―ナショナルがない人はインターナショナルにはなれないと思う (上野)

中井:話は変わるんですが、伸平くんは2005年に『BRANDNEW CLASSIX』、2006年に『FINDERSCREEPARES』、2007年に『DIALOGUE BETWEEN INSIDERS』と立て続けに映像を世に送り出しましたよね。このスピード感に意図はあったんですか?
上野:意図なんかないよ。スケートボードしかすることなかったから。
中井:アパレルを出し始めたはその後でしたっけ?
上野:ファーストは『BRANDNEW CLASSIX』と同時に出した。TBって入った縦長のステンシルロゴのグラフィックのやつな。いまでもその頃のカタログあるけど、商品説明とかやばかったで。L/S TEEの説明が’『これはロングスリーブになります』みたいな(笑)。見たら分かるやろって(笑)
中井:(笑)。これでメシを食うって決意したのもこの頃ですか?
上野:いや、昔からスケートボードで食っていくっていうのは強く思ってたけど、まぁ無理やろなって思ってた。
中井:けど、どこか会社に就職した事ないでしょ?
上野:ないな。ちゃんと働いたのは〈シュプリーム〉くらいかな。
中井:いや、全然ちゃんとやってなかったで(笑)
上野:色々あったな(笑)
中井:色々ありました(笑)。 話を戻して、その後『LENZ』の頃から世界に向けて、みたいなことを言ってましたよね。

上野:やっぱ俺はFESNの森田さん(森田貴弘)から学んだ「JAPANESE SKATEBOARDING」というのがでかいと思う。日本人ならではのスポットに対するアプローチやトリックチョイス、映像表現からBGMのあり方まで。そのクリエイティブで世界に挑む精神性にとにかくやられたもんな。あの頃はみんなが海外の流れに一方的に流されるだけで、日本人独自のスケートボーディングなんて誰も考えてもなかったから目が覚めた感じ。その時に俺も絶対にこれでやっていくぞって意気込んだな。
中井:その頃、伸平くんはブログ書いてましたよね。自国を誇る事と海外を愛する事のメンタリティーについて的な。あのブログのイメージが、森田さんの示すスタイルと似ていたとぼくは思ってます。
上野:そうそう。あの時ブログに書いてた事がいわゆるナショナリズムな部分で、あの頃はSNSなんてなかったから自分の思いや考えの発信はブログやったからな。
中井:あのブログに書いてあった事が叶っていった10年だったのかなと見てます。
上野:確かにそうかも。いま振り返ると若いなって思うし、間違ってた事もあったけど、あの頃の“ナショナリズム”は間違いなく自分をレベルアップさせたと思ってる。
中井:やっぱりスケボーを通して生まれた経験によって、伸平君のアイデンティティやナショナリズムは生み出されてきたんですね。
上野:そう。そしてナショナルがない人はインターナショナルになれないと思う。
中井:そういう話を先輩がフラッと現れて、〈シュプリーム〉のレジカウンター越しに話すから、あの頃の俺としては雷が落ちたような感覚でしたね。分かるまでに時間がかかったけど。時間がかかったというと『ER MAGAZINE』の凄さを気づくのにも時間がかかった。表現手法はZINEに近い発想で、その動機が自分達とその仲間をレプリゼントするということ。凄みを感じました。気に入ったメディアがないから自分でつくってしまえ、みたいな。
上野:映像をリリースするスピードも含めみんなそう言ってくれる事が多いんやけど、実際は普通にやってただけやねんな。自分達からするとほんまにそれをする事だけが生きがいやったから。当時は本当に金もなかったし、スケートボードと作品作りしか興味なかった。1本映像が出来たら次はもっと良くしたい、その次は更にって気持ちだけでやってたから。

