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ハラダユウコArchive&Style Shop Press1971年2月東京生まれ。アメリカ、ヨーロッパを中心に幅広いジャンルと年代からバイイングされたUSEDやデッドストックを扱う古着屋「アーカイブ&スタイル」のショッププレスとして、古物をこよなく愛する日々を送っています。www.archiveandstyle.com

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ハラダユウコ
Archive&Style Shop Press

1971年2月東京生まれ。アメリカ、ヨーロッパを中心に幅広いジャンルと年代からバイイングされたUSEDやデッドストックを扱う古着屋「アーカイブ&スタイル」のショッププレスとして、古物をこよなく愛する日々を送っています。
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Duke.Paoa.Kahinu.Mokoe.Hulikohola.Kahanamoku

2009.07.04


フイナムブログをご覧の皆様こんにちは☆
気が付けば、7月。

もう2009年も半分終わってしまいました。
年々、月日が経つのが早く、感じるのは歳をとった証拠ですか??!(苦笑)
なんだか、あっという間に夏も過ぎ去ってしまいそうな予感ですが。。。

その前に、今日は夏らしく、ハワイアンシャツのご紹介をいたします。

一週間、いろいろ自分の知識を確認しつつ、レポートをまとめましたので、
よかったら、読んでやって下さいませ~~~~☆
今日のは、先に言いますが、長いです(笑)


DSCN8579.JPG

写真は今回の入荷で新しく入ってきた、カハナモクのハワイアンシャツたちです。
なので、今回はアロハシャツ(ハワイアンシャツ)を語るとき、
この人の名前を外すことは出来ないほどアロハシャツの認知度に貢献した
デューク・カハナモクのお話です。


DSCN8807.JPG
↑写真はデューク本人です。


DSCN8581.JPG


キング・カメハメハの末裔と言われているデューク・パオア・カハナモクは、
誰もが認めるハワイの英雄であり、
サーフィンと競泳のチャンピオン、ハリウッドの映画スター、敏腕ビジネスマン、郡保安官、
そして、ハワイとアロハシャツのプロモーターです。

彼は、生涯を通してすばらしい偉業を成し遂げたにもかかわらず、
誰に対しても優しい人物でした。


DSCN8582.JPG

そのため、ビーチボーイ(ビーチを一日うろつきながら雑用をこなしては日銭を稼ぐ人たち)
たちによって、ワイキキのサーフスポット、
ファースト・ブレイク沖に彼の遺灰が撒かれたとき、
アロハとして寛容と愛を具現化した男にハワイ全土が別れを告げました。
1968年の事でした。


DSCN8583.JPG


1890年オアフ島にて、9人兄弟の長男として生まれ、
ワイキキビーチで育った彼は3歳の頃には泳ぎを覚え、
幼少時より誰もが認める「ウォーターマン」となりました。
高校を中退し、ワイキキビーチをうろつき、日銭を稼ぐビーチボーイとして暮らしていた頃、

1911年、21歳のデュークは、
アマチュアの水泳競技会で自由形100ヤード(約91M)をわずか55.4秒で泳ぎ、
それまでの世界記録を4.6秒も縮める驚異的な記録を叩き出しました。
また、
同年の大会で、自由形の世界記録をほかに2つ樹立し、
人々を驚愕させました。


その後、1912年のストックホルム五輪では100M自由形とリレーで金メダルを獲得し、
1920年30歳で出場したアントワープ五輪でも、同じく2種目で金メダル、
1924年パリ五輪では弟ともに100M自由形で銀,銅を獲り、ハワイのウォーターマンの実力を世界に知らしめました。

DSCN8584.JPG

選手を引退した後は、
水泳とサーフィンの伝導に力を注ぎ、ハリウッドの映画にも30本も出演しました。
無声映画の「ロード・ジム」やジョン・ウェイン出演の「怒涛の果て」など、


DSCN8808.JPG


多くの名映画に引く手あまたで出演しましたが、
デュークにとってハリウッドで演じることは、あくまでも、メインの仕事ではありませんでした。
そんなわけで、
デュークは、演技か国際競技会に出場している時以外は、
いつもどこかの水の中、泳ぐか、カヌーかサーフィンをしているか。。。。だったそうです。

DSCN8585.JPGのサムネール画像

税込み¥41、895ー


古代のハワイ王朝に愛された「スポーツ・オブ・キングス」===「サーフィン」は、
1920~30年代のデュークや彼の仲間のワイキキビーチボーイなど、
熱心な信奉者以外には忘れ去られていました。

デュークのお気に入りのボードは、
カリフォルニアのセコイア材から自作したもので、
なんと長さ16フィート(約4M88センチ)・重さ126ポンド(約57㎏)もあったそうです。

