両親を亡くした4人の子どもたちが火葬場で出会い、バンド・LITTLE ZOMBIESを結成して社会現象を巻き起こす、“超音楽冒険RPGムービー”。美術セットデザインをmagma、衣装をwrittenafterwards、劇中バンド“LITTLE ZOMBIES”の音楽をLOVE SPREADが担当した。
長久允
1984年生まれ。東京都出身。大手広告代理店にてCMプランナーとして働く傍ら、映画、MV などを監督。2017年、脚本・監督を務めた短編映画『そうして私たちはプールに金魚を、』が第 33 回「サンダンス映画祭」ショートフィルム部門にて日本人史上初のグランプリを受賞。今作が長編映画デビュー作となる。
池松壮亮
1990年生まれ。2003年、トム・クルーズ主演の『ラスト サムライ』で俳優としてデビューして以降、さまざまな映画やドラマに出演する。最新作、主演映画「宮本から君へ」が9月27日から公開。
自分で選ばないと責任取れない。
今作、池松さんは大人と子どもをつなぐ重要な役目として登場しますが、出演はどのように決まったのでしょうか。
長久2016年につくった短編映画『そうして私たちはプールに金魚を、(以下金魚)』を観てくださったという噂を聞いて、あんなマイナーなものを観ているなんて、すごいアンテナを持っている人なんじゃないか、と(笑)。
長久『ウィーアーリトルゾンビーズ』は初の長編映画で、とにかく自分の好きな人たちとつくりたかったんです。ちょうど脚本を書き進めていて、望月と池松さんがぴったり重なったんですよね。役と役者がどちらからともなく寄り添った、というか。
池松最初は昔のマネージャーに勧められたんですよ。でも僕は普段人に勧められたものを観ないので、半年ぐらい放置していました。
池松その後、地方ロケのときにふと思い立ってウェブで観てみたんですけど…それはそれは圧倒的で、ぶったまげました。10年に1度あるかないかの衝撃。長久さんの存在はそのとき初めて知ったのですが、『金魚』を観た一年後には長編映画の制作が始まって驚いています。僕には特殊能力があって、好きな人とは会えるんですよ、必ず。
池松映画を観れば実際に会わずとも、気が合うってわかっちゃうんですよね。撮影期間は短かったけれど、本当に濃密な時間を過ごせたし、脚本を読んで本当に面白かったし、なんとしてでもいいものにしたい、と。
池松さんは普段から出演作品をご自身で決めているんですか?
池松そうです。絶対的に。自分で選ばないと責任取れない。
池松やってることはものづくりですからね。自分が関わりたいものと関わって、出会いたい人と出会って、映画をつくる。それが大前提だと思っています。
2016年公開の短編映画『そうして私たちはプールに金魚を、』。サンダンス映画祭短編部門で、日本人初のグランプリを受賞した。vimeoにて全編無料公開中。
長久池松さん、照明技師の助手かな?っていう佇まいで現場をふらふら歩いてました(笑)。
池松興味津々に覗いたり話しかけたりしていました。とにかく面白くって。
長久役者というよりもクルーに近いというか。映画を一緒につくる一員であろうという意志が池松さんにはあって、それがすごく嬉しかったんです。様々な視点で映画を捉えようとしている。演技に関してはあまり細かく言わなかったんじゃないかな。
池松長久さんはちゃんと指示して、導いてくれる監督ですよ。何を撮りたいのか、どういうニュアンスが欲しいのかっていうことを、毎シーン明確に言葉にしていました。どんな映像を撮って、どんな世界を構築したいのか。それがわかると、俳優として向き合いやすいんです。そこに共鳴できればさらに遠くまで飛べる。映画のビデオコンテ(本番撮影前にアングルやセットを決定するためにテスト制作した映像。CM制作の現場ではたびたび用いられる)を作る人なんて、少なくとも僕が映画の世界に入って10年間で、ひとりも出会わなかったですから。
全人類が一生に一本、義務として映画を作らなければいけないっていう決まりをつくりたい。
池松さんは、現場での長久監督について、特に印象に残っていることはありますか?
