YOPPI氏 / 「T-19」ライダー、〈Hombre Niño〉デザイナー
幼少期は子役として活躍しながら、青春時代の多くをスケートに費やす。国内のスケートシーンにおいて草分け的な存在であり、老舗スケートショップ「STORMY」のライダー兼スタッフとして活躍。そして1984年に発足した東京で初となるスケートチーム「T-19」に加入、一時代を築いた。また90年に全盛を迎えたピストビームの立役者でもあり、ファッションシーンでも「HECTIC」などのショップを経て、現在は自身のブランド〈Hombre Niño〉のデザイナーとしても活躍。また90年代当時からDJ活動も積極的に行い、常にストリートのユースたちから絶大な信頼を得る。
www.t19skateboards.com
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吉田徹氏 / 「NEWTYPE」メンバー、〈N.T.ORIGINAL〉ディレクター
「T-19」に次いで東京のスケートシーンに現れ、日本初のスケーターによるビデオ作品を作り日本のスケート界に大きな衝撃を与えたチーム「NEWTYPE」の設立者の一人。17歳でAJSAプロクラスに転向し、以後1999年までAJSAプロツアーに参戦。1996年にはプロストリート部門で年間ランキング2位を獲得するなどコンテストでも数々の輝かしい実績を残す。その後、メディアを中心に写真や映像などの撮影をコンスタントに続け、現在も自身のデッキブランド〈N.T.ORIGINAL〉を中心にライダーとしての活動を継続中。
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南勝己氏 / 「Evisen Skateboards」ディレクター
池袋をローカルタウンに、今や飛ぶ鳥を落とす勢いで急成長を遂げるスケートチーム「Evisen Skateboards」のディレクター。現在の国内スケートシーンの顔とも言える面々を揃えたライダー陣はまさにオールスター級。その中で自身はディレクター兼フィルマーとしての手腕も発揮し、昨年チーム初のフルレングス作品「Evisen Video」をリリース。国内外の10都市以上で試写会を行い、大きな話題を呼んだ。またアパレルラインも好調で、〈SSZ〉や〈adidas skatebording〉などとコラボレーションも実現。
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平野太呂(以下、平野) 皆さん、こんばんは。前回のフイナム スケート クラブ(HSC) は土曜日の日中に行ったんですけど、今回は平日の夜に時間を変更し、また場所もVACANTの1Fに移しての開催となりました。そしてテーマは、僕も個人的に楽しみにしていた「スケートボードとスケートチーム」。
そもそもスケートチームってどんな存在なのかっていうところから話をしていきたいなと思うんですけど、スケートチームってスケートブランドともまた違った、特殊な存在なんですよね。
小澤千一朗(以下、小澤) スケート関連のアパレルなどプロダクトとは異なるベクトルで活動している集団。僕の思うスケートチームって、まずそこからなんですよね。
平野 そうそう。スケートチームにしか出せないムードっていうのがあるんですよね。僕らのようなチームに所属することのない、いちスケートボーダーからすると、「T-19」 ※1 や「NEWTYPE」 ※2 のようなスケートチームが放つ独特なオーラって、それだけである種の憧れでもあったんですよね。
そんな彼らの影響を受けながら今日までに沢山のスケーターがスケートボードを始めるきっかけを得て、スケートカルチャーの深みを増幅させた要因ともなったと言えると思うんです。千ちゃんはどう思いますか?
※1 リーダーである故・大瀧ひろし氏を中心に1984年に結成された東京初のスケートチーム。チーム名は「TOKYO」の頭文字であるTと、「SKATES」のSがアルファベットをAから数えると19番目にあたることが由来。結成当初から現在に至るまで、多くのスケーターへ多大な影響を与えるカリスマスケート集団。
※2 1991年に誕生し、現在も現役のプロスケーターとして活躍する吉田徹、米坂淳之介、岡田晋、大矢尚孝、安田哲也などの東京をローカルとするスケートチーム。全盛期には多くの個性豊かなライダーを抱え、国内ではいち早くスケートビデオ作品を発表した先駆者的存在。9本の作品をリリースし、中でも『TOKYO’95』は南氏も影響を受けた1本としてあげている。
小澤 国内外問わず、クールなスケートチームには必ず顔となる存在がいることですよね。バンドでいうフロントマンみたいな。
平野 その顔によってキャラクター性も異なるし、チームによっては色んな顔の主役がいたりもするよね。「T-19」のように。
小澤 でも正直スケートチームの定義ってなんなんだろうって思うこともあるんですよね。
平野 そうなんですよね。線引きが曖昧なのももちろんあるけど、結成することになったきっかけだったり、ブランドとしてではないスケートチームとしての活動についてだったり。色々と聞きたいですよね。
小澤 結成したきっかけは気になりますよね。なぜそのメンバーでチームを組むことになったのか。きっとそこにはスキルだけではなく、なにかしらのシンパシーを感じたスケーター同士の必然性というか、ストーリーがあるんじゃないかって思うからね。
平野 うんうん。もちろん地域もあるだろうしね。それが広範囲の場合もあれば、よりローカルに寄り添った場合もあるし。あるいは全国各地の猛者を集めたチームもあるかもしれないしね。
平野 じゃあ早速ですが、今回のゲストとなる御三方をお呼びしましょうか。皆さん、壇上の方まで上がっていただけますか?
