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FEATURE|アーティスト・神山隆二が語るこれまでとこれから。

アーティスト・神山隆二が語るこれまでとこれから。

Interview with Ryuji Kamiyama.

アーティスト・神山隆二が語るこれまでとこれから。

先日リニューアルを果たした中目黒のショップ「ブリック&モルタル(BRICK&MORTAR)」にて、アーティストである神山隆二さんと村上 周さんによる二人展「SHUT UP AND DRINK」が12月26日まで開催中。大きな有田焼きの壺をキャンバスに、ふたりの表現をレイヤードしています。今回はその首謀者のひとりである神山隆二さんにインタビュー。キャンバス、服、陶器などなど、素材を選ばず縦横無尽に表現を乗せる神山さんに、自身の原点から現在に至るまでの活動を振り返ってもらいつつ、最新作が展示されている今回の二人展に関する話題も語ってもらいました。

  • Photo_Miri Matsufuji
  • Text_Yuichiro Tsuji
  • Edit_Hiroshi Yamamoto
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ひとつひとつの瞬間がすごいスピードで過ぎ去っていった。

過去を振り返るようなインタビューはこれまでにありましたか?

神山なくなはないですね。どこまで振り返るかによるのかな。

神山さんはもともと、若い頃にスケートカルチャーに影響を受けて自由な活動をされていて、90年代には〈アンダーカバー〉の高橋さんのお手伝いをされていたんですよね?

神山当時はみんなやっていたんです。もともとジョニオくんに会ったのは、原宿のラフォーレだったかな。友達づたいで〈MILK〉のデザイナーの大川ひとみさんを紹介してもらって、そのままラフォーレに行ったらそこにジョニオくんがいて。当時まだ文化卒業したての頃だったと思います。まぁその流れでジョニオくんの家に遊びにいくのが日課になったっていう(笑)。

それでプリントの手伝いをしたりする中で、いつの間にかショーなんかもするようになって、それもみんなでサポートしたりしてましたね。

当時の神山さんは何をされていたんですか?

神山ぼくはひとみさんのところにいつつも、自分の作品作りとかをしていました。その前はグラフィックデザインの会社にもいましたね。もともとプリントとか、そういうアートが好きでした。

紙にプリントされていたグラフィックが自分の目の前で服とかに映し出されるのを見て、「シルクスクリーンっていう技法は紙に落とし込むか、服に落とし込むかのちがいしかなくて、ほとんど一緒だな」なんて思ったりして、これなら自分もできそうだなと思ってどんどんハマっていって。それで〈フェイマス(FAMOUZ)〉をスタートしたんです。ブランドっていう意識はあんまりなくて、自分の活動に名前をつけた感覚ですね。

プロジェクト名のような。

神山そう、名刺みたいなもんなのかな。そういうのがあると誰かと仲良くなれたり、クラブやバーでタダ酒飲めたりしたから(笑)。

デザイナーという意識は当時あったんですか?

神山それが小っ恥ずかしくて(笑)。一応肩書きとしてデザイナーというのはあったんだけど、それってどうなんだろう? っていう疑問はずっと持っていました。ものをデザインするのがデザイナーなんだろうけど、ファッションデザイナーって改めて自分からいうのは恥ずかしい。

ファッションは好きだったんですけど、それをやろうと思ってはじめたわけじゃなかったので。絵を描くとか、ものをつくりたいという気持ちではじめて、それが当時たまたまファッションだったというだけの話なんです。

それから裏原のカルチャーがやがてムーブメントになるわけですが、当事者のひとりとして周りのことをどう眺めていましたか?

神山完全に無意識でしたね。遊びの延長が仕事になって、会社をつくって社員も増えたりはしたんだけど、ぼく自身、本質はなにも変わってなかったように思います。原宿は小さい頃からの遊び場だったし、あそこへ行くと何かがあるっていうのはずっと感じ続けていたというのもありますね。

のちに原宿を出て気づいたのは、すごく刹那的だったというか、ひとつひとつの瞬間がすごいスピードで過ぎ去っていったということでした。ただ、そのなかの時間というのはすごく濃厚だった。

いま当時の熱狂ぶりを振り返って、どんなことを感じますか?

