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新宿に巨大なパブリックアートをつくり出した美術家・松山智一の歩み。
PUBLIC ART in SHINJUKU by MATSUYAMA TOMOKAZU

新宿に巨大なパブリックアートをつくり出した美術家・松山智一の歩み。

平均して1日に350万人以上の人が行き来する、世界中でもトップクラスの規模のターミナル駅、新宿。そんな場所に突然アートスペースが出現したのは、今年の7月。この作品の生みの親であり、グローバルに活躍している美術家の松山智一さんは、実はフイナムにとっても縁深い人だったんです。今回は、新しく新宿駅に生まれた「hanao-san」のことから、あまり語られたことのない渡米前の話しをじっくり訊いてみました。

今ぼくがいるのはアートの世界じゃなくて、カルチャーの世界だってある時すごく痛感させられた。

ー なかなか東京に住んでいると気づかないですが、とても興味深い視点ですね。

松山:そういった大きな流れが最近の東京の勢いにも繋がっているんじゃないかなって思うんです。グローバルがなんだか同じ方向にブワッと流れててあまり個性を感じない中で、すごく東京の個性が世界からみても光ってみえてきた。東京の人たちが意図せず、ここの文化が世界から注目を集め、オートマティックに世界に輸出されている状況はすごく面白いなって感じたんです。それが2年前に再び東京に戻ってきたいと思った大きな理由のひとつですね。

ー 松山さんとしては、この先ますます東京で面白いことが起こっていくと?

松山:今後その流れはさらに勢いを増して、東京自体も次の局面を迎えていくんじゃないかなって気はしています。ようやく東京のニュースタンダードが生まれてくるというか。 コロナ前の東京は、もうピークアウトに近くなっていたのかな、とぼくも感じていた面もあるからこそ、この後が楽しみで仕方ない状況ですよね。今回のコロナ禍で、半ば強制的にフラットになって新しい価値観が生まれる土壌ができているのが、まさに今なんじゃないのかなって思ってますね。

ー そういえば、松山さんが渡米する前に東京で過ごされていた時代ってあんまり知られてない気がするんですけど、そのあたりって改めてお伺いしてもいいですか? 例えばドメスティックブランドのグラフィックを手がけられていた頃とか。

松山:確かに、改めて話したことはあまりなかったかもしれないですね(笑)。最近お会いした方だとたまに驚かれることもあるんですけど、渡米前のぼくはむしろ原宿カルチャーに身も心もどっぷりだったんです。かなり遡って話しをすると……、昔原宿に「still sequence」っていうお店があったんです。そこは当時からサッカーなどのスポーツ要素を早くから取り入れたり、今では当たり前ですが家具などの日用品をアレンジして新しく提案するハシリのような場所。あとはいち早くハイテクスニーカーみたいなものを取り入れたりね。それこそカウズやフューチュラが来日した際に面白がって寄りたがるような、そういう先鋭的なお店だったんですけど、そこを手がけていた渡辺陽平が、実は中学の同級生だったんです。ぼくらは当時からスケートボードに夢中になったり、中二の頃には〈グッドイナフ〉をみんな着ていたりと、かなりませた少年たちで。学校は千葉の田舎の方だったんですけどね(笑)。

ー 中学二年生でそれは、そうとうませていますね……。

松山:でしょ(笑)。そんな繋がりがあって、陽平が20歳前後で原宿カルチャーに入っていくのと同時にぼくも自然とそうなっていったんです。具体的には彼が手がけていたブランド〈トランスポート〉のグラフィックデザインなどを手伝ったりしているうちに、原宿人脈もどんどん広がっていった。また、それとは違う流れになるんですけど、ぼくはもともと出身が岐阜の飛騨高山で、国内でも有数の豪雪地帯という土地柄もありスノーボードカルチャーにものめり込んでて。メーカーからスポンサードを受けて撮影のために海外遠征したり、それこそ当時の『TRANSWORLD SNOWBORDING JAPAN』(※2)などで、音楽コラムも担当させてもらったりしてたんです。当時は横ノリシーンと音楽シーンの距離感もすごく近くて、ぼくの周りにも仲の良いミュージシャンがたくさんいたので。そういうことをしながら、一方では原宿文化の中にもいるっていう少し変わった立ち位置で遊んでいたんです。
※2 当時TRANSWORLD JAPAN INC.から発刊されていたスノーボードの専門誌、現在は廃刊。