「T-19」にとって大瀧さんってすごい存在ですよね。(平野)
YOPPI こんばんはー。一般的にはYOPPIで知られていると思うんですけど、本名は江川芳文と申します。スケート歴は覚えていないくらいなんですが、けっこう長いです(笑)。今日はお手柔らかにお願いします。
吉田徹(以下、吉田) どうも、吉田徹です。今日は「NEWTYPE」のライダーとして参加しているんですけど、今は〈N.T.ORIGINAL〉※3 というスケートデッキのブランドをやっています。よろしくお願いいたします。
※3「NEWTYPE」や、その後派生した「FLOWER」、「CANDY Video Magazine」などの活動と合わせて1995年にスタートしたアパレルやデッキなどの製作を行うブランド。その後休止していたが、2012年に吉田徹氏とDJとしても活動するTOMY-NT氏により、当時とは別の体系として再始動。
南勝己(以下、南) 「Evisen Skateboards」※4 の南勝己と申します。よろしくお願いします。
※4 2000年代の東京スケートシーンを代表する、日本が世界に誇るスケートチーム。またデッキブランド兼アパレルブランドとしても機能し、スケーターをはじめ感度の高い若者達からも人気。今年チームとして初のフルレングス作品「EVISEN VIDEO」を発表し、国内外で上映ツアーを開催。現在は次の映像作品を製作中とか。
平野 皆さんありがとうございます。ちなみに三人はこうしてお会いすることってあるんですか?
YOPPI あるわけないじゃないですか。敵対するチーム同士なんですから(笑)。っていうのは冗談ですけど、二人とも面と向かってちゃんと話すのは初めてに近いかもですね。
吉田 ちょっと! YOPPIさん、最近飲みに行ったばっかりじゃないですか!(笑)。
YOPPI そうだっけ?(笑)。まぁここは(吉田さんを指差し)中学も同じなので、よく知っていますよ。
平野 なるほど。とはいえ、三人でこうしてメディアやイベントで共演するのは初なんですね。早速、意外ですね。ちなみに世代的には「T-19」が一番古いチームになるんですかね?
YOPPI この中だとそうなりますね。あとけっこう勘違いされるんですけど、実は僕は「T-19」の創立メンバーではなく、チームができて少し経ってから加入したんです。それが確か1993年とかですかね。
平野 となると創立メンバーっていうのは誰になるんですか?
YOPPI 僕が知る限りでは、まず「T-19」の生みの親でもある大瀧さん ※5、尾澤彰 ※6 、西村明彦 ※7 、根本マサノリ ※8 が一番最初の創立メンバーだったと思います。
※5 本名、大瀧ヒロシ。80年代後半に単身渡米し、ベニスビーチに実在した「DOGTOWN」の工場でシルクスクリーンの技術を学ぶ。帰国後、しばらくして「T-19」をスタート。「T-19」の創立者、ブレインとしてはもちろん、東京のスケートシーンやバイシクルシーンを牽引する存在としても知られる。2018年永眠。
※6 「T-19」の初期メンバーにして中心的な存在。スケーターとして国内のスケートシーンを黎明期より支え、その後ピストバイクブームの火付け役としても活躍。2007年にはYOPPI氏とともにピストバイク専門店の「CARNIVAL TOKYO」をオープン。現在も「T-19」との親交を持ちながら、自転車愛好家として多岐にわたる活動を行う。
※7 Akeem the Dreamの愛称で知られる、「T-19」の初期メンバー。かつてはYOPPI氏とともにスタートした〈HECTIC〉でデザイナーを務め、現在は自身のブランド〈Reserved Note〉や、著名なミュージシャンへのアートワークの提供など、デザイナー業での活躍がめざましい。また海外への移住経験も豊富で、語学堪能。海外のスケーターをはじめとする様々なアーティストと親交を持つ。
※8 「T-19」の創立メンバーのひとり。愛称はサルーダ。北千住をローカルとする生粋のスケーター気質。個性豊かな「T-19」の面々の中でも特にオリジナルな感性を持ったファッションセンスで、多くのスケーターから支持された。
平野 その前にもチームとして活動していなかったんでしたっけ?