神山もうあの瞬間は二度と訪れないだろうなって。当時たまたま原宿でファッションが盛り上がって、それぞれのカルチャーを通過した人たちがひとつの場所に集まるっていうのはもうないですよね。いまはどの分野もそういったエネルギーのようなものが薄まっちゃっているから。ぼくらは無いものの中から生まれたから、その差は大きいですよね。

10年間〈フェイマス〉として活動を続けて、急に辞められたのはどうしてなんですか?

神山ちょっとした大人の事情なんですが、自分たちが借りていた物件が大家さんの都合でなくなることになっちゃって、続行するにはお金がすごくかかるという話で。裏原のムーブメントは続いていたし、お金を工面することも可能ではあったんだけど、そのタイミングで自分が冷静になっちゃったんです。

いつまでも勢いに乗ったまま続けられないといことですか?

神山その当時でぼくは29とか30歳くらいで、社員を引っ張ってまで続けることができるのか? って。大人になった瞬間だったのかもしれませんね。まぁ10年っていう区切りもあったし、一度ファッションから抜け出したいという気持ちもあったんです。それでやり残したことをしたいなぁって。

やり残したこと?

神山あんまり原宿の外に出てなかった気がして。もちろん仕事の延長で海外に行ったりはしてたんだけど、あくまでフェイマスとして行っていたから。もっと自由な視点が欲しいというのが当時ありました。純粋に自分が楽しいと思うことを追求するために。

〈フェイマス〉を辞めたあと、ロサンゼルスやサンフランシスコ、そして北欧でも展覧会をやられてましたね。

神山自分を変えることで物事にも変化が訪れるし、新しい出会いが増えたのはうれしかったですね。いま40代になってすごい新鮮な時期が訪れていて、取引するメーカーさんとの若い担当の方たちが〈フェイマス〉を知らなかったりするんです。そういう人たちは純粋にぼくの絵を見て声をかけてくれているから。あとから「神山さんって裏原出身だったんですね?」なんて言われるのが楽しかったりしますね(笑)。

歌舞伎町の景色が印象的でいまでも頭のなかに残っている。

そもそも神山さんの作品はどんなものから影響を受けているんですか?

神山ぼくが絵に関心を持ったのは小学生の頃で、ちょっと年の離れた兄の影響もあるんですけど、部屋に『宝島』とか『アキラ』の漫画が転がっていたりして、まぁませてたんですよ(笑)。勉強するのは大嫌いだったけど、絵を描くのは好きでした。美術の教科書の最初のページに「ゲルニカ」が描かれていて、それを見て衝撃を受けて。その感覚はいまでも残ってますね。

どんなことを思ったんですか?

神山なんだこれ! っていう(笑)。当時はそれが描かれた背景とかも全然知らないんだけど、色のない世界なのにすごい自由というか。これを描いた人はどんな人なんだろう? って思ったのを覚えてます。それで自分も絵を描きたいなって。

もう小学生の頃からそう思ってたんですね。

神山あと、うちはおばあちゃんが四谷に住んでて、毎週新宿のコマ劇場の前で待ち合わせて遊びに行ってたんです。美味しいもの食べさせてくれたし、必ず映画を見せてくれて。それで一緒に歌舞伎町を通るんだけど、歩いていると恐い人たちとか目に入るでしょう? 当時は上半身裸で腰にサラシ巻いたりした、いかにもな人たちがたくさんいて(笑)。ネオンを含めてその光景がすごい印象的で、子供ながらにかっこいいなぁなんて思ってましたね。

好奇心を掻き立てられたというか。

神山そうそう。ぼくが蛍光色を好きなのもその影響だと思います。

神山さんの作品はすごく多彩で、一言で表せられないところがあると思います。絵を描く対象もそうですし、描かれている絵のタッチもさまざまですよね。そういった表現方法はどのようにして培われていったんですか?

神山昔のイベントのフライヤーって基本モノクロだったりしたじゃないですか。みんなお金なくてコピーしてつくってたから。海外だとよく蛍光紙にプリントされてたりして、そういうものに黒を足していく感じがぼくは好きでした。作品としてモノクロのものも描いていたりはしたんですけど、そこに要素を足していくようなことを最初はやっていて。それで足しすぎると飽きてくるから、こんどは抜いてみたりとか。結局それの繰り返しなんです。

自分が飽きないようにいろんな手法を試していたと。

神山そうですね。あとは道具。プリントもやるんだけど、あれって色を作る作業や洗いなど時間含め、意外とめんどくさいんです(笑)。ここ最近はスプレーにハマってますね。要素として使うことはあったんですけど、これ一本で完結できることに気づいて。去年くらいからスプレーの作品で展覧会をするようになりましたね。

B品に新しい価値を与えて復活させる。

〈フェイマス〉を辞めたあとに個人の活動を活発化させて、その中で〈ブランクス(BlANKS)〉をスタートさせました。そこで器に絵を描いて発表していたところに意外性を感じたんですが、どんなきっかけがあったんですか?