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1925年にカリフォルニアのニューポートビーチ
(余談ですが、ハラダはバイヤー時代ここに何年か住んでいましたぁ~)で、
29人を乗せた釣り船が転覆し、防波堤に激突して17人が溺れ死んだ事件がありました。
デュークとその友人は12人を救助、うち8人を荒波のなかサーフボードに乗って助け出したのは
デューク本人だったそうです。
彼の偉業は伝説となり、
ある話では、キャッスルズで巨大な波をとらえると、
波は砕けたのに彼は岸まで1マイル(約1、6km)以上も乗っていたという、、、
これは近代における最長記録として今も残っているそうです。

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1965年、
設立者にちなんで命名されたデューク・カハナモク国際サーフィン競技会は、
世界の一流サーファー24人をハワイのノースショアへ招きました。
大会は、可能なかぎり最大の波でおこなわれ、
それから12年以上毎年開かれて、CBSのテレビ中継で全米何百万人もの人が、
見たそうです。

歴史上もっとも偉大なサーファーであり、近代サーフィンの父であるデュークは、
友人でもあったジョー・ブレナンに崇められていました。
後に彼はデュークのサーフィンをこう描写しています。

「詩情。純粋な詩。彼は波、海、すべてにおいて最高だった。
競技会で彼はペースを落としたが、それは皆を個人的に知っていたからだ。
知り合いをあまりに無様に見せるよりは、自分がペースを落とす事を選んだ、
そんな男だった。
サーフィンや競泳だけでなく、全てにおいて思いやりがあり、寛大だった。」と。

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1960年、
ジョン・セヴェルソンは「Surfer Magazine」を創刊、
世界中のサーファーのバイブルになりました。
20世紀末の40周年記念号の表紙はデュークの写真が飾り、そこには
「今世紀最大のサーファー」と記されました。

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税込み¥52、395ー

1934年初めに、
デュークはホノルル市および、郡の保安官に選出されました。
それは、じつにその後も12期連続もの選出となりました。

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1959年にハワイが州になってからは正式なアロハ大使となり、
有名無名を問わず、ハワイを訪れる人を笑顔とレイで歓迎しました。
また、このレイはホノルル郡保安官として、また、シスコのスポーツウェア大使として、
多くの旅行者のためにデューク本人が買ったものでした。


デュークがもてなした人たちには、エリザベス女王、エルビス・プレスリー、
グロウチョ・マルクス、野球界からはベーブ・ルースやジョー・ディマジオ、子役スターの
シャーリー・テンプルやミッキー・ルーニーなど、そうそたる人々もいました。


DSCN8810.JPG


デュークが自分のアロハシャツのプレス活動を精力的にこなしたのはよく知られていますが、
しかし、実はスポーツウェアのデザインにはずっと以前から関わっていました。


ホノルルの人気衣料メーカー、リンズのオーナーの息子、デイブ・リンによれば、
デューク考案の水着を第二次世界大戦中に製作したのはリンズだったそうで、
デュークがデザインした、この脇にストライプのある海水パンツは、
ビーチボーイだけでなく広い範囲の人たちに人気があったそうです。

ちなみにアロハとは、
ハワイ語で「好意、愛情、慈悲、優しい気持ち、思いやり、挨拶」の意味。
1930年代中ごろからリゾート地として急速に発展したハワイで、
リゾートウェアやお土産品として多く作られるようになりました。
「アロハシャツ」の呼称は商標登録されていたため、
一般名詞としてはハワイアンシャツと呼ぶ事が多いです。

アロハシャツのデザイナーのフランシス・デルベッシュは、
「デュークシャツ」誕生以前にデュークが既にシャツの革命を起こしていたと確信しています。
彼は言います。
「近代的なハワイファッションが登場したのは、
第二次世界大戦よりずっと前の事です。
少年や一部の男性たちは、
暑い日にはシャツの裾をズボンのなかに入れずに外に出していました。
でも、オーソドックスなシャツの裾が風にひらひらしているのは、
見苦しい光景でした。
そこで、デューク・カハナモクは。裾を真っ直ぐにカットしたシャツを思いつきました。
この、ポケットに紋章をつけた白かクリーム地の無地のシャツが、
最初のハワイアン・スポーツシャツです。」と。

1937年、
ブランフリート(後のカハラ)のジョージ・ジャック・ブランジャーと、
デュークは5年契約を結びました。
アロハの服や水着に、
「Designed by Duke kahanamoku 、world champion swimmer Made In the Hawaian
Islands」
(競泳世界チャンピオン、デューク・カハナモクによるデザイン。メイド・イン・ハワイ)の
ラベルをつけるというのが、その内容で、シャツが1ダース売れるごとに、
デュークが受け取ったロイヤリティはわずか35セントだったという事です。、


戦時規制はハワイのアロハシャツの輸出に深刻なダメージとなり、
デュークのラインも例外ではなかったそうです。

カハラとの契約が切れた後、
ニューヨークの鋭敏な保険セールスマンで熱心なハワイ支援者だったエルマー・G・レターマンは
デュークのマネージメントをして、
アロハシャツに関して本土のメーカーと契約を結ばせようと決心しました。

1949年、9月、
レターマン協力のもと、
デュークはニューヨークとカリフォルニアが本拠地のメーカー、シスコ・カジュアル社の
アロハシャツをプロモーションする契約をむすびました。