YOPPI あ、それはその前にあった「TOKYO SKATES」っていうT-19の前身となるチームの時のことですかね。
平野 「T-19」にとって大瀧さんってすごい存在ですよね。僕や千ちゃんもかつて『WHEEL magazine』や『Sb SkateboardJournal』で何度かインタビューをさせてもらったことがあるんですけど、今でも覚えている話があって。
それは大滝さんがスケートカルチャーに憧れて単身アメリカのカリフォルニアに渡り、「DOGTOWN」関連のシルクスクリーンの工場で働いていた時の話なんですが、大好きなスケートに携われるお店でしばらく働きながら突然「もういいや」って思って辞めたそうなんです。
その理由を聞くと、現地のスケーターはみんなスケートをしながら遊んでいるだけで、常に楽しそうにしている。スケートを仕事として捉えていないんだと。だったら自分もそれを日本でやればいいだけだと悟ったそうなんですね。それからできたっていうことですもんね?
YOPPI はい、そう聞いています。僕が「T-19」に入ったきっかけっていうのも、やっぱりアメリカがきっかけで。当時僕はプロのスケートボーダーとして海外のブランドからのスポンサードを求めて、単身アメリカに行ったんです。
それでアポなしで当時のヒーロー、トミー・ゲレロ ※9 に会いに行って、開口一番『スポンサーミー!』 ※10 って声かけたんですよ。
※9 サンフランシスコを代表するプロスケーターにして、スケーターでありながらミュージシャンとしても成功した数少ない人物。現在もバンド、ソロともに精力的に音楽活動を続けながら、最近では盟友レイ・バービーらの伝説的なスケーター5人と結成した「BLKTOP PROJECT」名義での活動が盛ん。また10代という若さで当時の人気チーム「BONES BRIGADE」に加入したという逸話はスケーター間では語り草。
※10 スケーターのキャリアップを語る上で欠かせないスポンサーシップ。その中で自身をアピールする手段として渾身のビデオ作品をスケートブランドやカンパニー、スケーターに送ることから広まったとされる言葉。
YOPPI 当然「お前は誰だ?」ってなるんですけど、そこから話をしていくうちに仲良くなり、ゲレロとも仲が良かった大瀧さんとも親睦を深めていくようになるんです。
そして僕と同じようにアメリカのスケートカルチャーに憧れを持っていた日本人スケーターとしての大瀧さんの存在がどんどん大きくなり、彼と同じようにアメリカにいなくても日本でスケートカルチャーを盛り上げていけるんじゃないかと感じて、日本に帰国してすぐに「T-19」に加入することになるんですね。
平野 当時のYOPPIさんは80年代後半という時代ですでに海外のスケートボードの大会に出ていたり、いち早く海外を意識した活動をしていましたもんね。
YOPPI 初めて参加した大会が、ジョージア州のアトランタで行われていた「サンバンナスラマ 3」※11 でしたね。当時はロッテとコンバースがスポンサーについて渡航費なんかを出してくれて、アキ秋山さんが引率してくれました。
※11 80年代後半に全米規模で開催されていた一大スケートイベント。日本からはYOPPI氏やアキ秋山氏をはじめ、一部のスケーターたちも参加していたことで知られる。
アメリカに憧れるのではなく、僕らで東京らしいスケートチームを作ればいい。(YOPPI)
平野 それはビデオにもなっていたやつですよね? 懐かしいですね。
YOPPI そうそう。だからあの映像をよく見ると僕がいるんですよね(笑)。
平野 それは貴重な映像ですね。ただ、そうしたなかで大滝さんの存在もあって、もうアメリカを追いかける必要はないと。
YOPPI そうですね。アメリカに憧れているだけじゃ何も始まらないし、僕らで東京らしいスケートチームを作ればいいって。それで大瀧さんが選出したのが当時の「T-19」だったんです。
僕はその中で唯一デッキのブランドからのスポンサーがなかったので、そのことを大瀧さんに相談したら、「ならT-19でデッキ作ろう」って話になって、そのままメンバーとして加わることになりました。
スクリーンに映し出された写真は、「T-19」のボス、大滝氏(写真右)と国内のスケートシーンを黎明期から追いかけ続けていたデビルマン西岡氏(写真左)が映ったもの。ともに現在は故人であるため、YOPPI氏にとっても思い入れの深い、貴重な一枚。
平野 なるほど。結成後は主にどんな活動をされていたんですか?
YOPPI んー、今とそんな変わらないと思いますけど、大会に出たり、チームのみんなと一緒にツアーに出かけたりですよね。
平野 ちなみにYOPPIさんはスケートボードを始めたきっかけはなんだったんだろう?