池松:何かを物語ろうとすることにおいて、「気合」が半端じゃないんですよね。言葉にすると簡単だけど。それは『金魚』を観たときにも感じたし、もちろん今回もそうですけど、圧倒的な何かがある。普段は「ワ〜!」とかって感じでしたけど(笑)。
池松衣装合わせのとき、長久さんが突然「イェーイ!」って言ったんですよ。両手を上げて。
池松なんか静かだったし、僕ってこんなふうにテンションが低いので、周りを静かにさせてしまう。だからこそ、そこで「イェーイ」(笑)。
長久「イェーイ」って本当にすごいんですよ。一秒で「イェーイ」な空気に変わるから。便利な言葉だなって思ってます。
池松強引な前向きさ、ものすごく好きです。それは映画自体にも滲み出ていましたけれど。
長久監督は映画のパンフレットやウェブサイトも、細かいところまで自分でチェックしているんですよね。
長久そうですね。関連するものすべてにおいて、いいクオリティのものをつくりたいってだけです。
池松天然でやっているのかと思いきや、自覚的に例外を重ねている。現場にいる人たちがどんどん長久さんになびいていって、この映画に加担していく様子を目撃しましたよ。
自分のやりたいことを純粋に追うことで、そこに人が共鳴していくという。
長久そこしかないんです。映画の歴史にひとつ名を刻む。新しいものをつくりたい。誰かに何かを思ってもらいたい。自分が一番いいと思う映画をつくりたい。そういう純粋目的だけ。だから付いてきてもらえたのかな。
池松作家としてあるべき姿だと思いますよ。みんなにそうあってほしいけれど、なかなか難しいですよね。
池松さんも、そういう純粋目的を常に意識していますか?
池松もちろん。映画って、ある意味で目に見えない、形のない媒体で…たくさんの人に、世界中に観てもらいたいとか、誰かを喜ばせたい、感動させたいとか、そういう気持ちがないとやってはいけないと思うんです。自分自身はもちろん、一緒にやる人に対してもその気概を重要視しています。本当のことを言うと、順位をつけることも好きじゃないんですけどね。
池松さんは日大の芸術学部で映画について学ばれていましたが、作り手になりたい、物語を生み出したいという思いを持っていたのでしょうか。
池松昔からそういう感覚はあります。ものを作るおもしろさをみんなに教えたいぐらい。僕は俳優で、今すぐに監督をやりたいということではないんですけど。
長久僕は、全人類が一生に一本、義務として映画を作らなければいけないっていう決まりをつくりたい。そうしたら、ビジネスじゃないからこそ純度の高いものができるなって。撮らないと捕まるっていうディストピア(笑)。
池松撮影中にも言ってましたよね。「みんな撮ればいいと思うんですよね。みんなの主観が見たい」って。すごいこと言うな、と。
長久この取材場所の近くになぜかワニガメを飼ってる八百屋があるんですよ。その八百屋のおじさんが何を考えているのかだけを捉えた、純度100%の映像を見たい。その方が、起承転結がはっきりしていて共感性の高い映画よりも存在価値があると思います。『ウィーアーリトルゾンビーズ』には、僕の思い込みや考えてることをぎゅっと詰めていて、客観性は入れていない。そうやってつくっているんです。
池松おっしゃる通りですよね。そういうことが実は一番映画的なんです。
酔っぱらったままタクシーに乗り込んで、気づいたら銭湯に到着しました。
さまざまな人の「生」のありかたを理解し、受け入れる上で、物語というフォーマットが大きな役目を果たすのかもしれません。
池松誰かの人生を見て、自分の人生に置き換える能力・考え方って、今の世の中では少しずつなくなってきていますよね。
長久置き換えるといえば、役者って基本的にはここにある題材を自分の中に取り込んで、排出する仕事じゃないですか。ある意味、透明に近い職業なのかなって。
