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シガアキオスタイリスト97年、まだ若く鬼のように恐ろしかった蔡社長とメッケ隊の元、ハッスル(現ライノ)でアシスタント兼なんでも屋(人殺し以外)として過ごす。99年、約 1年半という業界では伝説のスピードで独立。06年、仏のようなスタイリスト古田氏らと共にチェルシーフィルムズ創設に携わる。しかし、根っからのB型の 故、集団生活は無理だとわかり、10年、office sixsenseを立ち上げソロ活動に入る。72年7月4日生まれ。現在2児のパパ。

シックスセンス

シガアキオ
スタイリスト

97年、まだ若く鬼のように恐ろしかった蔡社長とメッケ隊の元、ハッスル(現ライノ)でアシスタント兼なんでも屋(人殺し以外)として過ごす。99年、約 1年半という業界では伝説のスピードで独立。06年、仏のようなスタイリスト古田氏らと共にチェルシーフィルムズ創設に携わる。しかし、根っからのB型の 故、集団生活は無理だとわかり、10年、office sixsenseを立ち上げソロ活動に入る。72年7月4日生まれ。現在2児のパパ。

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アルジャーノンに花束を。

2011.06.29

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 日曜日、いとこの結婚式があった。母の妹んとこの娘でヨーコちゃんというが、ヨーコちゃんは美人だ。後藤久美子似でたぶん親戚イチのべっぴんさん。従妹という関係なら法律的に「ギリイケる」と中学生の頃ちょっと考えたりもした。そんな彼女がついにお嫁に行った。

 ヨーコちゃんにはヒロシくんという弟がひとりいる。ヒロシくんは知的障害があって見た目は大人だが心はずっと6歳くらいの少年のままだ。やさしいヤツでたまに僕にドラゴンボールの悟空の写メを送ってくれたりする。ふだんは障害者を集めた施設でゴミの選別をする仕事をしている。ヨーコちゃんの親父も腕のいい大工だったが数年前から脳が萎縮する病気でだんだん体が動かなくなり、最近じゃ杖で歩くのがやっと、口の呂律もまわらなくなってきた。そういう新婦家族との結婚。

 結婚てなにか考えると互いの家族との結びつきくらいだ。憧れるほどロマンチックでもなく、さらにそういう家族と一緒になる覚悟の新郎の男前ぶり。十割増して見えた。

 そういえば僕らが沖縄で式を挙げる前の晩、ヒロシくんからメールがあった。今日の仕事はあーでこーで、がんばったよ、というだけの内容。でも誰からの祝いの電報やメールより嬉しくて泣けた。彼なりのなにかメッセージが伝わったからかもしれない。


話はかわり、先日書棚を整理すると未読の本がけっこうあった。その中の一冊「日本一醜い 親への手紙」。タイトル通り一般から募った親への恨み辛みの手紙から編集されたものらしいが、発行97年と古く買った記憶すらない。下手な文章と、親から受けた虐待やレイプ体験が生々しく、二、三読んで堪らずやめた。ただ町田康氏のあとがきがおもしろかったのでそれを起してみる。


「すべての家族は異常である。」 町田 康

 普通の家庭、なんてなことをいうが、いったいなにをもって普通の家庭というのであろうか。疑問である。

 家庭を構成するのはこれ家族である。じゃあ、その家族の本然はいったいなにかといえば、それは人間なのであって、二十年くらい前から家庭内暴力、なんてな言葉が新聞、テレビ、雑誌などでよく紹介されてるが、その言葉が刺激的に感じられたのは、家庭内で暴力を振るうなんて、という驚きがそこにあったからだと思われるが、いま考えてみれば、これは珍しくもなんともないことであって、なんとなれば、家庭が人間によって構成される以上、そこでは人間の振るまいが当然、これ行われるわけで、じゃあ人間の振るまいとはなにかといえば、それはセックスであり、暴力であり、殺人である。

 つまり、そういうことはやってはいけない、といま当たり前のようにいわれていることは、人間が、初手からそういう悪いことをしないようにデザインされていたのではなくして、昔の偉い人がそういうことはやってはいかんのだよ、と、考えて決めたことで、わたしはそういう偉い人達を尊敬しているが、逆に考えると、なんで偉い人がそんなことを考えなければならなかったかというと、好きにさせておけば人間はそういうことをするからであって、それは必要があったからそういう教えを拵えたわけである。

 だから、普通、人殺しはせんだろう、とか言っても、その普通というものが、そもそも拵えごとであるのだから、普通はするのだけれども、知恵や教育で無理矢理にしないことにしてるんですよ、普通は。ということになってしまい、だから本書に寄せられた数々の親への手紙も、一読して驚愕したものもあれば、そうだ分かる分かる、と納得したものもあるが、殆どの人は、自分は、自分の家庭は普通ではなかった、と訴えているが、つい、じゃあ、普通の家庭などというものが、果たしてこの世にあるのだろうか、という奇妙な考えがわたしの頭に浮かぶのである。