YOPPI 僕の場合は、雑誌などでもよく言っているんですけど、最初はモテたくて、サーフィンを始めようと思ったんですよね。でもサーフボードってスケートボードよりも値段が全然高いし、やりたいなって思っても東京にいたらすぐにできるわけじゃない。となると自然とスケートボードの方が身近な存在になっていくんですよね。
平野 分かります。すぐにやりたいですもんね。ちなみにYOPPIさんの場合は、「T-19」のなかでも若手のイメージでしたが、チームのなかではどんな役割を担っていたんですか?
YOPPI そうですね。加入したばかりの時は、大瀧さんをはじめ先輩たちに自分の目の前でパワースライドをされて、肝を試されるみたいなイジりはありましたね。
平野 僕の中では「T-19」って他とは一線を画すようななにかがある、特別な存在なんですけど、千ちゃんはどうかな?
小澤 うーん、なんだろうね。僕としては、昔からずっとハンバーガーみたいな味のするチームだなって思っていましたね。東京にいるのにアメリカって感じがしてね。
スケートだけでなく、いつも一緒にいた気の合う仲間だった「T-19」。そんなチームとしての仲の良さが伝わる写真。YOPPI氏にとって、こうした食事の時やツアーの移動中の車内など、スケートボード以外の瞬間も大切な思い出のひとつなのだそう。
こちらは「T-19」のメンバーが集合した、千葉のスケートパークでの一枚。ウォールスライドをしているのがYOPPI氏で、当時ディレクターを務めていたブランド〈HECTIC〉のビジュアルルックの撮影によるもの。
新宿のジャブジャブ池は関東から猛者達が集まってくるような激戦区だった。(吉田徹)
南 僕の場合は「T-19」が世代的に離れていたので、どちらかというと「NEWTYPE」を見て育った感じですね。そして多分「NEWTYPE」の徹くんなんかは「T-19」を見て育ったんじゃないですかね。現場ではほとんどかすらなかったんですよね。
平野 そうか。「T-19」の全盛期の頃っていうのは、まだ勝己はスケートボードをしていなかったの?
南 僕がスケートを始めたのは中学生になったばかりの13歳の頃で、時代的には90年代に入ったくらいの時期。だから「T-19」の存在は後々知っていく感じで、どちらかというと「NEWTYPE」が世代的にはドンピシャだったんです。
平野 なるほどね。そして、その徹くんはYOPPIさんの学校の後輩でもあるということですよね?
吉田 はい。中学校の先輩・後輩という関係だったんですけど、僕が入学した時にちょうど江川くんは卒業してしまったので、かぶってはいなかったんですよね。
吉田 まぁ当時は、ドラマに出ているとか、俳優をやっている先輩が同じ学校にいるみたいだっていう噂もあったので(笑)。
平野 うんうん。まぁそこはなんとなくでね。でもそんな同じ中学の先輩・後輩で互いにスケートボードのカルチャーの中で活躍しているっていうのもすごいことだよね。
小澤 東京らしいといえば東京らしいですよね。ちなみにYOPPIさんの場合は、大瀧さんが中心となって作った「T-19」に加入したという話でしたが、徹くんや勝己は自分たちでスケートチームを作ったんだよね? そこの話も少し聞きたいな。
吉田 当時、僕がローカルにしていたスポットって新宿のジャブジャブ池 ※12 の辺りだったんですけど、そこは関東から猛者達が集まってくるような激戦区だったんですね。
90年代初めの頃っていうのは、それまで主流だったスケートスタイルと当時あったフリースタイルというフラットで板を回すスタイルが混在し、今のようなストリートスタイルへと変わり始めた頃だったんですけど、Rのセクションが多いコンテスト全盛な時代でもあり、それでしか上にあがる手段がなかったんです。
そのなかで無名だけどスケートボードが上手かったメンツと「うちらもヤバいでしょ」って意気投合し、その何人かで「NEWTYPE」と名乗るようになったのが始まりですね。
※12 新宿中央公園内にある池の通称。その中にあった バンク(斜面)カーブ(縁石)ステア(階段)などは、滑る場所の少なかった80年代後半から90年代後半に関東のスケーターたちにとって聖地とも呼べるストリートスポットとして賑わう。代官山のスケートショップ「California Street」主催の大会も定期的に行われ、「NEWTYPE」が結成された場所としても知られる。
