デザイナー・管野寿哉のルーツ。デザイナーへの憧れ。
管野さんのこれまでの経歴について簡単に教えてください。
管野20代前半で「プロペラ」というお店と海外のコレクションブランドで販売を経験して、そのあとに友人と自分たちのブランドを立ち上げました。そのブランドで数年間活動したあと、ドメスティックブランドの営業を経て、いまの会社に入って〈ノンネイティブ〉のアシスタントデザイナーを10年間務めてきました。いまは〈YSTRDY’S TMRRW〉のデザイナーとして活動しています。
プロペラといえば原宿にあったアメカジのお店ですよね。なんだか意外な気がしました。
管野もともと古着が好きなんです。そこに自分のベースがあるといっても過言ではありません。90年代、自分が高校生だったときに世の中は古着ブームで、そこにすごく影響を受けたんです。それで古着屋で働きたくて、いくつか履歴書を送ったんですけど、どこも年齢的に難しいという理由で働くことができず…。早々に古着屋は諦めて、アメリカのブランドをいくつか取り扱っている会社に入って、倉庫でアルバイトをすることになったんです。でも、アメリカブランドといってもストリート系だったので、古着好きの自分としてはやっぱりアメカジ系の服を取り扱いたいという気持ちがどうしても抑えられなくて。だから「プロペラ」にいこうと思ったんです。
実際にプロペラに入ってみて、得たものはありましたか?
管野デザイナーになりたいと思ったのは「プロペラ」で働いているときでしたね。ぼくがお店に立っていたのは2000年代初頭。ちょうど裏原ブームが全盛の時代だったんですけど、そんなときにランウェイショーの招待状がお店に届いたんですよ。店長に話を聞いたら、元スタッフの方がデザイナーとしてやっているブランドらしく、「勉強になるだろうから見てきなよ」と言われてショーを見てきたんですが、それがもうとにかくカッコよかった。同じお店で働いていた人がこんなすごいことをやっているんだ、と。感銘を受けたと同時に自分もこうなりたいと思ったんです。
管野そうですね。でも服つくりのノウハウなんてないし、もっとファッションのことを勉強する必要がありました。さらに見識を広げるために、ショップスタッフとしてアメリカのコレクションブランドに入ったんです。当たり前ですがお店に立つときは全身そのブランドの服を着てなきゃいけなかったんですけど、かっこいいコーディネートでいたかったから、とりあえずルールは無視して古着とミックスした着こなしで立っていましたね(笑)。
当時すごい人気だったんですよ、そのブランドが。ファッション関係のお客さんも多くて、そこでたくさんの人と知り合いました。その人脈はいまでも続いていて、〈ノンネイティブ〉のたかさん(ノンネイティブ・デザイナー 藤井隆行)と仲良くなったのもそのときです。もともと知ってはいたんだけど、よく話すようになったのはその頃からで。
藤井さんに対してはどんな印象を抱いていたんですか?
管野すごくおしゃれな人で、自分のなかでは目立つ存在でした。たしか〈ノンネイティブ〉をはじめたばかりの頃で、展示会に行ったらどのアイテムもすごいかっこよかったんですよ。それでまたデザイナーになりたいっていう気持ちを刺激されて。いま思えばそういった人たちとの出会いが自分にとってのターニングポイントになっていますね。
そのブランドで働きながら、実際に服づくりの勉強はできたんですか?
管野ファッションのことは学べたけど、店頭にいたので具体的な服づくりについてはまったく。でもデザイナーになりたい気持ちは高まってるから、もう自分でやっちゃおうと思ったんですよ。それで自分の幼馴染みと一緒にTシャツをつくって売ってみたんですけど、これが思いのほか好評で。それを別の友人に話したら、「じゃあ俺がサポートするから、デザイナー的な動きしてみたら?」って言われて、いくつかの会社と契約したりして小物とかアクセサリーなどをデザインすることになったんです。それと同時にその人とブランドも立ち上げて。
管野そうでもないんです。いま振り返ると、若さ故にテングになっていたと思います。ブランドも最初は調子よかったのですが、長続きはしなかった。ぼくはデザインだけできればいいと思ってたから、服をつくって終わりになってたんです。デザイナーにとって大事なのは、どんな人が買ってくれるのかまでしっかり見ることなのに、それをしていなかった。それでブランドはどんどん下火になっていったし、契約していた会社からも仕事がこなくなっちゃって、これはマズいな、と。調子に乗っていたぶん気持ちの落ち方も激しくて、挫折を味わいました。
管野そのブランドから離れて、また別の場所でイチからやり直そうと思いました。服のデザインをしたいという気持ちはまだあったから、日本のブランドで働いて、しっかりとモノづくりの勉強をしよう、と。
管野そうです。背景に古着の匂いが感じられるモノづくりをしていて、それがすごくかっこよかった。企画志望で履歴書を送ったら、営業しか枠がないと言われたんですけど、営業から企画に入れるかもしれない、という淡い期待を抱きながら入社することにしたんです。結果的に見れば、それはそれでよかったように思います。そのときの上司が厳しい人で、ブランディングとは何かを教えてもらい、海外の展示会にも行けて勉強できたから。どうやったら魅力的なブランドになるか? っていうことをみんなが考えていたし、いろんなプロフェッショナルが職場にいて、すごく勉強になりました。ただ、その反面すごく忙しかったんですよ。毎日勝手にテンパって目標が見えなくなってしまった感じがして。
管野ある時、たかさんから連絡がきたんですよ。飯でも食いに行かない? って。いろいろ近況とかを話している中で、ウチで一緒に服つくろうよって誘ってもらって。デザイナーになるチャンスだと思い〈ノンネイティブ〉に入ることにしました。
当時、〈ノンネイティブ〉に対してどんな印象を抱いていたんですか?
