HOME > LIFE STYLE > FEATURE
HYNM FOOTBALL JOURNAL フイナムのフットボール連載企画。
2014.06.19

ずっとサッカーやっている。やめたと思った時期も何度もあったけど、いつの間にかまたはじめていまでもシニアのチームに入れてもらってる。ケガも多いけど、やっぱり楽しい。
チームプレイが苦手だという人もいるけど、チームで行うスポーツだから面白いという面もある。向き不向きはあるが、そんなに悪いもんじゃない。
ぼくも高校まであまり真面目ではない選手でやってきて、練習がイヤでイヤで辞めた人間の一人である。こういうサッカー人は実に多い。才能が埋もれっぱなしという人もいたんじゃないかと思う。いや、自分はそうじゃないけど。
20代。学生時代の仲間以外にもいろんな種類の仲間も増えた。当時はバーやクラブが盛り上がっていた時期。友人に高樹町にあるレゲエクラブに働いている奴らがいて、いつの間にかサッカーをやろうという話になった。レゲエ、つまりジャマイカのミュージシャンはいずれもサッカー好きである。つまりおれたちもそのスタイルをマネしようではないかというのが、チーム発足のきっかけであった。
代々木公園のサッカー場に集ったメンバーは、てんでバラバラの格好で本当にジャマイカのストリートサッカーをしているような出で立ち。人間は犬に食われるほど自由だ、という藤原新也の言葉を思い出す。
その後一人消え、二人消え、最後に残ったのはサッカー経験者ということになった。そして正式に草サッカーチームが結成される。
チーム名、LSD。
ジャマイカなテイストが、ほのかに薫る。
サッカーシューズに自由をもたらしたのが、ナイキだった。
渋谷区の1部リーグで優勝できるようになったころ、誰が言い始めたのか、サッカーショップをやろうということになる。その頃のメンバーはファッションかマスコミ関係者ばかりだったのでサッカーをオシャレにしよう、マイナースポーツであるサッカーをメジャーにするのだなどと息巻いていた。しかし実態は、目の前に迫ったJリーグのスタートに合わせ、一儲けするのが狙いなのであった。
そして渋谷のキャットストリートの裏手に「ゲット! フットボールショップ」が開店した。店長は渋谷BEAMSの店長をしていた、T中氏。副店長は名門武南高校サッカー部出身のM倉を古着屋から引っ張ってきた。こういうコンセプトの店はそれまでにほぼなかったのでそれなりに快調な滑り出しであった。
当時のメイン商品はヨーロッパや南米のクラブのユニフォームやジャージ。インポート服屋と同じように、直接現地へ飛んで買い付けてくる並行輸入品なのでそれなりなプライスであったが、競争相手がいないフィールド。どんどん売れた。Tシャツやコーチジャケットのボディに店名をプリントしたオリジナル商品も開発し、知り合いや後輩のJリーガーに着せていくというステマ手法を20年以上前に編み出し、それなりに評価を得る。
だがしかしサッカーのプロショップではないので、シューズ等の品揃えが悪く、その気なお客さんには不評であった。記憶は定かではないのだが、シューズを正規にメーカーから卸してもらって揃えるには、店頭に並んでいる並行輸入モノのシューズを片付ける必要があったのだと思う。排他的経済水域で違法にチンケな釣船を出し、大量のマグロの群れを逃していたのだ。
その釣果の中に珍魚もあった。たぶんナイキ初期のサッカーシューズだ。それまでのナイキはほぼランニングとバスケットばかりで他競技のシューズは二の次扱いしている感があった。野球のスパイクもまだだったような気もする。そんな時代のサッカーシューズである。
そのナイキは、当たりまえながらナイキジャパンではまだ展開されておらず、並行輸入のみであった。こちとら江戸っ子ではないが、初物に弱い。関係者だけで最初の入荷分はたちまちソールドアウト。売るもんがないと店長は素っ頓狂な悲鳴を上げた。
当時(いまでもそうだが)、ナイキは特別なブランドになっていた。広告のクールなイメージと世界最高峰のアスリートが身につけているという実績、そして斬新なデザインとカラーリング。それまでほぼ黒一色だったサッカーシューズに自由をもたらしたのは、ナイキだった。
シューズの名前は忘れたが、細身の木型で足入れが浅く、自分の足にぴったりだった。難点は並行輸入の単価の高さ。スタッフ割引で買ってさえ、かなりな金額だった。

会社を立ち上げ、結婚もした。縁のある94年に、ティエンポは発売した。
その後ナイキはさらにサッカーに注力するようになる。94年、自国で開催するサッカーの祭典の影響がないはずはない。
奇しくもその94年にぼくはそのナイキの仕事でアメリカに3週間滞在する。しかし仕事はサッカーではなくバスケット。
3on3というバスケが世界的に流行していて、ナイキバスケのキャンペーンとCM撮影を兼ね、原宿で大会を開いた。その優勝者をアメリカに連れて行き、各都市のプレーヤーと対戦させながらアメリカを横断するというツアーである。
まずはオレゴン・ポートランドの本社を訪ね、ロス、シカゴ、インディアナ、そしてニューヨークというツアーであった。ぼくは雑誌P誌の仕事としてカメラマンとふたり彼らと行動を共にし、またこれとは別にアメリカ特集で一冊作る仕事を任された。この件、書き始めると長くなるのでまたいずれ。
ちょうどそのロス滞在中の日曜日が世界一を決める決戦の日であった。オフであったにも関わらずさすがにチケットは手に入らず。メルローズのカフェでビールを飲んでいるとオープンカーで大騒ぎしながらブラジルのサポーターがどんどんやってくる。イタリアが負けたんだとそこではじめて知る。ロベルト・バッジオがPKを外したのはその後バーのテレビで見た。
ティエンポの発売がちょうどこの年。実は独立し自分で会社を立ち上げたのもこの年だ。もうひとつ、この歳にぼくは結婚した。なにかと縁のある94年。


トップ選手と同じは少し恥ずかしいという理由で選んだのが「ティエンポ」。
面白いことに自分史を振り返ってみるとサッカーの祭典のあった4年毎にいろんな大きな出来事がある。ここでは書けないが、あれは確かフランスの時、あれは日本で開催されてた時だったなあとか、そんな思い出だ。嬉しかったこともあれば悲しかったこともある。楽しかったこともあるし、ムカつく感情を抑えられないこともあった。
人生がサッカーの祭典と共にあるとはそこまでたいそれたことは言えない。でもどうにもうまくタイミングが合うんだよなあ。ちょうど2年ズレのスポーツの祭典はそんな思い出はない。こう書くと、もうその原稿依頼こなさそうだが。
この原稿を依頼されたタイミングで書くのも何だが、3カ月前ほど新しいサッカースパイクを買った。それまで実は他社のアップシューズ(スパイクレス)を使っていたのだが、最近芝生のグランドでのプレイが多いもんだがら滑って滑って仕方がない。
クリスティアーノ・ロナウドやネイマールのような選手が履いているシューズはちょっと恥ずかしいという理由で選んだシューズがティエンポのスーパーリゲラというやつ。ポジションはどちらかというと前目なのでこのシューズは本来のポジション向きではないらしいが、いちばん最初に買ったナイキのスパイクに木型と基本デザインがそっくりなのが気に入った。
これ履いてこれからもずっと自分のペースでサッカー続けていく予定。
ロング・スロー・ディスタンス(LSD)。
高樹町クラブジャマイカOBのみんな元気かな?
Text_Toshiyuki Sai