自然が強くて、やりたい放題できるところがよかったんです。
ところで、瀬木さんはなぜ鎌倉と長野の二拠点生活となったのでしょうか。そして、どうして蒸留家を目指すことになったのでしょうか。
―生まれ育った鎌倉との二拠点生活になったきっかけはあるんですか?
瀬木:ずっと前から日本じゃなきゃいけない、みたいな意識は全くなくて、人と人が繋がっていれば国境は関係ないと思っていたんですけど、コロナ禍で国境の大きな壁みたいな存在を感じたし、やっぱり自分は日本人なんだなっていうアイデンティティが芽生えたんです。日本人であることは絶対に覆せないんだと。そのときに二つ拠点があった方が動きやすいなと思ったんです。
―長野を選んだ理由はあるんですか?
瀬木:長野にはよく来ていて、お世話になっている人の家がある野尻湖に遊びに来ているなかで、この辺は住めるなと思っていたんです。あとコロナ禍で家にいることが多くなったときに、鎌倉の家の裏山を切り開いてセルフビルドしているのが楽しかったんです。鎌倉だと広さに限界があったので、長野ならもっと広いスペースでそれができるっていうのはありましたね。自然が強くてやりたい放題できるところがよかったんです。
ーこの場所はどうやって出合ったんですか?
瀬木:まずは家を見つけたんです。この蒸溜所から車で5分くらいのところなんですけど、その家を内見した日に物件が気に入りすぎて、興奮して1日3回家主のおばあちゃんに会いに行きました(笑)。水がいい土地っていうのが決め手でしたね。
―そのときはまだ蒸溜所のことは考えていなかったんですね。
瀬木:いや、蒸溜所のことはうっすらと考え始めていました。だから水がいい土地に住もうっていうのが頭にあったんです。当時はコロナ禍でお店が営業できなかったので、鎌倉の〈ヨロッコビール(Yorocco Beer)〉の吉瀬明生くんが友人だったこともあって、よく手伝いをさせてもらっていたんです。そのときに明生くんから「醸造よりも蒸溜はもう少しやりやすいかもよ」とアドバイスをもらい、やってみようかなと思いました。ずっと自分で酒を作るっていう行為に興味があったんです。
―修業的なことはしたんですか?
瀬木:いくつかの酒造メーカーで手伝いをさせてもらいましたが、基本的には独学ですね。大工仕事もそうですけど、昔からなんでも自分でやってきた経験が花開いたのかもしれません。このエクストリームな環境にいきなり来て、人に頼んでいたらお金もかかりますしね。自分でやればどうにかなりますから。
―自宅のリフォームや家具もDIYなんですね。
瀬木:20代の頃に鎌倉で公園管理の仕事をしていてチェーンソーの扱いなどを学びました。あと自分は、逗子で 10 年以上続いていて逗子海岸映画祭を運営している「シネマキャラバン(Cinema Caravan)」のメンバーでもあるんですが、その活動での経験が大きいですね。巨大なテントや小屋や什器など、日本各地や海外でなんでも自分たちで作ってきましたから。