That Way About Things
ハラダユウコ
Archive&Style Shop Press
1971年2月東京生まれ。アメリカ、ヨーロッパを中心に幅広いジャンルと年代からバイイングされたUSEDやデッドストックを扱う古着屋「アーカイブ&スタイル」のショッププレスとして、古物をこよなく愛する日々を送っています。
www.archiveandstyle.com
-
-
- 2013年
- 2012年
- 2011年
- 2010年
- 2009年
- 2008年
-
-
ウィーン分離派・グスタフ・クリムトの話などなど。。。。
2010.02.11
フイナムブログをご覧の皆様こんにちは♪
また、寒さが逆戻りしてますが。。。
少しづつ薄手の物も店頭に出しつつ営業していますハラダです~☆
明日、また新しい商品ちょっとアップするので、
今日は、プライベートの写真などなど、
いろいろまとめてアップしておきまぁ~す☆
昨日の夜、自宅にてシェリー酒片手に読んでいた本は、
「薬草、毒草300」なんて、なんとも。。。な本なんですが(苦笑)
↑渋い本が好きなんです。
それより、
一昨日読んでいた画家のクリムトの話が面白かったので、
そちらを粗筋だけ、かいつまんでご紹介しつつ、
ここ最近の花やスタイルの写真いろいろアップいたします~♪
暇な方だけ読んでってくださぁ~~~い☆
(ピンクの花は特に好きです。チューリップとラナンキュラスなどなど。。。。)
グスタフ・クリムト(1862~1918)
は、ウィーン近郊生まれ、ウィーン工芸学校に学び、
若い頃から装飾画を描いて名声を得た、
19世紀末を代表する画家です。
ウィーンの町並みは、ドナウ運河のほとり、
通称「リング沿線」と呼ばれる、
ちょうど、山手線を小規模にした様な、
ウィーンの旧市街を囲むリング通りに沿った環状線に40分あまり、
乗って1周すれば、
ハプスブルグ帝国期に建てられた建物のシルエットを眺める事ができるのです。
歌劇場、ウィーン大学、市庁舎、国会議事堂、ブルグ劇場、
王宮、自然博物館、美術史館などなど。。。。
ウィーンを代表する建造物のほとんどが、
リング沿線に集まっているんですよ~☆
(ごまの顔を前足で挟むぎ。かわいいです。(笑))
で、「接吻」を描いた、
グスタフ・クリムトは、
1857年に建設の始まった、
このリング通りに次々に建てられた
建造物の天井画や装飾画を手がけ、
ウィーンの繁栄を担う芸術家として名声をほしいままにして、
若くから成功を収めたわけです。
↑ 「ダナエ」 1907~08
クリムトの絵は、
官能を大胆に描きながら、
不思議にみだらさを感じさせないと。。。
それは、快楽の裏に「死」のイメージが滲んでいるからだと人々は言います。
この「接吻」でも、
愛情に浸る女性のつま先で花園は途切れ、
その先は金色の奈落が描かれています。
↑ 「接吻」1907~08
それは、
この当時のウィーンが置かれた現実そのものだったらしいのです。
ウィーンは華やかな繁栄の裏で、
死の病に犯されていました。
繁栄の中心になったリング通りの内側=(通称リングの中)では、
毎夜、舞踏会が開かれ、優雅なワルツの調べが響いていましたが、
リング通りの外側=(リングの外)には、
貧民が溢れ、橋のたもとや路上で生活している人が殆どでした。
(髪の色がまたバージョンアップしました。
ダブルピース!!は前回もお願いしたのラグゼの太田氏です~~☆)
リングは、
いわば、没落から「夢の都」を守る城砦だったと言えます。
クリムトが、
リングの中で、きらびやかな絵を描いていた頃、
ふたりの若い画学生が、
ほぼ同じ時期にウィーンの美術学校を受験しました。
ふたりはリングの外に住み、
ウィーンの退廃と没落をまのあたりにしながら、
画家を志していました。
ひとりは合格し、やがてクリムトを師とし、
ウィーン世紀末を代表する画家に成長します。
若者の名はエゴン・シーレといいました。
シーレの師であるクリムトは、
女性を多く描き官能の画家として、
名を馳せましたが、
クリムトの官能画が浮世絵から大きく影響を受けていたのは、
有名な話で、彼は春画のコレクターでもあったのです。
(冷蔵庫の上にやっと、バイヤー堀江稔昌氏(一部では師範と呼ばれています彼(笑))に、
正月に頂いたオーブンレンジをセットしてみました。本当はこれダメな設置?!ですか???!)
