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ハラダユウコArchive&Style Shop Press1971年2月東京生まれ。アメリカ、ヨーロッパを中心に幅広いジャンルと年代からバイイングされたUSEDやデッドストックを扱う古着屋「アーカイブ&スタイル」のショッププレスとして、古物をこよなく愛する日々を送っています。www.archiveandstyle.com

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ハラダユウコ
Archive&Style Shop Press

1971年2月東京生まれ。アメリカ、ヨーロッパを中心に幅広いジャンルと年代からバイイングされたUSEDやデッドストックを扱う古着屋「アーカイブ&スタイル」のショッププレスとして、古物をこよなく愛する日々を送っています。
www.archiveandstyle.com

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H.D Lee 91SB House Mark

2010.01.25


さて、やっとお店が落ち着いたので、ブログ開始ですぅ。。。
フイナムブログをご覧の皆様、こんばんは☆

今日はやっとやっと、昨日も予告していました、
Leeのハウスマーク1940sのデッド91SBをご紹介いたします☆


ついでに、毎度のブランドの歴史もかいつまみますので、
細部写真と一緒に良かったらご覧ください~☆

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Leeの創始者ヘンリー・デイヴィット・リー(H・D Lee)は、
1849年アメリカのバーモント州に生まれます。
4歳で実父が他界し、母子家庭では生活に無理があったために孤児院で育ち、
1860年には11歳で孤児院を出て、
13歳からオハイオ州にひとりで移住しホテルの事務員として働くという、
当時としては珍しくないのでしょうが、
けっこう、苦労人なのだなぁ~というのが、
彼の幼児期を初めて知ったときのハラダの印象でした。


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1965年には、16歳でそれまでホテルの仕事で貯めに貯めた、
2000ドルと、銀行からの融資を3000ドル得て、不動産を購入し、
不動産業に着手します。

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↑(ハウスマークは1930年代の物も存在しますが、
デザインがこれと少しだけ異なり、そちらは下のロゴも四角い枠で囲まれるデザインです。)


その不動産業を軸に26歳までの10年間で20000ドルもの利益を上げ、
早くも実業家としての頭角を現し始めたリーは、
更に、銀行から50000ドルの融資を受けて、
セントラル・オイル社を買収しました。


L1040816.JPG 


その後、経営は順調だったものの、
1886年に37歳で結核を患ってしまい、経営権の半分を、
スタンダード・オイル社のJ・D ロックフェラーに譲ることにしましたが、
経営自体はリー本人が行っていたそうなので、
このあたりにハラダはあくまで第一線で働くという、
リーの仕事人としての熱い意欲を感じました。


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ですが、その2年後の1888年39歳のときには、
結核の回復が見込めず、担当医から療養の為に田舎へ移住する事を、
勧められ、残りの権利もロックフェラーに譲り、
カンザス州のサリナへの移住を決心します。


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ところがどっこい、ただ療養の為に野に下るようなリーではないのが、
流石!実業家!!と、ハラダなんかは、
おもわずニンマリ笑ってしまうのですが(笑)
この19世紀終わりの当時、カンザス州のあるアメリカ中西部は、
急成長をしている地域で、新しいビジネスチャンスを狙うには最適の、
場所だったのです。


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1889年、サリナに移ってたった1年で、
40歳になったリーは、H・D Lee Mercantile Company
(H・D リー・マーカンタイル・カンパニー)を設立し、主に、
香辛料や珈琲などの食品や雑貨の卸商として、
東部の発展した地域にある会社から製品を買い、
中西部の新しい会社に卸す商売を展開しだします。

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その後、自社の名前を配した製品や(今でいう所のオリジナル商品)、
製粉、製氷の会社も設立し、
1898年、49歳の時には、
リーカンパニーの食品部門は北米中西部を制覇するほどの、
大卸業社として成長を遂げていました。

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しかし、全てが万事、順調だったわけではなく、
1903年、54歳の時には、
大火災事故が起こり、この火災で、
金額にして12万5000ドルの工場と、
45万ドル分の在庫を焼失するという被害も受けました。

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しかし、ここでいつまでも引きずっていないのが、
不屈精神のリーです。
彼は事態がある程度、収集するとすぐに、
ビルを新しく2棟建設し、事業の再建に乗り出します。
そしてこれを機会に卸売り業のほか、
仲介業者としての事業も確立していきました。

↑ このあたりの話は、
彼がバーモント州の生まれで、生粋のニューイングランド人なのだなぁ~と、
ハラダは舌を巻いてしまいましたが、
ニューイングランド人の多く=勤勉、実直、忍耐力が強いなどなど。。。
納得もしましたし、感動さえします。。。

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そして、今から約100年前の1911年、
リーが還暦も越え、62歳の時、
とうとう、リーカンパニー初のワークウェア、
今回、ご紹介している91SBの元祖とも言える、
8オンスのビブ・オーバーオールが製造されたのです。


このオーバーオールが生まれた背景ですが、
当時、仲介業者として、
東部(ニューヨークやデトロイト)
の製造業者からの製品が納期を遅れても届かない事に、
たくさん頭を悩ませていたリーは、
自分の顧客たちのために自らが製品を作ろうと、
1911年のこの年、サリナにワークウェアの第1工場を設立したのです。
最初の製品がこのオーバーオールで、
その後、デニムのジャケットやパンツも製造されていきます。


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1915年、66歳でカンザス州の州都カンザスシティに第2工場を設立。
翌年にはミズーリ州に、第3工場設立、と、発展を遂げていく、
リーのワークウェア。

その後、1920年71歳の時には、自社のミニチュア化した、
ワークウェアを着せたBUDDY LEE DOLLを発表。
(バディ・リー・ドールの事は前にブログでご紹介したので、
よかったら、さかのぼって読んでみてくださいませ~☆)

1925年、76歳で11,5オンス程度の重量でありながら、
13オンスのデニムの強度を誇る、
Jelt Denim(ジェルト・デニム)を開発しました。

このジェルト・デニムが今回、ご紹介している
オーバーオールのマテリアルです☆

そして、この3年後、
1928年、79歳でその生涯をカンザス州のサリナで終えたリー。
当時の社員数は5000人にのぼったそうです。

リー逝去後のリーカンパニーの成長は、
また機会がある時にご紹介したいと思います。

また、何日かしたら、
今度は同じ時代の頃のキャントバステムのOAデッド(大戦モデル)を、
ご紹介する予定でいます~☆


今日のハラダの格好は、
上が
60sのチャンピオン染込みTee、50sプリントネル
50sごま塩カーディガン、20~30sリネンストール
ごま塩カーディガンにつけているアルファベットブローチは推定40s製の
ルーサイト(アクリルの古いもの)のブローチです。

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ボトムはフランス製の推定1880年~90年製の、
キャリコのロングドレスを腰で巻いています。
ブーツはレッドウィングの60s製プル・オン・ブーツです。

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今朝のごまとむぎ ↓
なかなか可愛い猫達だなぁ~と飼い主の良く目で、
思ったりしています~(笑)

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