 で、人は、普通の家庭というものに対して、いったいどういうことをイメージするのだろうか、と考えてみると、例えば、父親はサラリーマン、家はローン支払い中の一戸建て、玄関先に鉢植えが置いてあって、息子は浪人中、娘は私立中学に通っている。というようなことしか、思い浮かばぬのであって、これではなにもイメージできていないのと同じことである。だから、こういうことはすべて外見的なことであって、一歩家の中に入れば、いくら玄関先に鉢植えを植えても、父親はギャンブルにのめり込み、子供を性的に虐待し、やることなすこと冷笑的な態度で接し、気に入らなければ殴るのであり、母親は、外に愛人を拵え、子供に過剰に干渉し、息子はパンクロッカーに成り下がって、娘は売春で稼いでいる、ということがないとは言い切れぬのであって、こういう外見的のことはなんらの保証にもなり得ぬのである。

 じゃあ、そうでない、一家団欒が大事なのだから、たとえ貧しくとも、みんなで飯を食う、これが大事。さあ、みんな集まって飯を食おう。と父親が呼びかける。ところが母には母の都合があるし、子供にだって子供社会の付き合いや宿題などがある、ちょっといま忙しいから後にしてくれる、と言って、なかなか団欒に来ない。

 そうなると父親にも意地があるから、なにを吐かしやがる。忙しいだと? ふざけるな、馬鹿野郎、俺が毎日、会社でいったいどんな思いをしているのか知っているか? その俺が団欒をしようと言ってやっているのだ。だいたいてめぇら親に向かって口答えするとはいったいどういう了見だ。ふざけるにもほどがある。もうこうなったら俺は意地ずくでも団欒をする、と宣言して、家族の襟首を掴んで無理矢理に食卓の前に座らせ、それから鍋物かなんかを食べるのだけれども、こんな気まずい一家団欒はない。気まずさに耐えられなくなり箸を置いて立ち上がった娘に、父親は、逃げるのかあっ、かなんか怒鳴って殴る蹴るの暴行。とどのつまりは、娘は売春。ということにならぬとは限らぬのであって、結局、この世の中に普通の家庭などなく、すべての家庭は異常であるということになってしまう。

 いったい、なぜこんなことになってしまったのであろうか、或いは、なってしまったのではなくて、家庭というものはそもそも昔から、そう、大体いまから五十年前、日本が戦争に負けるより以前は、法律の縛りもあって普通の家庭もあったのであろうか、というと、それはあっただろう、だって、家庭というものがいまのように経済的な意味での世間や国家と、相対立するものではなかったのだからね。

 つまりいまは、家族を大事にするのはアメリカ人。日本の男は会社人間で家庭を顧みないから駄目だ。そろそろ日本もゆとりをもって、晩飯をみんなで一緒に食おう、なんてことを言って、先程のような悲劇がおきているわけだが、その当時は違ったと思う。だって、大日本帝国の臣民はみなこれ天皇陛下の赤子なのであって、日本全体が家庭、ってことに一応これなっていたから、その家庭が異常ということは国全体が異常ということになってしまい、それではやっぱりまずいから、ここから先は推測だけれども、みんな頑張って個人の事情をあまり強く主張せずに、それでもなにか問題を起こす奴が出てきた場合は、隣近所が一致団結して問題解決の支援をしたのだろうし、つまりだから、いまほど問題が表面化しなかったんだろうと思う。

   < 中略 >

 そういえば、今年の夏のとても暑い日、駅のホームでベンチに座って電車が来るのを待っていたら、後ろの席で、母親に連れられた五歳くらいの女の子供が楽しそうにあやとりをして遊んでいた。やあ、子供があやとりをしている、くらいの気持ちでいると、突然、「そうじゃないでしょう」というヒステリックな金切り声がして、驚いて見ると、母親はあやとりの手順を間違えた子供に怒り狂い、「そうじゃないでしょう。こうやるんでしょう」と手順を説明し、それでも子供は無表情に橋かなんかを作っていたが、とうとう母親はあやとりの紐をひったくり、「もういい加減にしてよ。なんてことするのよ」と叫んだ。なんてこともなにもない。子供はただあやとりをして遊んでいただけである。わたしは悲惨なことだと思ったが、そのまま電車を待っていた。うう。

 とまあそういった見解であり、感じることはほとんど同じだった。さすが元パンクロッカー。小説は一度も読んだことがないけど。時間がないので次回この続きのようなことをかきます。

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