HOME  >  BLOG

Shop / Brand Blog

栗原道彦フリーバイヤー(?)1977年生まれ2010年に有限会社ロストヒルズを退社。2011年よりフリーでの活動を開始(?)。

クリちゃんがイクッ。

栗原道彦
フリーバイヤー(?)

1977年生まれ
2010年に有限会社ロストヒルズを退社。
2011年よりフリーでの活動を開始(?)。

Blog Menu

What the great islands "Saipan & Tinian"! #2。

2011.01.21

このエントリーをはてなブックマークに追加

本日も前回に引き続き、テニアン島で撮った諸々画像の中から第二次大戦に関するモノを。

CIMG8026.JPG CIMG8044.JPG
ご覧の4人乗りセスナ機で、サイパン国際空港から約10分ほどのフライトで到着します。
このセスナだけでも乗る価値ありだと思います。しかも往復で1人69ドルと意外とお安い。(チケットを自分で予約した場合。サイパンでテニアン行きのツアーを頼むと1人120ドル~かかるので、ある程度英語が出来る人は自分で予約した方がお得です。)

CIMG8064.JPG
今回は現地ツアーでなく空港内にあるレンタカーを使って自分で回ったんですが、レンタカーを借りる際にまず驚いたのが、アメリカ本土では加入が義務付けられている車両保険ですら任意で、おっさん曰く「入っても入んなくてもどっちでもいいよ。」と。。。
一応、念のために車両保険だけ入っておきましたがそれでも込みこみで55ドル(コンパクトサイズ。)と、アメリカ本土とほぼ変わらないプライス。
ただし車の数がかなり少ないらしく、今回も僕が借りた車が最後の一台だったので、コチラも事前の予約をおススメします。
ちなみに島内はほとんど車が走っておらず、ほとんどの車道がボロボロ、もしくは未舗装。更に驚くことに信号が一台もなく、街灯もほとんどありませんでした。。。

画像は島内いたるところにある立ち入り禁止地帯のフェンスに貼られた看板。戦争の爪跡が今も色濃く残っています。

CIMG8073.JPG CIMG8081.JPG
CIMG8074.JPG CIMG8075.JPG
これまた驚いたことに島内にある旧日本軍、及び大戦末期から米軍が使用していた軍事施設はそのほとんどが一切管理されておらず放置された状態で、誰でも無料で見学することが出来ます。
上の画像は島北部にある旧日本軍飛行場(ウシ飛行場)に残っている航空管制ビル。
ただし皮肉なことに旧日本軍によって建造されたこの飛行場は、米軍によるテニアン島占領時に接収。滑走路が増設され、日本本土を空襲したB-29によって専ら使用されていたそうです。

CIMG8085.JPG CIMG8084.JPG
CIMG8086.JPG CIMG8091.JPG
同飛行場内には、米軍の空襲による破壊をまのがれた旧日本軍の防空壕が2基だけ残されていました。

CIMG8101.JPG CIMG8096.JPG
CIMG8098.JPG CIMG8102.JPG
コチラも同飛行場内に残されている旧日本海軍の航空指令本部ビル。

CIMG8103.JPG CIMG8104.JPG
CIMG8107.JPG CIMG8105.JPG
CIMG8109.JPG CIMG8112.JPG
そして上述の廃墟化した旧日本軍施設と対照的に、同飛行場で唯一しっかりと管理されているのが、原爆投下の為にここノース・フィールド(米軍接収後、ウシ飛行場からノース・フィールドに改称。)から飛び立った「エノラ・ゲイ」、「ボックスカー」に原爆を搭載する際に使用されたローディング・ピット。
戦後65年経った現在も、原爆投下が第二次大戦終結に不可欠かつ正当な行為だったと認識しているアメリカにとっては、やはりココは後世に残したい記念すべき施設なんでしょうね。

ちなみに同飛行場は47年以降、基地として使用されていないそうですが、現在でも不定期に米軍の演習に使用されているらしく、その際はテニアン島北部一帯は一般人立ち入り禁止になるようです。

CIMG8130.JPG CIMG8129.JPG
テニアン島の中心街である島南部のサンホゼ村には戦前、日本人によって建てられた水産組合事務所の廃墟の脇に、テニアン島占領作戦時に旧日本軍によって撃墜されたのか?米軍機の一部がそのまま放置されていました。

テニアンには約半日滞在したんですが、その間に会った観光客はバスツアーの中国人御一行とビーチですれ違った日本人家族一組。残りはスクーターで島内を回っている中国人?韓国人?のおばちゃん数人だけ。
どこに行っても観光客で賑わうサイパン島と違い、テニアン島まで足を伸ばす日本人はほとんどいないようですね。

この他にも、こんな小さな南の島に戦前は1万5千人あまりもの日本人が住んでいた(現在の人口は約3,500人。)ことが窺い知れる遺跡が色々と残っていました。
それらの画像はまた後日にでも。

※コメントは承認されるまで公開されません。