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ハラダユウコArchive&Style Shop Press1971年2月東京生まれ。アメリカ、ヨーロッパを中心に幅広いジャンルと年代からバイイングされたUSEDやデッドストックを扱う古着屋「アーカイブ&スタイル」のショッププレスとして、古物をこよなく愛する日々を送っています。www.archiveandstyle.com

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ハラダユウコ
Archive&Style Shop Press

1971年2月東京生まれ。アメリカ、ヨーロッパを中心に幅広いジャンルと年代からバイイングされたUSEDやデッドストックを扱う古着屋「アーカイブ&スタイル」のショッププレスとして、古物をこよなく愛する日々を送っています。
www.archiveandstyle.com

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American Patchwork Quilt

2009.08.05

フイナムブログをご覧の皆様こんにちは☆

さて、8月第1弾です☆
お店番の合間を縫って、今日もVINTAGEブログ頑張ります~♪


今日は、アーカイブには珍しく、
服ではなくて、ファブリックアイテムです。
実は私の王道的アイテムなので、こう言っては何ですが、
この記事を書くのは、かなり愉しいです♪
(基本的にオタクなので、いつもそれなりに愉しんで書いておりますが(笑))


写真は推定1930年代製のアメリカンパッチワークキルトの
キャリコ生地(192㎝X222㎝)です。

DSCN9230.JPG
税込み¥18、795ー

今日、ご紹介するアメリカンキルトの歴史はかなり古く、
17世紀にイギリス人の清教徒達がメイフラワー号でアメリカに渡ったときから始まります。

1620年、メイフラワー号でアメリカのマサチューセッツ州の、
プリモスに移住してきた人達は102人でしたが、
最初の冬に多くの人が寒さと飢えと病気で亡くなりました。
(バイヤー経験で言いますと、五大湖近くの冬の寒さは、それはそれは厳しいのですよ~。。。。)

生き残った植民者達は新しい土地で生き延びるために生活に必要な物は全て、
自分達の手で作り出していきました。

季節に合わせて作物を植えたり、もちろん自分達が着る衣服も作りました。
そうして、着古した衣服の端切れはスクラップバックという袋の中に大切に保管され、
それらの布を繋ぎ合わせてキルトを作り、
寝具だけでなく、隙間風を防ぐために壁にもキルトが掛けられました。
(ちなみにキルトという言葉は英語のクラック(crack=裂ける、砕ける)から来ているそうです。)


木綿生地が少ないこの時代は、
とうもろこしの皮や使い古しのウール布など、何でも端切れとして、
使われていて、とにかく布を大きくするためにパッチワークをして、
繋ぎ合わせていくというのがキルトの始まりで、
現在の様なデザイン性のある物ではありませんでした。

このように、冬越しの為の生活手段として生まれたのが、
アメリカン・キルトなのです。
植民者たちから生まれたアメリカン・キルトは、
そのまま、移住者たちのアメリカの歴史とともに歩み始めます。


DSCN9232.JPG

ノッて来たので(笑)
少し掘り下げて、話を書きたいと思います~♪
面倒な方は飛ばして読んでください~☆

ここからアメリカの植民地時代が始まるわけですが、
上でも書いたように、清教徒たちは、ニューイングランド地方へ移住し、
自営農業と商工業を発展させていきました。

その後に続くスウェーデン人・ドイツ人はペンシルべニアへ、
オランダ人とイギリス人はニューヨークへ、
フランス人は南部へ移住し、其々独自の発展を遂げていきます。

と同時に、キルトも移住者達の母国の影響を受けながら、
アメリカでアレンジされ、他国にはない様な、デザインやパターンに発展していきました。

1700年代初めには、市場で
ウールの無地生地で作られたキルトのベッドカバーが物々交換されたり、
ペチコートやスカートなどが売りに出されました。

また、この頃の女性教育は、
生活必需品が全て自分で作れる様にと、
家事一切を含む勉強がより重要視されていたので、
女の子は小さい頃から針仕事を教えられ、子どものキルトコンテストなども、
開かれていたそうです。


DSCN9233.JPG

キルトに繋がる話なので、
少しアメリカの綿生産の歴史についても掘り下げます。

1640年、マサチューセッツの移住者たちは、自給自足で麻やウールを作り始め、
需要とともに生産量が増えていきました。
イギリスは重要な輸出先であるアメリカが自立する事を嫌い、
織物の生産に規制を掛けてきましたが、かえってそれが拍車をかけてしまい、
アメリカの織物商業は大きく成長していきます。

