PROFILE

1970年代にグラフィックデザイナーとしてキャリアをスタートし、1978年よりフリーのイラストレーターに。これまでに雑誌や広告のイラストや、レコードジャケットのアートワークも多数描いてきた。大瀧詠一の『A LONG VACATION』や『NIAGARA SONG BOOK』など、現代にも語り継がれる作品を手がけたことでも知られる。現在も現役で作品をつくりつづけており、アパレルブランドとのコラボレートも積極的におこなうなど幅広い人々から支持を得ている。
ぼくがやってるのは一種の造園なんですよ。

ー イラストレーターとして活動をされてもう40年以上が経過していますが、今日はこれまでの道のりについて知りたいと思っています。
永井:ぼくは73年にアメリカへ旅行へ行っていて、当時はグラフィックデザイナーでした。そこで訪れたアメリカの文化に影響を受けて絵を描いていましたね。フリーのイラストレーターになったのは30歳のとき。1978年でした。その年は『ポパイ』が創刊してから2年後で、たまたまぼくがそういう絵を描いていたもんだから、よくイラストを載せてもらいましたね。オイルショックの影響もあって、海外ロケも無いからイラストを多く起用しててね。当時はレコードジャケットの仕事も多かったですね。
その後にバブルの時代がやってくるんだけど、バブルのときは不遇だったな。ヨーロッパみたいな時代でアメリカンではなかった。自分もヴェルサーチなんて着ちゃってたし。
ー 自由な感じではなかったということですか?
永井:そういうわけでもないんです。広告の傾向がちがうんですよ。写真がよく使われるようになって、イラストが下火になっちゃって。
いま振り返ってみると、駆け出しで仕事がたくさんあった時代はいい加減でしたね。それで、仕事がだんだん減った頃にきちんと描くようになって。「これじゃダメだ」と思ってね。

ー 永井さんのイラストは、先ほど仰っていた73年に訪れたアメリカが原風景になっているんですよね。作品を描きはじめる際に、ある程度頭の中でイメージはできあがっているんですか?
永井:ぼくは大体が資料を参考にして描いていますね。建築系の雑誌とか、あとは旅行のカタログ。旅行代理店からパンフレットをもらってきて、そこから広げて描いていってたな。当時はいまみたいに、インターネットで検索なんてできないし、資料もそんなに多くないですしね。
だから本をいっぱい持ってるんですよ。イラストレーターとして本格的にやる前にインテリアとか建築の本を買いまくってたの。いまはネットで簡単に検索ができるけど、やっぱりぼくは印刷されたものが好きでね。神田の源喜堂とか、もうなくなっちゃったけど青山の嶋田洋書とかに通ってましたね。当時はミッドセンチュリーってブームじゃなかったから、それに関する洋書がすごく安く手に入ったんですよ。そしたら時代がきちゃった。なんかツイてるんだよね(笑)


ー 資料を参考にして、そのイメージをどんどん膨らませるような感じですか?
永井:そうですね。実際にある景色をそのまま描くんじゃなくて、リミックスするような感じ。ヤシの木をどこにでも植えてましたね(笑)。だからぼくがやってるのは一種の造園なんですよ。簡単に描けないというか、時間はかかりますね。