小澤 その選出されたメンバーというのは上手いだけではダメだったんでしょ? 例えばバスケやサッカーのようなスポーツであれば、ある程度のチームとしての戦術などはありながらも、うまいやつっていうのが選考基準としてあるわけなんだけど。スケートボードの場合はそれだけではない気もしていて。
吉田 そうですね。波長というかノリが合うとかですかね。あとは元「H-STREET」 ※13 の故マイク・タナスキー ※14 が立ち上げたスーパースター集団「PLAN-B」※15 など、新しいタイプのスケートカンパニーが出てきた時期でもあったので、そうした影響もありましたね。
※13 1980年代後期に一世を風靡したスケートブランド。当時、一世を風靡したスタイリッシュなグラフィックが施されたスケートデッキは入手困難となるほどの人気に。またフィルムメーカーとしても「Hokus Pokus」や子供時代のダニー・ウェイが登場する「SHACKLE ME NOT」など数多くの名作ビデオを世に送り出す。
※14 80年代に「Powell Peralta」にその才能を見い出され、プロデビュー。以降、「NEW DEAL」をはじめ様々なスケートブランドを渡り歩いてきたレジェンドスケーターのひとり。現在は「Elephant Brand Skateboards」を主宰し、ストリートスケーターのパイオニアとして世界中を旅しながら撮りためたという自身のフィルム作品「DRIVE」シリーズでも有名。
※15 「H-STREET」出身のスケーターが数多く移籍し、一時代を築いた90年代の代表するスケートチーム。ダニー・ウェイ、マッド・ヘンズリー、サル・バービア、リック・ハワード、マイク・キャロルなどの錚々たるライダーが在籍。
YOPPI 「H-STREET」ね、懐かしい。僕の世代では『Hokus Pokus』※16 が名作中の名作でしたからね。
※16 1989年に「H-STREET」からリリースされた伝説的ビデオ。YOPPI氏や吉田氏、平野氏にとってマスターピース的な作品でもあり、『Hokus Pokus』以降、スケートビデオの在り方が変わったともされる。
平野 『Hokus Pokus』は本当に名作ですよね。ちょっと話が脱線しましたが、なるほど。なんとなくそうした当時のスケートシーンが新たなフェーズへと向かっていた時期に、東京のじゃぶじゃぶ池でも新たなムーブメントがうごめいていたということですね。
大会とは異なるアピール方法として映像を撮るようになった。(吉田徹)
小澤 スケートチームには当然、契約書があるわけではないだろうし、各ライダーはみんな徹くんが声をかけていった感じなの?
平野 いつも一緒に滑っているスケーター仲間でも、ある日突然「うちのチームに入らない?」って誘う日があるわけだもんね。
吉田 まぁそうですね。その時いたメンバーと誰々入れようみたいな話で、スポーツというよりはノリ的には当時の渋谷に居たチーマーとか暴走族みたいな感じですかね(笑)
吉田 あ、いや(笑)。あくまでもノリというか、そういう仲間意識ってあるじゃないですか(笑)。はじめの頃は、スケートデッキにDIYで「NEWTYPE」とポスカで書いていただけだったんですけど、その後「ビデオを作ろう」ってことになって、映像を撮り始めましたね。
吉田 ルパン ※17 達の世代が専門学生の時で、僕が高1。(米坂)淳之介 ※18 にいたっては中2とかでしたね。確かに今考えると若いですね(笑)。
※17 吉田徹氏とともに「NEWTYPE」を創立した中心メンバー。「NEWTYPE」では年長者であり、チームのブレイン、あるいは兄貴的存在として慕われる。
※18 長年国内のスケートシーンにおいても“オーリーマスター”として一目置かれる、日本が誇るレジェンドスケーター。HIPHOP色の強かったアメリカのスケートブランド 〈MENACE〉や、ヨーロッパのブランド〈Cliche〉からサポートを受け、海外でも活躍した経験を持つ。今年41歳を迎える熟年スケーターでありながら更に進化を続け、いまだ現役のプロとして活躍。
平野 でもこの時代から映像という作品が、スケートチームに欠かせないメソッドになっていくんですよね。
吉田 最初は家庭用のビデオカメラを使っていました。Hi-8やベータと呼ばれるカメラですね。
平野 うんうん、それでいつからかフィッシュアイレンズへと移行していくんだよね。
小澤 やっぱり各チーム、ある時期を経てからは映像作品を作るっていうのはスケートチームとしての存在価値というかステータスにもなっていたんですかね?