DSCN8811.JPG


デュークは自分の写真入りのラベルが付いた服のロイヤリティ3.5%を
12年間受け取る事になりました。


契約を結んだ6週間後、
レターマンは記者発表をおこない、
1ヶ月後の1949年11月に、そのシャツが一般公開されました。
ニューヨークでのファッションショーやパーティーなど、
デューク本人が全米をまわった宣伝活動により、
この新しいラインは順調なスタートを切りました。


その後、デュークのラインは1954年には、
「デューク・カハナモク」として商標登録され、
ホノルル、ニューヨーク、ロサンゼルスで展開される事になりました。

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デュークの定番スポーツシャツはレーヨン、富士絹などで、
色はネイビー、ワイン、ブラウン。
価格は6ドル95セント(当時、ポケットつきのジャケットシャツが8ドル95セント)でした。

デザインには「戦闘の太鼓」「月とヤシ」「オレンジ」「カイルア・レース」「シダの茂み」
「ペルシャのメダル」など、異国風のタイトルが付いていました。
「デューク曰く、のんびり行こう」が広告のコピーでした。

「日焼けしたいい男」の身なりとして、
デパートや新聞はこのシャツをこぞって取り上げ、
父の日にピッタリのシルクシャツとしてフィーチャーしました。

1957年、
デュークとそのシャツは彼が意図しなかったときにまで、
スポットライトを照らされました。

NBCテレビにハワイ準州の宣伝をする為に招かれたときも、
実際には「これがあなたの人生」(1952~61年)という番組で、
ゲストであるデュークが知らされていないところで、
駆けつけた友人や親戚たちと、ゲストの過去を振り返るというものでした。

デュークの人生のハイライトを語るために現れたのは、
妻ナディーヌ、友人たち、さらにはニューポート・ビーチの転覆事故でデュークに救出された
3人でした。

黒いズボンに白いブレザー、アロハシャツで装ったデュークは、救出された人たちの、
心からの感謝に対して、いつものように控えめに
「いいんです。」と答えたといいます。

番組の放映後、如才なく、
「これがあなたの人生」という、見出しの広告がカリフォルニアの新聞に掲載されました。

コピーは「TV番組「これがあなたの人生」に出演した有名なハワイ人、
デューク・カハナモク。
異彩を放つデュークはあなたのためにデザインし、
レーヨンのレジャーウェアにオリジナルのプリントを施した。」


デュークのアロハシャツと水着の姿でビーチにくつろぐ男たちの写真の隣には、
カリフォルニアでデュークラインを扱う150もの店舗が名を連ねていました。


1960年の全国誌「Gentlemen`s Quarterly」の記事は、
デュークのロイヤリティは年間3~3.5万ドルだと伝えました。
ですが、真実はデューク本人がよく知っているところだったようです。

この頃、デュークが友人の伝記作家ジョー・ブレナンに語ったところによれば、
「ときには何ももらわないことだってある。先月は11ドルだった。」


それでも、そこがデュークの人柄、
デュークはアロハシャツのプロモーションを楽しんでいたらしく、
1952年5月に書かれたシスコ社の会長への礼状の中で、
次のように、当時のアロハシャツ人気に言及しています。

「こちらはもう夏で、ハワイアンシャツはどこにでもあります。
とくに旅行者への人気が高く、彼らがホノルルに来て、まず、する事といえば、
アロハシャツもしくは、ホロクに着替える事というのが、定着しているようです。」と。。。

1961年、
カハラ・スポーツウェアのナット・ノーフリート・シニアは、
デュークが再びカハラのスポーツウェアをサポートすると発表できるのを喜んでいました。


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「わが社は20年前に彼の名をつけたスポーツウェアを生産する契約を結んだ。
戦争の影響があり、我々はそれを放棄せざるを得なかった。
それをまた、取り戻す事が出来て、非常に満足している。」


生涯を通じて、
デュークはいつも他人のために働いていましたが、
シャツ事業では自分自身の為に働く数少ないチャンスが得られたのです。


とはいえ、
デュークのいちばんの興味は、
自分と同じくサーフィンへ情熱を注ぐ男たちと海のそばにいることでした。


1965年、
デュークと彼のエリート・サーフィンチームの面々は
カリフォルニア州のハンティントンビーチで開催された全米サーフィン選手権に出場しました。

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そろいの「デューク・カハナモク」のアロハシャツを着たチームは目立ちましたし、
プロモーターのキモ・マクヴェイがデュークにプレゼントしたロールス・ロイスに
サーフボードを乗せて彼らが海岸へやって来た光景は、
南カリフォルニアの人々に衝撃を与えたそうです。

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ハワイの人々には、今でも、
デュークが触れたものにはすべて寛大で気楽でゆったりとした気風が吹き込まれたように、
感じられ、映るといいます。

彼の穏やかな精神と、魂と、ハワイ人としての心を感じるにはもってこいの
ハワイアンシャツ。

気になる方は是非、お問い合わせくださいませ~☆

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