中井:そこから業界ではどんどんレアな存在になっていきますよね。必然的に目立ち、自然と唯一無二になっていった。それはスピード感によるものだったと思うんですよね。いい感じのスケートビデオをリリースする人や、いい感じの服をつくる人達はいたと思うんですが、テンポ良く映像をリリースしながらアパレルも同時につくって、ERで周りの仲間達を引き上げようっていう想いを形にしつつ、更に「SHRED」(*〈タイトブース〉直営のスケートショップ)をつくるっていうのは偉業だと思う。そのスピードでスケートも他のこともしてたんだから、相当な仕事量が伸平君にのしかかってたはずですよね。
上野:いやーキツかったよ、全部やってたから。撮影、編集、企画からデザイン、打ち合わせや指示、なんやったらタグ付けて畳んでそれを買ってくれるお店に営業までやってた。商品につけるプライスシールまで自分たちで印刷してたし。
中井:そうなってくるとスピード感という面で辻褄が合わない。寝てました?って感じで。
上野:あの頃は毎日3時4時までやってたもん。タグ付けを仲間に手伝ってもらったりもしてたな。
中井::そのおかげで、当時から既にかなり名の知れた存在でしたよね。スケボーで上がっていっていた時期にアパレルの仕事もしっかりこなしてきた分、両方の分野で完全に抜け切っていた、とぼくは見ていました。ぼくはよく伸平くんにお前は遊び過ぎやー言われてたな。
上野:時間かけたかなー。若い頃は他のみんな超遊ぶやんって思ってた。
中井:パーティーとかするようになったのも『LENZ』出した後くらいからですよね。〈タイトブース〉の最初の印象は酒を飲まない、パーティしないイメージだった。音楽は好きだからクラブのフロアにはいるけど、ダラダラ遊ばず聞きたいの聞いたらスケボー行くみたいな。酒飲んでないから車で動けるし。
上野:お前らが遊んでる間におれは弾込めてるから、そのうち全員撃ち殺すって思ってたな(笑)。苦労話にはしたくないけど、あの頃の野心とかエネルギーがあったからいまがあるって本気で思う。

中井:で、カツミ君(南勝巳:EVISEN SKATEBOARDS)と一緒にKINARI INCを興して更に加速するわけですよね。
上野:かっちゃんは同じバイブスを持ってた。ここからもっと上へ行くには強い仲間が必要やった。RPGと同じ感覚やん。そこにマル君(丸山晋太郎:「BRIDGE」オーナー、EVISENライダー)も入ってはじまったのがEVISEN。
中井:何か男の子っぽくていいな。
上野:やっぱり根本的に自分達で何かをつくり出す事に憧れがあって、俺らは1を10にするより0を1にする仕事がしたかったから、その為に集まった仲間やと思ってる。けど宗太も、少なからずそれを見てたから自分でやり出したやん。
中井::そうですね、近くで伸平君たちを見てたから、自分のスタイル育てて信じれば飯食っていけると自然と信じられた。これがまず大きいと自分でも思います。いまぼくらが朝起きて、好きな事を仕事としてそこに向かえているのは、身近にそういったアティチュードを見れてたからかなと。
上野:昔は、いきがってはいるけど「じゃあそれでどうやってメシ食ってくの?」って言われたら、何も言い返せへんかったな。けどそれより情熱が勝ってた。例えば一個作品をつくって10万円売り上げたとして、次つくると売り上げが30万円になって……とか、そういった小さい積み重ねで自分達は着実に成長してると感じてたから、それだけで結構満足してたな。
中井:それをずっと続けていまの形になったわけですもんね。
上野:そう。だからやっている事はいまも全然変わらない。スケボーして映像つくって服つくって。

中井:当時の西日本のいろんなスケートショップに伸平君のサインがありましたね。
上野:そんなにあったっけ? まあ自分でつくったアパレルサンプルを撮影機材と一緒にクルマに積んで、地方回ってショップに頭下げて服見てもらって、オーダー付けてもらって、彼らと撮影行ってパーティーして、みたいな事が、あの頃の全てやったな。
中井:その撮影で〈タイトブース〉の服着て滑るわけですもんね。それってこれ以上ない最高の展示会ですよね。営業とスケートの撮影を兼ねて行くから、一緒にスポットを回ったローカルとかショップオーナーにアパレルの営業するときにはもうファンになってるみたいな。
上野:そういう事をずーっとしてた。けど超楽しかったな。毎日幸せやった。金がないからホテルに泊まれず漫画喫茶に泊まったり、ローカルの家に泊めてもらったり。だから車には常に寝袋が5個くらい積んであったな。
中井:伸平君って自分がどんどん進むことで仲間や下の世代に道をつくっているように思うんですよ。いわば赤レンジャー的なポジション。赤レンジャーは人の道つくってるとか考えないでしょう? とりあえずどんどん行くみたいな。
上野:本当に好きなスケートボードを仲間と続けていくという信念は誰よりもあったな。
中井:いまはスケールも知名度もフェーズも変わっていますがこれからどうしたいんですか?
上野:これまでと同じように一段一段階段を登りたい。このまま階段を登り続けて、いつか地元に大理石のスケートパークを寄与する事ができたら、そこが俺のスケート人生の最終着陸地点やな(笑)