管野たかさん自身ですね。つまり、自分がかっこいいと思っている人がやってるブランド。服に血が通ってるなぁと思ってました。たかさんの人としての魅力が服にも表れてたんです。
それで実際に入ることになって。藤井さんと一緒に仕事して、どうでしたか?
管野自分がどれだけダメな人間だったかを気付かされましたね(笑)。自分の悪いところを全部引き出された感じ。かっこいい服をつくりたいのはわかるけど、それは全部一方的な表現でしかない、と。〈ノンネイティブ〉はみんなでつくっているブランドだし、ワンマンじゃ通用しないからとも言われました。でも、ぼくはそれが全然理解できなかった。かっこいいならやればいいじゃんって思ってたから。
管野そんな気持ちでいたら、あるとき「販売員だったときの気持ち覚えてる?」って言われたんです。「当時はもっと服にのめり込んで、コミュニケーション取りながらがんばってたでしょ? 初心に帰って「ベンダー」に立ってみたら?」って。それでタイミングを見つけてお店に立つことにしたんです。
管野実際に接客をしてみると、いかに自分が一方的なモノづくりをしていたのかがわかりました。自分がつくっているものと、お客さんが着たいもののあいだにズレがあるんだなっていうことに気付くことができた。それでようやく“みんなでやっているブランド”という意味が理解できたんです。それからはデザインがスムーズに運ぶようになりました。たかさんとは10年間コンビ組んでましたけど、そうなるまでに3年以上かかったかな。
ダメ出しされながらも必至に食らいついていったんですね。
管野そうですね。コミュニケーションの重要性は身をもって学びました。デザイナー同士はもちろんそうなんだけど、お店や営業のスタッフとも強固な関係性を築き上げないとダメなんです。みんなに認めてもらわないと、お客さんにも認めてもらえないから。あいつらががんばってつくった服を今度は俺たちが広めてやろう、という気持ちにさせる。そうやってブランドは前に進むんです。それで10年間、アシスタントデザイナーを務めることができました。
〈YSTRDY’S TMRRW〉が生まれるまで。
管野さんが〈YSTRDY’S TMRRW〉をやろうと思ったきっかけはあるんですか?
管野もともと自分のブランドをやりたいとは思っていたので、いまから2年前くらいにたかさんに新しいブランドをつくりたいという話を持ちかけたこともあるんですけど、そのときはタイミングが違うということで流れてしまって。それから1年くらいしたときに、急にやってみたらって言われたんです。今回でノンネイティブは卒業! みたいな感じで。ちょうど2016年秋冬の展示会が終わったときでした。
管野たかさんのなかでも、いろいろと考えてくれていたみたいで。はじめにブランドをやりたいと持ちかけたあとに、自分のTシャツをつくりたいって提案したことがあって、それも引き金になったのかなって。
なるほど。とはいえ、急にそんな状況になって、なにか準備はしていたんですか?
管野いえ、まったく。だからまずはどういう服をつくりたいか? と考えたんです。それで自分の好きなものを要素として取り入れることは絶対に必要だという考えに至りました。なおかつ〈ノンネイティブ〉とは違うものをつくらないとな、とも。それで一度、自分の原点である古着を見つめ直すためにロスに行ったんです。
改めて、ローズボウルのスリフトやディーラーを廻りました。古着を見ながらネタ探しをする感覚ですね。それでなんとなく輪郭のようなものを捕えることができたんです。
管野自分が好きなのは、アメリカ人の気の抜けたスタイルなんですよ。休日っぽいというか、力んでない感じ。その感覚をファッションに落し込もうと思いました。それはつまり、90年代、自分が高校生だったときに好きだったファッションのムードと重なる部分があって。当時のことを思い出したりしながら、今回リリースするコレクションに反映させました。