ウィーンのリング建設期は、
ちょうど日本で言えば江戸時代にあたり、
日本でもウィーンでも社会が安定すると文化が繁栄するのは一緒で、
芸術がエロティズムに向かうことを、
人々も寛容に受け入れる余裕があるのですね。
しかし、社会情勢が不穏になってくるとともに、
クリムトへの評価状況も変化していきます。
(先日、行きつけの古本屋「十二月文庫」で、
思い切って買った6000円の
ケイト・グリナーウェイの画集←そんなに高くないですが、
いつも何百円単位の古本ばかり購入しているので。。。
美しい本です。こ~ゆ~本は宝物です~♪)
この頃、リングの近くに住んでいた、
心理学者のフロイトは、
性の衝動という精神の暗部を自身の研究で暴き、
ウィーンの市民に激しく非難されました。
これがきっかけとなり、
クリムトも
ウィーン大学の壁画に、
裸の妊婦や裸婦を描いたことにより、
大学教授や右翼勢力から攻撃され
その後は、
自ら、公的な仕事を絶ち、アトリエに引きこもりました。
(うちのディレクター坂田真彦氏から頂いたSOPHNET.ソフさんの今期のノベルティです~☆
ソフさんがPILOT(パイロット)にオーダーして作った物で、
先のラバーで擦ると、書いた文字が消せる優れものなのですよ~☆)
↑ 「死と少女」 エゴン・シーレ 1915
弟子のシーレは、
リングの外に広がる荒廃と闇を見て育った、
いわゆるリングから締め出された世代で、
貧しい労働者地区で浮浪者たちをモデルに絵を描いてきました。
そんなシーレの絵は、
一目見たら忘れることのできない、
強烈で赤裸々な印象を残します。
それは、虚飾を容赦なくはぎとった後に
ひっそりと浮かび上がってくる様な静かな官能を感じるからかもしれません。
このシーレの作品に出会い、
それを後押しするともに、自分の作品とは対極的な
シーレの画風に自分の限界を超える、
強烈な才気をみて、認めたのがクリムトなのです。
(2月8日のスタイルです。ハーフブーツは60年代のレッドウィングの物)↑↓
(この日は、1800年代のシルクオーガンジーのドレスに、
20年代のシルク刺繍ブラウスやコットンレースのジャボットなどなど重ねて着ています。
取材にいらした編集の方に、絵本の中に住んでそう。。。(笑)と評されました。)
では、このエゴン・シーレに対して、
もうひとりの若者はどうだったのでしょうか?