神山キャンバスだけじゃなくて、プロダクト的なこともやりたいなって当時思ってて。焼き物は焼き直しが何回でもできるっていうのを聞いてすごく驚いて、鹿児島へ行って絵付けをしたりしてたんですけど。

あの器はもともとB品だったやつなんです。廃棄されちゃう器が多いっていう話を聞いて、そういうのをタダで引き取れるし、なんなら街中でいくらでも捨ててあるし、それを拾っては鹿児島へ行ってましたね。

描く対象が変わったことで、またそこに面白さを見出したりもしたんですか?

神山そうですね。キャンバス一枚と一緒で、これにもできるなって。

そもそも〈ブランクス〉をはじめたのも陶器との出会いからなんですか?

神山大量にあるB品の陶器と出会ったのがきっかけです。量産されたものもダメなやつはほぼほぼ処分されるって聞いたから、それだったらそこに新しい価値を与えて復活させるのもありかなって。服はいくらでもあるし、リメイクはこれまでにもやってきたしいつでもできると思っていたので。

神山さんのアーティスト活動としてではなくて〈ブランクス〉というブランド名をつけたのには理由があるんですか?

神山それが全然ないんですよ(笑)。もともと〈ブランクス〉っていうのは新しく自分のレーベルをやろうかなと思っていたときにつけた名前で、陶器もその流れでリリースしただけなので。

最近は〈ブランクス〉から〈ryuji kamiyama〉という名義に変わりましたよね。

神山去年から少しだけ服をやらない? って知り合いに相談されていたんですけど、時間がないからできないっていう話をしていて。「それなら営業からシッピングまで全部うちでやりますよ」って同じ人に言われて、そのタイミングで自分の名前に変えただけなんです。

じゃあそれもとくに意識的な変化があったわけではないんですね。

神山そうなんです。ぼくのアート作品を買ってくれているお客さんから「服はどこで買えるんですか?」とか、その逆の問い合わせもあったりして、だったらもう自分の名前で全部統合しちゃっていいかということで。

神山たぶん何かしら名前をつけようと思ったのは裏原時代の名残りのようなものかもしれない。みんなロゴをつくったり名前をつけるのが当時好きだったから。そのクセが残っているだけなんです(笑)。

先輩の自由な姿を見ていると、自分もまだまだだなって思う。

スタイリストの石川顕さん、イラストレーターのジェリー鵜飼さんと一緒に活動されている「ウルトラヘビー」に関しても聞きたいんですが、このプロジェクトはどのようにしてスタートしたんですか?

神山あれはね、石川さんと鵜飼くんからはじまったんです。もともとは石川さんがその名のもとで、バンザイペイントの立沢さんと一緒になにかをやってて。そこから動きが変則的になっていったみたいなんだけど。

一度、虎ノ門にあったキュレーターズキューブでイベントをやることになったんです。いまは西新橋だけど、当時はまだ虎ノ門にあったんですけど。あそこはもともとペイント工場で天高が10メートル以上あって、クルマとかも入れられる場所だったんです。

オープンしたての頃に「なんかやりませんか?」ってギャラリーの人に相談されていたんですけど、サイズもデカイし、他にもフロアがあったから、どうしようかなって思ってて。そのときちょうど石川さんと一緒にいて「こういう話があるんですけど、どうですか?」って相談したら、自然とウルトラヘビーの展示をやる方向に向いていって。そのときぼくが乗っていたベンツのW123を突っ込んで、ウルトラヘビーの信念である「迷ったら重いほう」っていうことで。そこから3人体制になったのかな。

普段の制作とはまたちがうというか、もう本当に自由な活動をされていますよね。

神山石川さんも鵜飼くんもそうだけど、あんなに自由な人はいないですよ(笑)。ウルトラヘビーはすごくいい意味で中和されているというか、そもそも仕事として解釈してないですね。あの自由なスペースで表現できるっていうのはありがたいですし、毎回楽しい。自分たちですら何をやっているのかわかってないので(笑)。

みなさんのフットワークの軽さがすごいなと。

神山ぼくは今年47になるんですけど、石川さんは10個くらい離れているのかな? 先輩がああやって自由に動いていると、自分もまだまだだなって思いますからね(笑)。一緒にいると本当に楽しいんです。

題材を選ばずに描くのはやっぱり楽しい。

現在中目黒にある「ブリック&モルタル」では神山さんと、アーティストの村上周(あまね)さんによる二人展「SHUT UP AND DRINK」が開催されています。大きな有田焼の壺をキャンバスにした展示ですが、これはどのようにしてスタートしたんですか?