ー それは今日初めて知りました。松山さんがシーンをまたいで人脈がとても幅広いのはそういう過去があったからなんですね。

松山:そうですね。そうこうしているうちに、ある時スノーボードで大きな怪我をしてしまって、もうプロとして活動していくことが困難になってしまったんです。そこで自分自身と改めて向かい合う時期があったんですけど、その当時はちょうど生粋のボードカルチャーで育った人たちが新しく別の方法で自己表現をすることが話題になり始めた時代だった。例えばマーク・ゴンザレスやマイク・ミルズのアート創作だったり、トミー・ゲレロやレイ・バービーの音楽だったりね。そういう流れで自分もずっとアートが大好きだったしグラフィックデザインも触っていたので、本格的にそういう世界で勝負をしてみようと思ったんです、これなら一生続けられるってね。それが単身ニューヨークに渡った大きなきっかけです。

ー そこからいよいよニューヨークのアートシーンに飛び込んで、今に繋がっていくわけですね。

松山:はい。ただそうは言っても渡米直後は原宿にいた頃の繋がりで、さまざまなブランドのグラフィックデザインなどを続けていました。今でも親交がある岡沢くんもそうだし、原宿には同世代の仲間たちも多くいましたから。そこから徐々にそれ以外のシーンにも名前が知られるようになって、例えば〈ナイキ〉などのビッグカンパニーからもコラボレーション依頼を受けるようになっていったんです。……でも、ある時にこのままじゃいけない気がしてきた。自分の中で大きな壁にぶつかってしまったんですね。

ー とても順風満帆のように見えますが…。

松山:これは表現の仕方がとても難しいんですけど、要は「今ぼくがいるのはアートの世界じゃなくて、カルチャーの世界だ」ってある時すごく痛感させられたんです。もちろんぼく自身そこに育ててもらったし、そのシーンに対する愛情は変わらず持っていたんだけど、自分の当時の立ち位置が、純粋なアートの世界から見下されているような感覚になる瞬間が増えてきた。それで、このままじゃだめだって、ある時に全てから離れたんです。あんなに関わりが深かった東京・原宿カルチャーとも全くコネクトしなくなった。それぐらい己を追い込まないと、自分自身がこれ以上の高みにいけないと思った。具体的には2008~9年ぐらいかな。それまでやっていたTシャツなどのデザインも一切やらず、美術作家1本でやるって覚悟を決めたんです。

ー 頭ではなんとなく理解できますが、それを実際に行動するとなると難しいことですよね。

松山:今の若い子たちを観てて強く思うのが、やっぱりカルチャーから脱してないなってこと。自分もこのまま続けていけばいつかバンクシーやカウズ、ホセ・パルラみたいになれるって、それを目標としてるのかもしれないけど、彼らだって実はある時期からそういう視点ですごく勝負をかけてきて、ようやく今に至っているんです。どこかでそれまでの仲間意識に一線を引かないと美術界の場合ってイチ抜けできないから、遅かれ早かれそういう壁が必ず立ちはだかる。でもその壁を超えるか超えないかは、誰かに強制されることじゃないし、要は自分自身の覚悟の問題であり、選択。ただ、そういう壁があるってこと自体は今ストリートカルチャーが好きな若い世代のアーティストたちにも知って欲しい。だからぼく自身も東京から完全に離れ、アジアでもあえて香港で展示をしたり、日本だけはしばらく活動の場にしなかった。そうして10年間を自分なりにもがき続けた結果が今に繋がってて、ようやくさっきの東京の話しにも繋がるんですよね。

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