その若者はシーレの、
一歳年長で、ウィーン美術アカデミーをシーレが合格した翌年と、
その次の年に受験しましたが、いずれも不合格でした。
受験の為に少年期を過ごしたリンツから、
ウィーンに出てきたのですが、
2度の試験に失敗し、後に、
深い恨みを抱いてウィーンを後にします。
(1930年代のベークライトとウッドビーズのブローチ。
下のCDはアメリカやヨーロッパの民謡歌集です。
スコットランド民謡である蛍の光などなど、
お馴染みの曲が満載です♪)
その彼、アドルフ・ヒトラーが、
野望を打ち砕かれたリング通りに、
再び現れたのは第2次世界大戦さなかの
1938年のことです。
もちろん、画家としてではなく、
有力な支配者としてユダヤ人を一掃するためです。
ウィーンのリングの外での、
悲惨な人々の生活状況や、
汚泥の中に浮浪者が住み着いている光景が、
若いヒトラーの目に焼きつき、
ウィーンを憎悪した彼に、
その腐敗の根源にユダヤ人がいると妄信させたのだと。。。
彼を知る人々はいいます。。
(画像が暗くて見えにくいのですが、今、一番欲しいレコードです。John Kirkpatrick & Sue Harris
・ジョンカークパトリック&スーハリスどこか中古レコード店で見かけた方は是非☆
ハラダまで情報をご提供くださいませ~~~~(笑)♪)
若い頃の、
シーレとヒトラーは、
ウィーンでそれぞれ、
6箇所、いずれもリングの外に移り住んでいます。
ふたりの転居の住所を辿ると、
わずか300メートルしか離れていない距離に住んでいたこともあり、
交友関係なく終わった彼らの人生の意外な接点に、
不思議な感情が湧きました。
ふたりはもしかしたら、同じ通りですれ違い、
視線を交わした事があったかもしれません。。。
(2月9日のスタイル ↑ ↓ 早々にバレンタインのプレゼントを友人に渡したため、
この日はバレンタイン・スタイル(笑)チャーリー・ブラウンのスウェットもハートだらけです。
靴は先日ブログにも載せた、お隣で購入したハイパーなスニーカーです。)
(上に着ているコンディションがいまいちですが。。。な
ブルゾンのリブには当時のクリーニング店のタグがついたまま。
こんなオマケは素朴で気に入っています。)
↑ ヒトラーが美術アカデミーの試験に提出して退けられた水彩画。
「リング風景」 1907
不思議にも100年以上前に、
ヒトラーによって描かれたこのリングの風景は、
現代のリングの光景と少しも変わっていないそうです。
(昨夜は仕事終わりに常連さんと、冷たい小雨の降る中。。。
知る人ぞ知る、塾長のお店。
隠れ家的ヴィンテージショップSpec`s(スペックス)さんへ
お邪魔してきました~☆)
(わたしがかなり気になった、デッド&ディランのTeeシャツ☆☆☆もち、売り物です♪
塾長いわく、あまり売りたくないそうですが。。。(笑)←すごく共感。)
「もし、ヒトラーが美術アカデミーに合格していたら、
第2次世界大戦は起きなかったかもしれない。。。」
と考える人たちがウィーンにはたくさん居ます。
起きた歴史をもし?と考えるのは無意味かもしれませんが。。。
感情としては、分かる気がします。。。。
その後シーレは、
スペイン風邪にかかり、
ヒトラーが権力を握るずっと前の、
1918年、師のクリムトが亡くなった同年に、
28歳の若さで亡くなります。
この1918年に、
第1次世界大戦は終結し、
600年以上の歴史を誇った
巨大な帝国ハプスブルグ家は崩壊し、
領土も分断され、5千万人いたウィーンの人口は7百万人にまで激減したのです。
(昨日のスタイル↑ ↓ 50sのサーキュラススカートに、
上はヴィクトリアンブラウス、プラダのカーディガン。
ジャケットはうちのディレクター坂田真彦氏につい先日、頂いたのです~☆
この間のブログに取り上げたスコットランドのハイランドジャケットの、
子どもサイズです~~~♪るんるんです☆☆☆靴は40sのメンズドレスシューズです☆)
しかし、帝国が崩壊し、
2度の大戦と占領期を経た後。。。
それが、すべて幻だったかのように。。。
ウィーンは、今でも、
年末から舞踏会の季節が始まり、大晦日の晩には、
街のあちこちで「美しき青きドナウ」がかかり、
人々は優雅にワルツを踊り続け、
街は美しくノスタルジックで優雅な佇まいを残しています。
それが、この街をわが町にしようとしたヒトラーに対する、
「夢の都」の誇りだとウィーン市民は言うそうです。
(今日のスタイルです。マリファナの素敵ング~♪なTeeシャツは、
昨夜、塾長のお店で購入させていただきました~♪☆☆☆
モヘアカーディガンはカートっぽくて気に入ってます。
スニーカーは、わたしが密かにスタイルアイコンとして尊敬する(笑)、
ビームスプラスの藤居豊造氏にお下がりで頂いたものです。)
以上で~す☆
今日はほんと、なが~~~いブログでした~(笑)
読んでくださった方、お疲れ様です~☆
明日は、
新しい商品アップしますね~~~☆
では~皆様、寒い夜、風邪を引かないように気をつけてくださぁ~~~い☆
※コメントは承認されるまで公開されません。