神山周から「一緒になにかやりませんか?」っていう相談をずっと受けていて、彼のお店でずっと陶器を置いているのが頭にあったので、それで今回壺をリクエストしたんです。やるならとにかくデカイやつで!
って(笑)。そしたら有田焼を探してくれて、先月から有田に入って制作をはじめました。絶対現場に入ってやりたかったから。

それはどうしてなんですか?

神山相手の環境でやれるっていうのがおもしろいんです。現場に行けば必ず道具とかもありますし。〈ブランクス〉で陶器は扱ったことがあったんですけど、今回は全部素焼きの壺で、それははじめてでした。

道具はどんなものを使ったんですか?

神山今回はスプレーも使ったんですけど、半分以上は筆でした。今年の1月にパリへ行ったときにホームセンターで筆を2本買ってて、それを試したいなぁということで。普通の太い丸筆でペンキ用のやつだったんですけど、有田焼とすごい相性がよかったですね。

神山さんの場合、どんどん描く対象が変わっていってますが、それによってモチベーションにも変化がありますか?

神山はじめてのものはやっぱり上がりますよね。とくに今回は立体だから面で見れないし、全部曲線なので。回しながらだったり、いろんな角度から眺めてイメージを膨らませてやりました。それがすごい楽しかった。有田焼の壺ってもともと献上品で、ほとんど市販されてないみたいなんです。売られたとしても500万近くするらしくて(笑)。

よくそんなものが見つかりましたね。

神山どこかに贈る予定のものが中止になって余ってたみたいですね。現場のおっちゃんも邪魔なんだよって話してて、今回描いたやつ以外にもまだ20個くらい余ってるらしいから、それ全部買おうかなと思ってます。

不要なものに価値を与えるという〈ブランクス〉の活動にも通じますね。

神山なんでも描いたり重ねたりすればアートになるから。題材を選ばずに描くのはやっぱり楽しいですね。このアトリエでも壁に試し書きしてから作品つくったりするんですけど、この壁をそのまま欲しいっていう人もいるし、わからないもんですね(笑)。

やっぱり自分の手の届くところでやりたい。

これまでの活動を振り返って、ご自身のなかで変わったこと、逆に変わらなかったことはありますか?

神山とくにないですね。なにも変わってないと思う。

〈フェイマス〉をやられている頃から現在に至るまでメインストリームと距離を置いて活動をされているように見えるんですが、それは意識してのことなんですか?

神山意識しているとまではいかないですが、どこか頭は働いているでしょうね。もともとひとりでスタートして、会社化してスタッフが入ったとしても、やっぱり自分の手の届くところでやりたいというのはあったので。

時代も意識したりはしないですか?

神山全然しませんね(笑)。そんなこと考えてたらまずここ(世田谷)にいないと思うし。ここでの生活がラクでしょうがないです。

最後に、ご自身の活動を続けていくなかで今後やってみたいことなどがあれば教えてください。

神山ずっと壺に描いてみたくて今回それが実現したし、まだストックがあるということなので今後もそれは継続すると思います。あとは友達にガラスを吹いている人がいるので、そこに泊まりに行ったりしてガラスがつくられる工程を見に行ったりしたんですけど、いつかガラスにも挑戦したいなって思ってます。

INFORMATION

神山隆二

ryujikamiyama.com
Instagram:@ryuji_kamiyama

神山隆二×村上周 二人展 「SHUT UP AND DRINK」

会期:2018年12月7日(金)~2019年1月13日(日) 12:00~19:00 月曜定休
※1月11日(金)は公開製作最後のためギャラリーすべてを使って「描きまくります」とのこと。
会場:BRICK & MORTAR 中目黒店
住所:東京都目黒区中目黒1-4-4
電話:03-6303-3300
Instagram:@brickandmortar_nakameguro

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