PROFILE
ヴィンテージショップ「ベルべルジン(BerBerJin)」オーナー兼バイヤー。多くの古着店が軒を連ねる原宿に1998年にオープン。以来、圧倒的な品揃えと豊富な知識により、ヴィンテージ・シーンを牽引するカリズマショップへと育て上げた古着業界のキーパーソン。いまもなお自らアメリカへ買い付けに行くなど現場主義を貫き続けており、その影響力は日本に留まらず世界にまで及ぶ。
プレハブ小屋に4坪の店を開いた時から、日本でいちばんの古着屋になると決めていた。
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80年代に日本の好事家がヴィンテージデニムの魅力に気づいたのが古着カルチャーの出発点であり、その盛り上がりが一旦ピークに達したのが90年代半ばごろ。そしていま再び、当時を上回る勢いで古着市場全体が盛り上がっています。病める時も健やかなる時も、古着という文化を原宿から定点観測し続けている「ベルベルジン」。その出発点からお話をうかがってみましょう。
―25周年おめでとうございます。まずは山田さんがヴィンテージに目覚めたきっかけから教えてもらえますか?
山田:高校のときに同級生が「古いジーンズは色が違う」って言って501を履いてたのがきっかけですね。当時は現行で〈リーバイス®︎〉の赤耳が売っていたので自分でも買って履いてみたんだけど、確かに友人が履いていたジーンズとは色落ちの感じがまったく違う。それで「メトロゴールド」ですごい縦落ちの66(ロクロク)を1万円しないぐらいで買ったのが、はじめてのヴィンテージ。それから19歳の頃に「フェイクα」でデッドストックの66を5万円ぐらいで買いましたね。
―「フェイクα」はデッドストックの在庫が豊富なことで有名ですもんね。
山田:凄かった。(2005年に)ウチと合併したときも店に置いてある商品以外に、アメリカの倉庫に大量に保管していたから。ただウチと一緒になったときに、そのときの相場に値段を合わせてかなりの量を売っちゃったんだよ……、もったいないことした。いまは当時の5倍や10倍の価値になってるもんね。なんであんなことしたんだろう(笑)。
―最初のお店をいまのとんちゃん通りではなくて「フェイクα」の向かいにオープンしたのも、同店に通っていたことが関係しているんですか?
山田:最初は「フェイクα」の向かいにあったプレハブ小屋に、4坪の店を借りてスタートしました。「フェイクα」のこぼれ客を狙っていたんです。その頃はとんちゃん通りには「ゴリーズ」や「ヴォイス」って有名店があって、プレハブから店を移すときはとんちゃん通りしか考えてなかったですね。
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―当時もいまも原宿は古着の街だと思うのですが、なぜ原宿を選んだのでしょう?
山田:「ベルベルジン」はぼくと古舘(ベルベルジン副社長)のふたりでスタートしたんだけど、最初から日本の古着屋でいちばんになるって決めていたから、日本一の激戦区である原宿しか頭になかったですね。プレハブの頃は水曜からロス(ロサンゼルス)にふたりで買い付けに行って、日曜の夜に店に戻ってきたら、近くの古着屋の店員や「ビームス」のスタッフが10人ぐらい待ち構えてて、荷物を置いた瞬間に漁り出す(笑)。値付け前のを「これいくらっすか?」って聞いてきたりして、フリマみたいなノリだったね。
—お店というよりもローズボウルの開場直後みたいな雰囲気ですね(笑)。
山田:うん。まさにそんな感じ。最初はぼくと古舘が興味のあるデニムやスエットばかり集めてハンドキャリーで持って帰ってたんだけど、とんちゃん通りに移転するときに浅見っていう元「フェイクα」のスタッフが参加してからはレギュラーも扱うようになりましたし、ロス以外の街にも買い付けに行くようになりました。
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―その頃はフリーマーケットやスリフトショップを中心に回ってたんですか?
山田:そうですね。当時はディーラーとも付き合いが無いし、SNSもグーグルなかったから、知らない街に着いたらガソリンスタンドの電話ボックスに入って電話帳の古着屋のページを破って、モーテルで地図と付き合わせて回るルートを決めて……、いまじゃ考えられないよね。
―でも、トレジャーハントみたいで夢がありますよね。よく田舎の農家の納屋に大量のデニムが眠ってて……、みたいなエピソードがありますが、そんな雰囲気というか。
山田:まったく夢はない。無駄な時間だよ(笑)。でも掘り出し話はいまでもあるね。いまロスでイケイケの若者たちが廃墟を回ったりしてるんだけど、彼らはゴミのなかから紺色でステンシルの入ったメチャクチャ良い後付けパーカを掘り出してたよ。