YOPPI 僕らは営利目的でしか作ってこなかったですからね(笑)。
小澤 チームのイメージを伝えるようなものってことですよね。
YOPPI そうですね。デニムのローンチに合わせて作ったコマーシャル的な映像だったり、だから純粋な映像作品ではなく、営利目的なんです(笑)。
吉田 「T-19」の人達は基本的には大会で活躍していて、僕らも当然大会に出ていたんですけど、別のアピール方法として映像を撮るようになったんですよね。
南 それで僕らはその「NEWTYPE」を見ていたので、大会には一切出ることはなくて、映像作品を残すための活動をチームとしてやっていこうってなっていったんですよね。
「NEWTYPE」が雑誌『WARP magazine』で取り上げられた初めての特集記事。当時の「NEWTYPE」ライダー陣のプロフィール紹介から貴重なインタビュー、HOW TOページなどが掲載されている。
講義イベント後半では、「NEWTYPE」が90年代前半にリリースした数々の作品のダイジェスト映像も上映。90年代に流行ったトリックや今は亡きロケーションの数々、そして現在では古くなってしまった撮影技法など貴重な場面が数多く映し出される。映像を見ながらホスト平野氏と吉田氏を中心に解説や撮影時の秘話にも花が咲き、会場内からも「懐かしい」という声が多く上がった。
「NEWTYPE」のビデオに衝撃を受けて、それ以来ずっとビデオで育ったといっても過言ではない。(南勝巳)
南 さっき徹くんが言っていた時代的な背景っていうのは、スケートカルチャーだけじゃなく、90年代に家庭用のカメラが一般的にも普及していったという背景もあるんですよね。
そこからは今の若い子もそうだと思いますけど、ビデオをガンガン撮るというのが当たり前になっていった世代なんですよね。もっと若い子はスマホとかで撮っちゃうのかもしれないですけど。
平野 アメリカでも80年代はいくつかの大きなスケートカンパニーがきちんとした機材で撮っていたのが、そうした背景もあってスモールカンパニーやローカルなスケートチームやショップ、スケーターたちでも気軽に撮影できるようになったから、映像作品自体もグンと増えたんだよね。
小澤 そもそも「NEWTYPE」はなんで映像を撮っていこうと思ったの? 単純に大会に出るだけだと、それまでの既存のスケートチームとの差別化ができないっていう理由だけだったのかな?
吉田 あくまで映像作品は、大会とは別のベクトルとして日常的に撮影していたもの。そしてそのクオリティをあげて、チームとしても各ライダーとしても名前を売れれば、スポンサードも受けられるというのが自然の流れだったんですよね。
小澤 YOPPIさんはサンフランシスコで直接現地のスケーターヒーローに「スポンサーミー!」と言ったのに対して、徹くんは自分たちのビデオで「スポンサーミー!」をアプローチしたわけだね。
南 僕は当時の「NEWTYPE」の映像を本当に穴が開くほど見ていて、特に94年と95年あたりの映像が好きなんですが、あの頃って出演するライダー陣もかなり多かったですよね。
吉田 そうそう。「NEWTYPE」が始まってからしばらくして岡田晋 ※19 、アレキサンダー・リー・チャン ※20 、TOMY-NT ※21 なども加わって、ライダーの数も設立した時の倍近くになったので、「NEWTYPE」の中でも別のチームを作ることにしたんです。それが「FLOWER」 ※22 って名前で、今のアパレルブランドなどでいうセカンドライン的な感じですかね。
※19 日本にいながらにしてアメリカのスケートカンパニー〈Prime Skateboard〉からサポートを受け、当時では歴史的な快挙であった、海外ブランドでの日本人のビデオパートを残し、その後アメリカにも渡り世界に名を轟かせた日本を代表するプロスケーター。スケートスキルにおける日本と世界の距離を縮めた立役者の一人であり、現在は自身のプライベートアパレルブランド〈Push Connection〉のプロデュース、イベントの企画などマルチの活躍中。
※20 サンフランシスコ出身。90年代より国内のスケートシーンに新たな風を吹かせた個性派スケーター。スケーターとしての活動と並行し、2003年より自身のブランド〈AlexanderLeeChang〉をスタートし、2015年にはフラッグシップストア「2 [Ni]」をリニューアルオープン。最近では〈VANS〉のスケートセクションのマネージメントを兼任。プライベートではキャンプ&植物愛好家としても知られながら、今春14年ぶりに自身の滑りを収めたフルパートを公開、健在ぶりを示した。
※21 AJSA公認のプロスケーターとして数々の大会で輝かしい戦績を収め、シーンの一線で活躍。その後1993年に「NEWTYPE」に加入し、当時の話題作で多くのフッテージを残してきた。また現在はDJとしての活動も盛んで、スケートカルチャーやHIPHOP界隈のイベントを中心に出演中。
※22 「NEWTYPE」の意思を受け継ぐ、フィルマー兼ビデオメイカー。2012年にリリースしたDVD『Subspecies』など自身の作品を始め、日本におけるスケートボードの映像作品に様々な形で携わり、黒子に徹しながらシーンに貢献を続ける功労者。
吉田 イメージ的には〈GIRL〉と〈CHOCOLATE〉みたいな感じ ※23 ですよね。兄弟ブランドみたいな。
※23 スケーター間では有名な兄弟ブランド。それぞれのブランドの特色として、スケーターらしい皮肉を込め、白人種のブランドとして「GIRL」、有色人種のブランドとして「CHOCOLATE」をスタートしたとされている。
YOPPI そうした作品の中には僕ら「T-19」が映像製作で携わった作品もあるよね?
