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草彅洋平(東京ピストル)株式会社東京ピストル代表取締役1976年東京生まれ。あらゆるネタに対応、きわめて高い打率で人の会話に出塁することからついたあだ名は「トークのイチロー」。インテリア会社である株式会社イデー退社後、2006年株式会社東京ピストルを設立。ブランディングからプロモーション、紙からWEB媒体まで幅広く手がけるクリエイティブカンパニーの代表として、広告から書籍まで幅広く企画立案等を手がける次世代型編集者として活躍中。www.tokyopistol.com/

トークのイチロー就活日誌

草彅洋平(東京ピストル)
株式会社東京ピストル代表取締役
1976年東京生まれ。あらゆるネタに対応、きわめて高い打率で人の会話に出塁することからついたあだ名は「トークのイチロー」。インテリア会社である株式会社イデー退社後、2006年株式会社東京ピストルを設立。ブランディングからプロモーション、紙からWEB媒体まで幅広く手がけるクリエイティブカンパニーの代表として、広告から書籍まで幅広く企画立案等を手がける次世代型編集者として活躍中。
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僕と「文学」-「BUNDAN」について-

2012.08.31

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僕が「文学」に出会ったのは大学時代のこと。

大学生の僕は人前に出ることがとにかく苦手。自分が何をして生きていけば良いのかちっとも分からなかった。自分がとにかく空っぽで、ダメな存在だと思っていた。それを埋め合わせようとしたのだろうか。本にヒントがあるような気がして、片っ端から本を読み始める。知的な友人への憧れも手伝って、彼の薦める読書ガイドに従って濫読しはじめた。最初は夏目漱石から。あるとき「それから」を読んで、ガツンと感銘を受けた。100年前の小説が現在の自分の悩みに通じていたからだ。人間の悩みはいつの世も不変であることを知った。それから、僕の「文学」が始まった。 

大学2年生のとき、クラブでDJの合間に本を読んでいると、クラブに遊びに来てくれた工藤岳(現在チームラボ)に「すごい先生が早稲田にいるから遊びにおいでよ!」と誘われた。数日後、現代詩作家の荒川洋治先生に出会った。この邂逅は劇的であった。以降、僕は荒川先生に師事することになるのだが、これは大変幸せなことであった。というのも、おかげで全集に並ぶ著名作家だけでなく、無名で消えていったこころざしのある大勢の作家たちのことを知り、そうした彼らに対して深い尊敬と親愛の情を抱くようになったからである。また現在では多く読まれていない海外作家や詩人たちの優れた作品と人柄を知り得た。僕はこうした不器用だが、美しいものづくりをする人々と触れ合うことで、これからの人生を崇高な気持ちで生きていきたいと考えるようになった。先生はよく僕らを古本屋に連れて行ってくれ、語らせ、じっくり聞いて、厳しく批評し、熱心に指導してくれた。荒川洋治を師と仰ぐ人々に、詩人の蜂飼耳夏葉社島田潤一郎、「Quick Japan」元編集長にして「月刊マンスリーよしもとPLUS」編集長の森山裕之がいるが、彼らも同じタイミングで先生の授業を受けていた血族である。


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*学生時代のノート。荒川先生に勧められた本は片っ端から読んでいった


先生と出会って程なく、勧めもあって僕は同人誌(断じてzinではない)を作りはじめた。自分が何者であるかを知るには考えているよりもまずは作って形にするしかない。雑誌作りは面白く、いまにも続くたくさんの仲間たちと知り合った。時には喧嘩もあったが、徹夜で議論し、文章を書き続けた。

作ってみると思いがけない嬉しいことがたくさん舞い込んだ。まず佐藤大さん、野田努さんが原稿依頼をくれた。雑誌がひょんなことからIDEEに置かれることになり、黒崎輝男さんと野村訓市さんが褒めてくれ、「一緒に雑誌を作ろう」と誘ってくれた。これが「sputnik:whole life catalogue」となる。それから今日の編集者としての僕が存在している。すべてが地続きで、運命的で、文学的であった。明らかに「文学」が僕を導いてくれたのだ。

 

この度、近代文学館から食堂経営のお話を頂戴した時に、僕は再び運命を感じた。最初「なぜ10年前に声をかけてくれなかったのだろう...」と思った。10年前であればもっと「文学」に熱があった。そう、いまの僕は20代のときと比べ、明らかに情熱が落ちている。「文学」に疲れたといっても過言ではない。目に見えて読む量も買う量も減っていた。「文学」が好きでも、ちっとも金にはならないしモテるわけでもない。また世の中で尊重される実学でもなく、目に見えて有用なものではなく、使い方もわからない「文学」を好きであることは「変わった人」なのだ。僕の人生を形作ってきた「文学」を否定されることは、僕の繊細なガラスの心臓を射抜かれるのも同じである。そう、いつしか僕の中で「文学」は一つの宗教として、信仰の対象になっていた。だからこそ、僕は「文学」を遠ざけ、ビジネスに徹し、知らんぷりするよりなくなっていた。他人がブックカフェやオシャレ古本屋を作っても、ブック・コーディネイターと名乗る人々に対しても、警戒して自ら近寄ることを避けた。僕にとって本はファッションではなくカルチャーでもなく、絶対的に「文学」であったのだ。だからこそ、僕はまるで隠れキリシタンのように「文学」を密かに愛した。時代遅れの「文学」が好きというのは恥ずかしい行為だ。だからこそ声を大にせず、ひっそりと生きるよりなかった。


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*神戸においてある僕の集めている古本。すべて「BUNDAN」に運び込む


そんな僕が201298日に「BUNDAN」を開店させる。これは明らかに僕のターニングポイントなのだろうと自覚している。とても不思議な気分だ。僕が誰にも知らせずコツコツやってきたことが、まるで「BUNDAN」というものを作るために長年やってきたかのように、ふとした流れで形になろうとしている。「文学」が好きだ、と胸を張って声に出せる日がきたのだ。いまこのタイミングだからこそ来るべくして来たお話なのだと思う。


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いろいろ考えた結果、コンセプトを以下のように定めた。

 

現代の「文学」がある場

 

僕が現在進行形で「文学」と思うものをすべてこの店で扱う。そんなお店を作ろうと考えたのだ。

いま文学が見えない時代になっている。古いものに見向きをせず、誰もが泥舟から逃げるように新しいものへと群がっていこうとしている。

しかしながら文学とは本質を見極める力である。本質とは時代を遠く経だてても変わらない大切な気持ちであり、僕のあなたの人間の、不変の感動する「こころ」のことである。そうしたこころに響く数々のものを置いていきたいと思う。


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実は株式会社東京ピストルの「ピストル」とは、小説家の高見順の「いやな感じ」のテロ青年が持つピストルから来ている。もちろん、そんな話は会社の社員も日本近代文学館も知りもしないであろうが、少し変わった社長の経営する会社が、高見順が命をかけて作り上げた日本近代文学館でカフェ事業をやることになったのだ。すべてが偶然にしては出来過ぎで、運命的である。ずっと側に「文学」がいる。すぐ近くに。ずっと見守ってくれている。

BUNDAN