ムーミンについて考えた(前編)
2012.05.01
朝、テレビをつけたらムーミンをやっていた。
子どものころ観ていたのは『天才バカボン』っぽい質感の絵だったが、今やってるのはヨーロッパの古い絵本みたいだ。絵の、とくに背景のあちこち細い斜線がバーっと入っていて、陰影が表現されている。
なんか暑苦しいなあ、とおれは思った。べつにバカボンタッチに思い入れはないが、あのくらいペラペラな絵がムーミンにはちょうどいいんじゃないかなあ、と。
ムーミンって、おれにとってはちょっとヘンなアニメだった。
舞台は見慣れないヨーロッパっぽい感じ(ムーミンの家のウロコみたいな壁がちょっとコワかった!)だし、「カバです」って言ってくれれば早いのに「全員妖精」だとか言い張るし。お話の内容も勧善懲悪でなく、道徳的でなく、冒険活劇でもない。
むやみにムーミンがショボーンとなって終わるケースも少なくなかったし、それまでおれが観ていたアニメでなら"信頼できるパイセン"的な役割を担うはずの男・スナフキンも、手放しで「カッコイイ!」とは言いきれないし。どころかむしろ、ムーミン谷の大人たちとは相容れない、社会性の欠如した男として描かれたりするし。
今でこそ"悩めるヒーロー像"は理解できる(と、同時に結構食傷気味だ)が、そんなもん昭和40年代のアホ小学男子(おれのことだ)に、どうやって共感せえっちゅうねん!
で、極めつけがムーミンの声だ。岸田今日子なんだもの。どう聞いてもおばさんの声なんだもの。彼女はスナフキン以上に、アニメにおける定石を破ってくれたのだ。
観ていて面白かったし結構好きだったけど、手放しで楽しめないザラッとした感触があって、それも込みでおれはムーミンというアニメを認識していたのだと思う。
だからせめて絵は、単純なバカボンタッチの方がいいんじゃないかなあ、と。徒然なるままに考えつつ、画面を眺めていたのだった。
ムーミンの声は岸田今日子ではなかった。ちゃんと少年っぽい声でしゃべっている。ええと、これはですね、ええとアレだ。名探偵コナン。カンガルーみたいな茶色いヤツ----たしか......スニフ! こいつの声はばいきんまん。
やっぱりなんか違うわけです。
フィンランドやらトーベ・ヤンソンのことをすでに知ったおっさんが「前のとは違うぜ」と思いながら観ているのだから、当然といえば当然かもしれないけれど、ザラッとした感じがない。まあ、おれの観ていたころから三十何年も経っているわけだし......。
ムーミンはスナフキンたちと旅に出る。ノンノン(フローレンと呼ばれていた)とミィとスニフが一緒だ。
ううむ......スナフキンよ!
「荷物は持ったかい」
「ここで休もう」
「危険だから竹馬を使うよ」
って!
なぜそんなにもやたらと親切にムーミンたちの世話を焼くのだ。
しかも、そんなにも甘くて気取った声で。
それで夜にはたき火を囲んでギターを弾いたりしているのである。この作品におけるスナフキンは、かつての社会に適合できないアウトローではなく、すっかりペンションのバイトのおにいさんと化していた。しかも、女性客にちょっとモテようとしているタイプの。
違うぞ、スナフキン! 何をやっているんだ、スナフキン!
唸っていると、妻に問われた。
「じゃあ、誰がスナフキンならいいのよ?」
そうそう、これ、フツーの休日の朝の我が家のリビングでのできごとである。愛らしく賢い子どもたちはトーストをかじっている。
「誰って......その......、ええとその......オダギリジョーとか?」
「じゃあ、ムーミンは?」
ムーミンか......。
好奇心旺盛で一本気だけどナイーブで、思い込んだらグングンそっちの方に進んでしまう。で、ときおり大きく間違う。間違いを認めることもあるけど、子どもなりのハンパな論理をタテにキレたりもする。でありつつ、ムーミンパパのアカデミズムみたいなものを受け継いでるところもある。
うーむ。誰が演るといいかなあ........................。
このときすでにおれの脳内では、ムーミン実写化に向けてのキャスティングが始まりつつあったのだった。発作的に「スナフキン=オダギリジョー」と答えたイキオイもあったが、わが家ではときどき、大喜利のように、こうした「全然ないプロジェクト」のキャスティング会議が開かれるのだ。
つづく。
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