吉田 そうですね! 僕らは世代の異なるスケートチームではあるんですけど、チーム同士や個人間での親交は全然あったので、「NEWTYPE」からリリースした3本目の作品には「T-19」からもらったイメージ映像が入っています。懐かしいですね。
平野 んー懐かしいようで、改めて話を聞くと時系列とか当時は知らなかった部分も繋がっていって面白いね。聴講生のみんなはついてきているかな?(笑)
小澤 話を聞きながら分からないことがあれば最後に質問してもらってもいいし、フイナムの記事で改めてチェックしてもらってもいいしね。そしてそんな「NEWTYPE」の存在や映像作品にやられてしまった勝己は現在の東京スケートシーンを代表するチームである「Evisen Skateboards」を作ることになるんだよね。
南 そうですね。僕はスケートボードを本格的に始めた当初、「NEWTYPE」のビデオを見て衝撃を受けて、それ以来ずっとビデオで育ったと言っても過言ではないほど、影響を受けてきたんです。
常にカッコイイ作品を撮りたいと。それで20代の時から全国各地のクールなライダーたちを求めて、撮影していくうちに仲間と言えるスケーターたちと出会えて、彼らと一緒にスケートチームを始めることになったんです。
平野 じゃあ最初は「Evisen Skateboards」って名前もなかったんだ?
南 ないですね。なにも考えていなかったです。ただ単純に映像を撮りたいっていう気持ちだけでした。
小澤 それが勝己の処女作となった「NIGHT PROWLER」 ※24 っていうことだよね?
※24 2009年に南勝己氏がセルフリリースした、フィルマーとしての処女作。それまでローカル主義であった日本のスケートシーンでは異例となる全国各地の錚々たるスケーター陣が出演したことでも話題に。国内スケートビデオにおける不朽の名作と評される。
南 そうですね。僕の場合は、ローカルの場所から派生したわけではなく、僕個人の作品として大阪や仙台、福岡などの全国各地を周っていたんですけど、何度も撮影でそういった場所に訪れていく中で、これだったらもうチームにしたほうが早いんじゃないかって思って、始まったんです。
小澤 「Evisen Skateboards」もまた「T-19」や「NEWTYPE」とは違うスタイルなんだね。
南 僕が「Evisen Skateboards」をスタートさせたのが、2011年なんですけど、その頃って東京だけじゃなくアメリカやヨーロッパでも、僕らのようなスモールブランドや小さなローカルのスケートチームが増え始めた時期でもあるんですよね。それまでは大きなスケートカンパニーだけだった流れも変わっていったんです。
2017年頃の雑誌「EYESCREAM」で特集された「EVISEN Skatebords」のライダー全員が映った集合写真。この撮影を担当したのは、南氏と親交もあるファッションシーンの第一線で活躍する写真家、守本勝英氏。
僕らの場合は、絶えず若い子たちとも接点を持って活動しています。(南勝巳)
平野 この写真(スクリーンに映し出されたEvisen Skateboardsのライダーの集合写真)を見ると10人近くいるんだよね。
南 大阪の上野伸平 ※25 、仙台の丸山晋太郎、東京の今村昌良 ※26 、僕ですね。みんなチームメイトという以前に、本当にただの気の合う仲間なんですよね。しかも江川さんや徹くんとは違って、僕らはおじさんになってからこうしたチームを結成することになったので、程よい距離感があったんですよね。
※25 現在、日本における最も影響力を持ったプロスケーター。「Evisen Skateboards」のライダーとして所属しながら、大阪を拠点に「TIGHTBOOTH PRODUCTION」というスケートカンパニーを主宰し、自身が指揮を執った映像作品「LENZ」シリーズは世界的な評価を受ける。また同名のアパレルラインも人気で、2016年には大阪駅近くにヘッドショップとなる「SHRED」をオープン。さらに藤原ヒロシ氏もSNS上で“MY HERO”と公言するなど、スケートシーン以外からも注目を浴びる稀有な存在。
※26 「Evisen Skateboards」チームのオリジナルメンバー。ハードコアなスケートスタイルが持ち味で、「Evisen Skateboards」以外にも様々なブランドでゲストパートを持つ人気スケーター。
小澤 おじさんになってから仲良くなると、すぐに飲みに行っちゃうんじゃないの?
