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清野茂樹アナウンサー/イノキスト1973年神戸市生まれ。フリーアナウンサー。ラジオ日本「真夜中のハーリー&レイス」、WOWOW「ザ・プライムショー」、TBSテレビ「ツボ娘」などで活躍中。

猪木研究修士論文

清野茂樹
アナウンサー/イノキスト
1973年神戸市生まれ。フリーアナウンサー。ラジオ日本「真夜中のハーリー&レイス」、WOWOW「ザ・プライムショー」、TBSテレビ「ツボ娘」などで活躍中。

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猪木と板橋事件

2013.10.26

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1966年の10月、23歳の猪木が作った東京プロレスは最初からトラブル続きの団体だった。


旗揚げの「ビッグマッチシリーズ」でいきなり、ザ・ヘラキュリーという外人選手が十二指腸潰瘍で途中帰国してしまい、代わりにレフェリーのラッキー・シモノビッチがレスラーとして試合をしたという(もしかしたら、途中帰国の真相は金銭的なものだったかもしれない)。


そして、最大のトラブルと言われるのが、11月21日に元都電・板橋停留所前広場で起きた暴動、通称、板橋事件である。


当時の新聞によると、観客のひとりが客席に敷いてあった畳を投げつけ、コーナーポストを外したうえ、激高した20人の観客がリングを壊す騒ぎを起こし、そこに警官隊200人が出動して騒動を鎮めたという、のちに暴動の"常習犯"となる猪木が引き起こした最初の事件だ。



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この1か月前の10月28日、東京プロレスは同じ板橋の志村高校脇広場での興行で4000人を集めたらしく、もう一度稼ぐつもりで開かれた大会であった。


しかし、プロモーターから選手に対して未払い金500万円があり、そのうち100万円と板橋大会のファイトマネー100万円の計200万円を払う約束が果たされなかったとして、猪木をはじめ選手が試合を当日にボイコット。猪木を見に来たはずの観客が怒って暴れたのが事件の顛末だ。


僕が子供の頃に読んだ『プロレス・スーパースター列伝』では、猪木は現場に居合わせたように描かれているが、『アントニオ猪木自伝』では、猪木は会社に引き揚げた後にテレビのニュースで事件を知ったことを明かしている。


1966年と言えば、現存する後楽園ホールや日本武道館で初めてプロレスが開催された年である。しかし、これらはすべて猪木のいない日本プロレスの話だ。


老舗の団体が新しい会場に進出して大攻勢に出る中、猪木が作った弱小団体はファンから信頼を失って崩壊に向けて突き進むことになる。この板橋事件からわずか2か月足らず、1967年の1月に東京プロレスは空中分解することから、この事件が致命傷と言われるのであった。