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草彅洋平(東京ピストル)株式会社東京ピストル代表取締役1976年東京生まれ。あらゆるネタに対応、きわめて高い打率で人の会話に出塁することからついたあだ名は「トークのイチロー」。インテリア会社である株式会社イデー退社後、2006年株式会社東京ピストルを設立。ブランディングからプロモーション、紙からWEB媒体まで幅広く手がけるクリエイティブカンパニーの代表として、広告から書籍まで幅広く企画立案等を手がける次世代型編集者として活躍中。www.tokyopistol.com/

トークのイチロー就活日誌

草彅洋平(東京ピストル)
株式会社東京ピストル代表取締役
1976年東京生まれ。あらゆるネタに対応、きわめて高い打率で人の会話に出塁することからついたあだ名は「トークのイチロー」。インテリア会社である株式会社イデー退社後、2006年株式会社東京ピストルを設立。ブランディングからプロモーション、紙からWEB媒体まで幅広く手がけるクリエイティブカンパニーの代表として、広告から書籍まで幅広く企画立案等を手がける次世代型編集者として活躍中。
www.tokyopistol.com/

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未曽有の就職氷河期の到来ですよ!(2)

2011.11.26

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(1)の続きです。

昨年から著しく日本の就職率が下がっていることはすでにマスコミの発表で知られていますが、この流れは世界的に見ても同じような印象です。
例えば何かと話題のギリシアなんて、日本よりももっと劣悪な様子。
イタリアもひどい。この辺りの話はニュースサイトで確認して欲しいのですが、ユーロ圏のみならずアメリカしかりで、もはや若ものは仕事を選ぶ時代ではなく、より好みができない状況となっていると言えるでしょう。
好きな仕事につこうとすると、困難な未来が予測される。
だから公務員や大企業などの固い仕事を人生設計として選ぶのが賢い人なわけです。
しかしながら賢いと呼ばれる人は小さな企業の喜びも苦しみも知らなければ、時代の危機感も薄らいで安穏としてしまいますから、いざというときに小回りがききません。
また年金問題をはじめ、今後若ものにお金がなかなか入らないことは明らかになっていますので、手堅い職に就いたからといっても今後数十年の確実性はないといえるでしょう。
つまり真に賢いかといえば、やや眉唾ものであるということになります。

さて、僕の世代も戦後最悪といわれたバブル崩壊後の就職氷河期でした。
まだニートという言葉もなく、バブル時のフリーターブームの余波もあって、就職活動などしなくても、ゆるゆるやっていけるのではないか、といった甘い意識が蔓延していた不思議な時代です。
だから、いまほど緊迫感があるようには思えません。
いや「緊迫感がある」と書きましたが、これは僕ら30代が思っているだけで、20代は意外と呑気なものかもしれません。
『絶望の国の幸福な若者たち』(講談社)によれば、現代の20代の実に7割が、自分たちの生活に満足していると答えているそうです。
ファーストフードに、ファストファッション、たくさんのお金がなくともやっていける豊かな日本になりました。
僕の世代はファストファッションなどはなかったですが、それでも甘い認識を持っていたというのはこういうことなのだと思います。
現代ほど資本主義が世界レベルで追い詰められておらず、時代にバブル後の浮かれが残っていたこと。
そして「世の中、どうにかやっていけるだろう」というアバウトな意識を持っていた。
若さは経験値が少ない分、比較分析能力が低いので、度胸があるわけです。
それに若さゆえに未来も持っている。
だからこそ、追い詰められもせず、30代とは異なる心境なのでしょうね。

閑話休題。

では1999年の就職氷河期の僕は何をしていたのかというと、モんのス〜ゴイ人生に悩んでいました。
「どうやって生きていくのか?」
普通のサラリーマンになることが耐えられず、就職活動する学生が馬鹿らしく見え、アタマで悩んで何もせず何も経験ない、といった惨憺たる感じでした。
自分のやりたいこと、スキルが分からなかったんですね。
友人たちと学生時代に同人誌を作ってましたが、「編集者になりたい」というよりも「小説家になるのだ!」といった厨二病的な視野の狭い感じで、いま冷静に見れば明らかに才能がないにも関わらず、せっせと原稿を書いたりして、でも書けなくて、プライドだけが高く、鼻持ちならない感じのアホ野郎でした。
なので就活もせず、本ばかり読み、親に「300万ほど用意して養ってくれ!」と平然とオーダーし激怒されるといった勘違いぶりをブリブリ発揮していました。

しかしながら人生というのは真剣に悩むとそれなりの答えが返ってくるもので、そんな暗い時代の僕に友人がある会社を紹介してくれました。
株式会社イデーというインテリアショップで、新しく創刊する雑誌を作る。
ついては編集者として来ないか、という話でした。
当時(1999-2000年)のイデーはインテリアデザインブームを巻き起こすちょっと前くらいの時代でしたが、青山の巨大な建物にさまざまなクリエイターが集まってきて、一世を風靡している感がありました。
僕はインテリアも何も興味がなかったのですが、当時の代表であった黒崎輝男さんと、SPUTNIKを立ち上げたばかりの野村訓市さんに引っ張られる感じで、イデーに運良くももぐり込むことになります。

ちなみに、その頃の僕のあだ名は「狂犬」。
だれかれ問わず噛み付くので、友人たちには狂犬呼ばわりされていたわけですね。
本当に人間、モノを知らないというのは怖いことです。

この頃の僕は生意気な発言ばかりかましており、たくさんの人にご迷惑をおかけしました。
(いまさらですが深くお詫び申し上げます)

そしてその狂犬ぶりがなぜか黒崎さんの目に止まり、「お! イキがいいねえ〜」などとおだてられて、うまくコントロールされていくわけですが、僕の勘違いな学生時代の話は続けて次回も書いていきます...