池松おっしゃる通り、限りなく透明です。ただ、例えば主人公の子供達四人が画面に映った瞬間に、それぞれ違う透明が見える。それは生きてきた十数年のあいだ、どういう透明を積み上げてきたか、ということでしかない。もちろん演じるときは長久さんの世界を構築していくわけですけれど、もともと持っている自分の透明な器がなければ、伝わらないし、興味を抱いてもらえない。僕自身は狙って役の思いを取り込むことはせず、物語と人物と自分自身を沿わせるみたいな感覚です。
長久僕のキャスティングは全部そうかもしれない。普段演技をしていない人にもお願いしているんですけど、「見えてしまう」ものがすごい好きなんですよ。
長久そうそう。映画の打ち上げで、土砂降りのなかバーベキューをやったんです。そこにはプールがあったんですけど、山があれば登るみたいなもので、僕は早めに携帯電話をポケットから出しておいて(笑)、「イェーイ」をやり過ぎて、びしょびしょになっちゃって。
池松ひどかったですね。土砂降りのバーベキュー、フルチンで遊んでる大人たち。僕はやらなかったですけど(笑)。ここはお開きで、2軒目に流れましょう!ということになって、酔っぱらったままタクシーに乗り込んだら、隣にびしょびしょの長久さんがいて、気づいたら銭湯に到着しました。そのときに演じるということについて話しましたね。身にまとうことを知らない人の方が、画面に映ったときに豊かなものが見えてしまう。あれは何なんでしょう?って、僕らも裸で…。
長久大の大人が裸で大真面目な話をね(笑)。僕は、その人が生きてきたそのままを、当て書きしてるんだと思う。その人の人生や人間性をそのまま借りて映画に投影することで、透明じゃなくなるというか。
池松『ウィーアーリトルゾンビーズ』には、素晴らしい俳優、女優がたくさん出ていて、好きな方もたくさんいますけど、恐れずにはっきり言うと主役の四人にはかなわないと思います。彼らはこの映画の世界で出会って、そこでの生活を数ヶ月間疑似体験している。その説得力、目のよどみのなさは、誰もかなわない。
長久四人が揃ったときに「できた」って思いましたもん。
池松とにかく純粋に、この四人をもっと見て欲しい、見つけてほしいという感覚でした。
それは、劇中で池松さんが演じる望月(バンド「LITTLE ZOMBIES」のマネージャー)の願いと重なりますね。
長久望月という存在は、大人と子供の合間にいる、僕自身に一番近い存在だと思って書いたんですよ。
池松脚本を読んだ時点でそう感じていました。だからこそ僕に声をかけてくれたんだろう、とも。主人公のヒカリは、すべてを脱ぎ捨てた長久さんで、社会性や何やらを飲み込んだあとの長久さんが望月。望月は四人を引き上げなきゃいけなかったし、そこに小狡さ、小汚さが垣間見える、という。
長久僕は自分のなかの成熟しない感性を守りたいというか、それを失うのが怖くてものをつくっているみたいなところがあるんですけど、今言われてハッとしました。四人の少年少女の話だと思っていたけど、もしかしたら現状の自分に近い望月を肯定してあげるために、正しい行いをさせたり償わせたりするために、この映画をつくったのかもしれない。
池松リトル長久さんが四人の少年少女。それを俯瞰した長久さんが望月。その奥にまた監督の長久さんがいて、観客はそれを眺めている。
長久(アレハンドロ・)ホドロフスキーの『エンドレス・ポエトリー』みたいになってますね(笑)。
映画的なルールを無視しても、ドキドキするチョイスを常にしていくべき。
望月というキャラクターは、今作のテーマのひとつでもある、「成熟しない感性」につながるように思えます。
池松この時代の「成熟」って、どぎついと思いますけどね。そもそも、何をもって成熟とするのか。
長久安易に言うと、悪が世の中に蔓延していることを受け入れて、狡猾に生きることを成熟としている、という感じですかね。四人の子どもたちは、まだ成熟前のフラットな目線で社会や物事を見ている。