天候のため綿が育ちにくいイギリスに対して、
アメリカは原綿生産には特に南部地方がもってこいの土地でした。

そのため、イギリスはアメリカ製の綿を安く買上げ、自国で織物にして、
その織物に高い税金を掛けてアメリカに売ると言う手法をとっていましたが、
それでも、移民の増加とともに、原綿生産に携わる移住者が増え続け、
アメリカからイギリスへの木綿の輸入量は急激に増えていきました。

そこでイギリスは木綿以外の日用品などにも重税を掛けていきましたが、
もちろん、アメリカの人々からは強く激しい反発が起こり、
両国の対立が激化していくことになりました。
これが後のアメリカ独立戦争へと発展していったわけです。

1781年、ついにイギリス軍が降伏し、その2年後にアメリカ合衆国が誕生します。
アメリカが独立したときの最初の旗も、パッチワークで作られました。
その旗はニューハンプシャー州の女性達がキルティングパーティで作ったもので、
赤白の縞が繋ぎ合わされ、ブルー地に独立時の13の州を表す星がアップリケされていました。

現在の星条旗との違いは13個の星が円形状に配置されていたデザインだった事です。
(丁度、古いピーコートの13スターボタンのような感じですね。)

また、キルティングパーティとは、
この頃各自の家から女性達が端切れを持ち寄り、
皆で集まって共同作業でキルトを製作していくことは、日常の行事だったのです。
(1800年代には一家総出でキルトを作る風習が拡まり、男性も当たり前に針を持って
家族みんなでパッチワークをしたそうです。)

DSCN9234.JPG

1769年以降、紡績機械の発明が相次ぎ、
機械化された紡績産業が確立されていきます。
1793年には、手作業の50倍の早さで綿の種が取り除ける機械も開発され産業革命の
重大な出発点となっていきました。

木綿が大量生産されるようになると、
今までより安く買えるようになり、
倹約生活の為に作られていたキルトは次第にデザインが施されるようになりました。
原綿生産で裕福になった南部の人々の間では、
サテンやシルクを使った贅沢なキルトも作られるようになったそうです。

綿の需要と供給は急激に拡大し、
アメリカ南部の原綿生産は、そのままアメリカの富を築いていきます。
現在、南部と南西部一帯に広がる綿作地帯はコットンベルトと言われ、中でも、
テキサスは最大の綿産地になっています。

DSCN9235.JPG

その後、アメリカの独立100年を迎えた1880年頃から、
キルトの人気は一度、下降線をたどっていきます。
産業革命により、機会の便利さを知った人々は、
時間と手間のかかる手仕事を敬遠するようになりました。

しかし、
1930年代の世界経済恐慌の時代に、再びキルトが見直されるようになります。
経済恐慌のせいで、倹約を強いられる人々は、
端切れを再生して作られるキルトの素晴らしさに改めて気付かされます。

そして、大戦後1960年代に入ってからは、美術品として注目され、
アンティーク・キルトとして評価されるようになっていきました。
また、
現在ではそういった古い時代のアメリカン・パッチワーク・キルトは、
アメリカ独特の象徴的なフォークアートであるばかりでなく、
手芸の領域を超えた、アメリカ人の誇る「アメリカン・クラフトの宝」として、
世に遺すべき遺産として大切に保存されるようになっているそうです。

DSCN9232.JPG

長い年月をかけて発展したキルトには、
1000種類以上ものパターンがあり、ひとつひとつに名前や由来があります。
(例えば、正方形を繋げたアイリッシュ・チェーンや、
三角形を繋げたグランドマザーズ・パズルなど。)

今回、お店に入ってきたキルトは、
推定1920年代~30年製のキャリコ地(薄い木綿の細かいプリント生地)で作られていて、
推定製造年もだいたい、1930年代~40年代と思われます。
パターンは2種類が組み合わさっていて、
上の写真で確認していただけると思いますが、

「MIXED T」(ミックスT)と呼ばれる、アルファベットのTの文字が斜めに並ぶパターンと、

「DRUNKERDS PATH」(ドランカーズ・パス)日本語で言うと、
「酔っ払いの道」「千鳥足」と言われるパターンでその名の通りふらふらした感じに見える
パターンの2種類で製作されています。

かなり大きいサイズなので、ベッドカバーやソファーカバーにおススメです。
気になる方はお問い合わせ下さい。

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