栗野さんにも敷居が高くて入れなかったお店があったんですね。

―津村さんがメディアの取材に応じるのは初めてと伺いました。
津村:昔、『VOGUE』には一度出たんですけどね。
金子:それは、ピッティ(PITTI UOMO:世界最大のメンズファッション見本市)関連ですよね。ブランドのスタートがピッティというところから、もうすごいですよね。
栗野:でも、『POPEYE』には結構出ていましたよね。
―POPEYEに?
津村:『POPEYE』の読者モデルみたいなのをやってて。いちばんメインで出ていたのは80年代。
栗野:ほぼ毎号出ていたんじゃないかな。
津村:当時、アロハ特集があって、たまたまぼくが黒に赤のハイビスカス柄のアロハを着て原宿を歩いていたら、「出てほしい」って声をかけられて。好きなコーディネートで良いっていうんで、アロハシャツにタキシードパンツを合わせて〈コンバース〉を履いて。そしたらそれが評判が良かったらしくて、毎号出るようになりました。
金子:めちゃめちゃ格好良いスタイリングですね。栗野さんは誌面に出ている津村さんをご覧になっていたんですか?
栗野:そうです。ぼくは1978年から「ビームスF(BEAMS F)」の店頭にいたので、その頃から見ていました。
金子:いまから45年前。お二人の関係はすごく長いんですね。
―津村さんのキャリアの始まりについて教えてください。
津村:原宿に昔、「ペーパームーン(Papermoon)」というお店があったんですよ。いまでいうセレクトショップですけど、本物のセレクトショップというか。〈イヴ・サンローラン〉とか〈クリスチャン・ディオール〉とか、当時デビューしたばかりの〈ジョルジオ・アルマーニ〉とかに、40〜50年代の古着を合わせるというようなスタイルで。そのお店に出会ったのが、ぼくが18歳のときでした。
栗野:ぼくは敷居が高くてなかなか入れなかった。
金子:栗野さんにも敷居が高くて入れなかったお店があったんですね。
津村:ぼくはたまたま勢いで入っただけなので。そしたらものすごいお店だったから、衝撃を受けて。音楽だってニューヨークの有名なディスコのDJの曲がかかっていたし。あの頃は第一次ディスコブームで、『VOGUE』にも特集されているような時代。アメリカ人って普通はディスコには踊りにいくものだから、タンクトップにランニングショーツ、ジョギングシューズを履いていたんですけど、ぼくはシルクサテンのタンクトップをディスコ用に作ってもらって、それを着ていたから、すごく可愛がってもらいましたね。
金子:18歳でそこまでスタイルが完成されていたんですね。津村さんのファッションへの目覚めみたいなものはいつあったんですか?
津村:それは七五三のとき。5歳で、スリーピースのスーツを誂えてもらって、それに編み上げブーツを合わせていました。それが原点ですね。でも、「ペーパームーン」っていうお店の存在が大きいです。おかげでいつもぼくは変な格好をしていたんですよ。それでスタイリストをやりませんかって声をかけてもらって、まず最初はスタイリストになったんです。それで初めてした仕事が〈プレイロード(PLAY LORD)〉というブランドの広告制作。評判が良かったので1年間の広告をまとめて写真集をつくったのがこれです。

金子:格好良すぎますね。日本人の感覚じゃない。撮影はどこで?
津村:すべて日本です。
栗野:その時代って、簡単に海外ロケにも行けなかったからみんな工夫していたんですよ。その工夫の仕方に妥協がないですよね。もちろん海外のエディトリアルの影響はあると思いますが、誰かの真似をしたとか、どこかに行って影響を受けたって話じゃなくて、オリジナルっていうことだと思うんです。日本のファッションの原点があったという。津村さんの歴史もそうじゃないですか。ただただ服が好きで、格好良く着ていたらこうなっちゃった。
津村:好きで生きていける時代だったなと思います。だからいまも一緒なんじゃないですかね?
金子:確かにそういう時代に近くなったのかもしれないですね。
ーミック・ジャガーのスタイリングを手がけたことがある、という情報もいただいています。
津村:ミック・ジャガーはやってないですよ。イギー・ポップのスタイリングはさせてもらいました。
ー”イギー・ポップは言った。「フォト・セッションはWARだ」”・・・すごいタイトルですね。


津村:この撮影の時、イギーは自分の頬を切って傷をつけていました。見えますか?
金子:凄まじいですね。このタイトルもまったく嘘ではないというか。
津村:スタイリストからファッションエディターの仕事を任されるようになって雑誌もつくりました。最後にカメラマン。
金子:カメラマンになったきっかけはあったんですか?
津村:ぼくが当時つくっていた広告では、カメラマンのファーストチョイスしか使わなかったんです。写真として優れているかどうかが大事で、服のディティールが見えているかどうかは二の次というか。それでクライアントと戦ったりもしました。そういうことをやりながら、自分で撮れば早いし、クオリティもいいんじゃないかって思って、カメラを始めました。
栗野:洋服をつくり始めたときにも、自分でつくっちゃった方がいいやみたいなところがあったんですか?
津村:服づくりをなんで始められたかというと、当時メゾンブランドのコレクションラインを縫っているインドの工場にたまたま出会えたから。そこに出会えていなかったら始めていなかったかもしれないですね。