長久意識していました。ただ、他人に何かを伝えるための設計はしていないんですよ。他人の気持ちはわからないものと思っているから、中学生の頃の自分が見てどう思うか、今の自分が見てどう思うか、自分のなかにしか判断軸がない。映画をつくるうえで、伝えたいテーマはあるけれど、伝えるためにつくるわけではない。逆説的ですね。
池松長久さんが自分自身を掘り下げたからこそ、伝わったんだと思います。100人を狙って「ハロー」って言っても、その人たちと手は繋げなかったはず。自分の感覚を信じて、それが世界中の誰かに繋がるのって、一番美しいじゃないですか。
長久個人のなかにしか正解はないんだと思います。「葬式で泣けない」っていう感情はすごくニッチだし、ありえないかもなって不安もあったけれど、「私も泣けなかった、こんなことを言ってくれる作品やコンテンツは初めてだ!」って、世界中で話してくれる人がいました。人の感情や思考はそれぞれにニッチで、最大公約数なんて幻想でしかない。
池松さんが観客として映画を観たとき、特に共感した部分、心に残っている部分を教えてください。
池松2時間通してずっとですね。長久さんが作る世界の感覚に共鳴しました。純粋にこの四人から目が離せなかったし、長久さんの感覚が好きなんでしょうね。もっともっとこの人の映画を観てみたいと思わせる人です。人を驚かせるとか、やっちゃいけないとこでやっちゃいけないことをやるとか。物語を遮断したとしても、常にスクリーンが豊かになる方を選ぶじゃないですか。どうしてああいう映像感覚が身についたんですか?
長久映画はノールールであるっていう前提があって、ライブだと思ってつくっているんです。よりエキサイティングであることが正義で、エモーショナルな突き動かし、衝動を与えるために、全身全霊、死ぬ気でやらなきゃいけない。映画的なルールを無視しても、ドキドキするチョイスを常にしていくべき。見ている人との対話として、ショーとしてそうありたいんです。
池松ちょっと俯瞰すると、四人の子どもたちに与えられた2時間には、「人生はものすごく退屈なものだ」という前提がある。でも、長久さんはそれでいて退屈を嫌うんですよね。
長久僕は、社会や人生を良くしていくことや夢みたいなものを諦めていて。そのうえで、生活をしていくことや、退屈な人生を歩むうえでの細やかなことに、ユーモアや実験や遊びを備えていくのが一番大切だと思っています。
夢や魔法のような派手な主体を用いるのではなく、現実や生活を主体にして、それを物語という形のなかで豊かなものに変えていく、という。
長久だから、退屈な生活を否定しないんです。望月を池松さんにお願いしたのは、池松さん自身は冷めているようにも見えるし、諦めているようにも見える。それなのにどこまでも情熱的である。そこが僕と似ているんじゃないかなって。レオス・カラックス作品でいうドニ・ラヴァンみたいな、自分の投影として存在してほしいという思いがあります。今後も僕は僕の話しか作れないので、池松さんにそこにいてほしいですね。勝手な話ですけど。
池松いつかタイミングが来る気はしてるんですけれどね。
長久死ぬ寸前とかでもいいと思う。撮ってください。いつか。
ウィーアーリトルゾンビーズ
6月14日(金)全国公開
脚本・監督:長久允(サンダンス映画祭短編部門グランプリ 『そうして私たちはプールに金魚を、』)
リトルゾンビーズ音楽:LOVE SPREAD
出演:二宮慶多 水野哲志 奥村門土 中島セナ
佐々木蔵之介 工藤夕貴 池松壮亮 初音映莉子
村上淳 西田尚美 佐野史郎 菊地凛子 永瀬正敏
配給:日活
制作プロダクション:ROBOT
(C)2019“WE ARE LITTLE ZOMBIES”FILM PARTNERS
https://littlezombies.jp/