南 行っちゃいますね。撮影してて、その日のノルマが撮れたら、すぐに飲みに行っちゃいますね(笑)。
小澤 今のスケーターはもうフッテージなしでは語れない部分があるのかもしれないね。
南 そうですね。僕らは完全にそのノリでやっていますからね。
平野 徹くんたちはもう「NEWTYPE」としては作品とかは発表しないの?
吉田 僕らは2000年頃から各自のソロ活動が忙しくなったりしていって、その時期以降はチームとしての活動は休止状態。2004年に「NEWTYPE」の意思を受け継いだフィルマーでもある高橋大介 ※27 の「Introduction」という作品に、メンバー全員でひとつのパートを残したのが最後ですね。
その後は各自、自分のスポンサーや何かの作品などでパートを残しているって感じです。メンバーの誰かがスケートボードの活動を続けていれば「NEWTYPE」の名前が無くなることはないので。
※27 「NEWTYPE」の意思を受け継ぐ、フィルマー兼ビデオメイカー。2012年にリリースしたDVD『Subspecies』など自身の作品を始め、日本におけるスケートボードの映像作品に様々な形で携わり、黒子に徹しながらシーンに貢献を続ける功労者。
小澤 なるほどね。ちなみに「T-19」や「NEWTYPE」のように一時代を築いたチーム、あるいは今を代表する「Evisen Skateboards」の新陳代謝とかってどうなんだろう?
南 僕らの場合は、絶えず若い子たちとも接点を持って活動していますよ。それに逆に僕が「NEWTYPE」から刺激を受けたように、若い子も「Evisen Skateboards」に関心を持ってくれていたら、あっちからアプローチしてくれますね。
平野 それはやっぱりYOPPIさんが「T-19」に加入した当初に浴びた洗礼のようにパワースライドでギリギリまで攻めて、試したりするの?
南 それは、さすがにしないですね(笑)。でもこの前、9歳の子からいきなり「スポンサーミー」って映像が送られてきて、さすがに若すぎて判断できないなって。僕にも8歳の子供がいるんですけど、やっぱりまだ子供なんで(笑)。
平野 まぁそりゃそうだよね。でも勝己の場合、一番は気が合うかどうかでもあるもんね。それは単純に人間として? それともスケートセンスとかの面で?
小澤 逆に徹くんとかは「Evisen Skateboards」をどう見てるの?
吉田 単純に羨ましいですよね。僕らのできなかったことができているなって。
平野 うんうん。しかも「Evisen Skateboards」って今アパレルも大人気なんだよね。
南 おかげさまで順調ですね。でも本来はスケートビデオを作るための資金作りのためでしかなかったんですけど、いつしかそっちの仕事も忙しくなっちゃって、本末転倒というか。だから今の僕は、撮影のフィルマーや映像の編集作業とかアパレルの裏方作業などに徹していますね。
それこそさっき江川さんの言っていた大瀧さんにしかできない役割を担うように。ただ、もちろん僕だけじゃなく分担できることは分担しながらやっていますけどね。
平野 そして映像作品も国内外で評価されていて、海外でも上映しているんだもんね。
南 そうですね。ニューヨーク、ロンドン、パリ、ベルリン、アムステルダムとかでやりましたね。
南 国によって盛り上がるポイントは異なるんですけど、手応えはありましたね。
平野 それは日本らしいスケートボードの映像っていうものを認知してもらえたのかな。
南 だと思います。そもそもそうした日本らしいスケートボードの映像っていうのは、「FESN」の森田くんがはじめに築きあげていて、その土壌があったのも大きいと思いますね。
平野 もちろんこうした映像の作り方や日本人独特のスケートスタイルっていうのもあるけど、ロケーションや環境の違いもあるよね。
平野 そうしたらまずはYOPPIさんには大瀧さん亡き今、次に「T-19」を引っ張っていく方は誰なのか、というところを聞きたいですね。
YOPPI そこがね、やっぱりあの役割って大瀧さんにしか担えなくて。プレッシャーがすごいというか。今はまだ一周忌が終わったばかりなので、これから少しづつ考えていこうかなって感じですね。
来年が2019年なので、「T-19」が再開するのにもちょうどいいかなと。今年いっぱいは充電期間にしつつ、その時を楽しみにしていただけたら。
吉田 今もブランド以外にも色々なスケートボードにまつわる活動を続けているので、変わらずに滑り続けたいですね。
平野 ありがとうございます。じゃあ最後に勝己くん、お願いします。
南 僕もずっとスケートボードができていたらそれだけでいいなって思いますね。
平野 皆さん、ありがとうございます。そしたら今回も気がついたらお時間が来てしまったんで、この辺で終わりにしたいと思います。また次回は来月17日、今日と同じ「VACANT」の1Fで行います。次のテーマは「スケートボードとアート」。ゲストは誰で、どんな話が展開されるのか。ぜひ楽しみにしていてください。
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