にそうした未来になっていって欲しいよね。

中島アメリカでも少し前まではビッグカンパニーがシーンを牛耳るって時代があったけど、今はスモールカンパニーも台頭してきて、様相が変わってきましたよね。

平野2人はスケートボードのビジネスをしていく中でオリンピックの影響とかも感じる? 例えばスケートボードとは関係のないような業界からのアプローチがあったりとか。

中島少なからず風は感じますよね。僕個人としてはオリンピックに反対っていうわけでもないので。

小澤それはオリンピックを目指しているようなスケーターをライダーとして迎えるって考えもあるってこと?

中島縁があればですね。無理やりこちらから獲得しに行こうとは思わないですね。それをやっちゃうと欲で動いている感じが出ちゃうからね。

インディペンデントな分野で活動しているブランドやライダーっていうのは、そのスタイルさえカッコよければファンに対して大きな影響力を持っている。(田中)

小澤壮一郎の地元でもある鵠沼あたりは、盛り上がりもすごそうだよね。

中島スケーターが、っていうよりはその親の世代がすごそうですよね。過剰に熱心というか。僕が今のスケートボードシーンで気になってしまうのは、ストリートの文化も残ってはいるんですけど、いわゆるサッカースクールのような環境が主流になっている点なんですよね。

小澤うんうん。最近思うのは、僕らがストリートスケート全盛だった90年代の初めにこのカルチャーにのめりこんだだけで、その前からあったバーチカル *20とかのシーンが本来はスタンダードだったのかなって思うんだよね。

*20 スケートボードの競技の種類の名前であり、そのスタイルを指す場合もある。直訳では垂直といい、多くのスケートパークに設置される巨大なスケートランプでの滑走を意味する。別名ヴァートとも称する場合あり。

中島なるほどね。

平野それは僕が思うに、70年代の頃のスケートボードはスケートパークで滑るものとされていたから、バーチカルのスタイルで一気に広まっていくんだけど、80年代にスケートパークが急激に閉鎖してスケートボードのムーブメントが下火になるんですよね。そこから復活の兆しを見せたきっかけとなるのが、ストリートだった。

僕らはその世代から始めているから、ストリートで滑ることは当たり前だったから、同時にマーク・ゴンザレスとトミー・ゲレロっていう稀代のストリートスケーターが初めてプロとなり、脚光を浴びていく姿をみて、子供ながらに惹かれたし、ヘルメットや防具をフル装備したビジュアルのスケートスタイルよりも、街中で自由にオリジナリティ溢れるスタイルで滑っているスケーターの方が断然カッコよく映ったんですよね。

小澤それが今の子供たちにはそう映っていないってことだよね。

中島そうかもしれないね。

平野となると捉え方が変わっているっていうのも納得できるよね。

中島一昔前は、コンテストで優勝したり、結果を出しているスケーターはダサいってレッテルを貼られていましたからね。ストリートで滑っている映像で勝負しているスケーターたちの方が数倍人気ありましたし。僕なんてスケートビデオを観ていて、バーチカルの映像になったら早送りしていましたから。

小澤僕らの時代は、ストリートシーンでのカッコいいを残すために映像や雑誌で記録してきたけど、スケートパークが主流になるとロケーションが同じになってしまうからカッコいいよりも順位に価値がでてしまうのかもしれないね。

中島スケートボード以外の時代の潮流をみていると必然的な部分もあるけどね。

平野僕らの世代でストリートスケートをやりすぎちゃったのかな(笑)?

中島それもあると思いますね。僕もストリートスケートは好きだったのでガンガンやっていましたけど、その気持ちと裏腹に冷静に考えたらこれって普通にアウトだよな? って想いもあったんですよね。法律違反をしておきながら、丁寧に名前と顔の分かる写真で雑誌に掲載していたわけだから(笑)。

平野そうなんだよね。でもやっている時って自分たちにも言い分というか論理があってさ、これはあくまでもスケートボードの表現です、みたいな適当なことを言ってね。もちろんそんな論法は筋が通らないんだけど。ただ、あの当時はそうするしかなかったんだよね。

田中仕方ないよ。本来スケートボードの始まりっていうのが、無断で人の家の庭にあるプールへ忍び込んで、勝手に水を抜いてスケートボードをしちゃうっていう出自なんだもん。普通で考えたらありえないことだけど、それをやっちゃうのがスケートボーダーなんだよ。

中島なんでアメリカではそうしたことがニュースになったり、法律で取り締まられなかったんだろうね。あまり聞かないですよね?

平野分からないけどアメリカ人ってクレイジーなことをする人が好きだったり、受け入れてくれたりする大らかな性質も文化的に持っていたりするじゃん?

田中うんうん。逆に極端に怒る人もいるけどね。

中島結局、魅力的なスケーターってなると、そういう破茶滅茶なことをするスケーターなんだよね。

小澤スケーター自体の価値も変わってきているのかもね。

中島そう思いますね。昔はこのスケーターのシグネイチャーモデルだから絶対に欲しいとか、あのスケーターが着ているからカッコよく見える服とかあったじゃないですか。

田中スケーターのアイデンティティが薄れてきているっていうのは感じるよね。

小澤憲治は、代理店としてスケートデッキの流通に携わる中で、そういった傾向とか分かるんじゃない?

田中んー、俺の会社で取り扱っているブランドは特殊すぎて参考にならないかもね(笑)。ただ言えるのは、マス向けなブランドやプロモーションだとどうしても相対的に価値は下がっていくんだけど、インディペンデントな分野で活動しているブランドやライダーっていうのは、そのスタイルさえカッコよければファンに対して大きな影響力を持っているんだよね。

平野そうなると今の若い子たちは、みんなどんなスケートデッキを買っているんだろうね?

田中無地のブランクデッキっていうのもひとつはありますよね。

中島あとはグラフィックだよね。選ぶ方も基準が変わってきているのかなって思いますね。世の中にはスケートブランド以外が作っているスケートデッキも沢山あるので。

平野昔おもちゃ屋さんで売っていた偽物のスケートボードとか?

中島それもあるし、「Amazon」なんかでは5000円以下で格安のコンプリートを売っていますからね。そりゃ価値も下がるし、売れなくなりますよね。

小澤見方を変えると、スケートボードがお金になるって考える人も増えたってことなのかね。でもそれはマーケットが大きくなるっていう意味ではポジティブなことだろうけど、これから色々と問題が出てきそうだね。

田中結局そういったスケートボード以外の分野から参入してきたような勢力っていうのは、費用対効果が悪いってことでまた撤退していくと思うけどね。それの繰り返しですよ。そのなかで唯一の財産は、スケーターの人口は絶えず増加し続けているってことだよね。

小澤あとは今回のオリンピックの動きもあって、本格的なスケートパークが遺産として残ることも大きいよね。

田中そうですね。でも環境がどれだけ豊かになってもスケートボーダーの自由な精神までは奪って欲しくないけどね。

小澤そう考えると僕らは今まさに過度期に立っているよね。オリンピックの経験だってないわけなんだから。それでも未来に繋げていく方法としては、スケートボーダーの本質を見失うことなく、豊かな環境を目指していけるっていう振り幅の広いマインドを培うことなのかな。今この業界で残っている人って結局そういう人たちばっかりの気がするから。

田中そうですね。でも大丈夫ですよ、きっと。スケートボードをビジネスにできるくらいの人たちってやっぱりスケートボードのあるべき姿に魅了されてしまっていて、ちょっと頭のおかしい人たちばっかりなんだから。そういう人たちが残っていれば、文化的な価値は損なわれないと思います。

平野そうだね。なんとなくまとまりましたね。それでは今回はこの辺でお開きにしましょうか。ありがとうございました。次回は「スケートボードと写真」をテーマにお送りし、改めてポッドキャストの音源とアーカイブ記事で皆様にお届けします。どうぞ、お楽しみに。

HOUYHNHNM SKATEBOARD CLUB

今夏リニューアルした原宿のギャラリー「VACANT」の1階スペースにて、『VACANT CULTURE CLUB』の名で様々なカルチャーイベントをスタート。その取り組みの一環として、フイナムとスケートカルチャーをテーマにした講義イベントを開催していきます。

メインホストには『Sb』編集長の小澤千一朗氏と写真家の平野太呂氏を招き、月に1度、毎回テーマやゲストを変えながら、後半戦となる第7回からは、レクチャーの公開収録という形式でイベントを開催。観覧は無料! 録音された音源は後日「VACANT」のHPより配信します。またアーカイブ記事はこれまで通り、HOUYHNHNM上にて掲載していきます。

以下は第9回の収録の詳細となります。

HSC VOL.9 「スケートボードと映画」
日付:2018年6月20日(木)
時間:18:00〜20:00 収録イベント
場所:VACANT 1F (渋谷区神宮前3-20-13)
ゲスト:マキヒロチ(漫画家)
詳しくは以下のHPよりご確認ください。
www.vacant.vc/hsc

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