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小西康陽音楽家NHK-FM「これからの人生。」は毎月最終水曜日夜11時から放送中。編曲家としての近作である八代亜紀『夜のアルバム』は来年2月アナログ発売決定。現在、予約受付中。都内でのレギュラー・パーティーは現在のところ、毎月第1金曜「大都会交響楽」@新宿OTO、そして毎月第3金曜「真夜中の昭和ダンスパーティー」@渋谷オルガンバー。詳しいDJスケジュールは「レディメイド・ジャーナル」をご覧ください。pizzicato1.jphttp://maezono-group.com/http://www.readymade.co.jp/journal

小西康陽・軽い読み物など。

小西康陽
音楽家

NHK-FM「これからの人生。」は毎月最終水曜日夜11時から放送中。編曲家としての近作である八代亜紀『夜のアルバム』は来年2月アナログ発売決定。現在、予約受付中。都内でのレギュラー・パーティーは現在のところ、毎月第1金曜「大都会交響楽」@新宿OTO、そして毎月第3金曜「真夜中の昭和ダンスパーティー」@渋谷オルガンバー。詳しいDJスケジュールは「レディメイド・ジャーナル」をご覧ください。
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http://maezono-group.com/
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もしもあの世に行けたら。

2011.07.25

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ターンテーブルの横に鋭利なペイパーナイフがある。12インチ盤や米国盤の新譜のファクトリー・シールを開封するために買ったのだが、最近は殆ど出番がない。先日、一枚だけ封を開けて聴いた日本の若いミュージシャンの作品も、悪くはないが感動しなかった。もはや自分は古い音楽しか愛せないのか。
 

 
今野雄二の死から、もうすぐ一年が経つ。この人の著作を纏めた本が、なぜ未だに作られないのだろう。そのことをずっと考えていた矢先、中村とうようが亡くなった。これが最近の自分にとって、いちばん大きなニュースだった。
 
とても自殺するような人だとは思えない、という声もあった。それは誰にもわからない。だが、レコードや楽器をはじめ、自分の蒐集していたコレクションを整理し、武蔵野美術大学に寄贈していたというのだから、死を見据えて生きていた人だった、と考えるほうが、愚かな自分には少しだけ理解し易い。
 

 
あれは1970年の6月号だったか、ビートルズが表紙に描かれた『ニュー・ミュージック・マガジン』を父親が買い与えてくれて、翌年の1971年3月のB.B.キングが表紙の号から、自分はあの雑誌を定期購読するようになった。そこから、自分は音楽以外のたいていのことに興味を失ってしまった。
 
その雑誌の創刊当時の編集長であった中村とうようには、大きな影響を受けないはずはなかった。そのことを書き始めたなら、あまりに取り留めがなくなってしまうに違いないので、ここでは書くことを諦める。
 
ただ、いくつか。創刊当時の『ニュー・ミュージック・マガジン』には、<今月のグッド・デザイン>、という、レコードのジャケット・デザインに対して寸評を加える連載コラムがあった。このコラムが、自分に与えた影響は計り知れない。創刊当時の執筆者は矢吹申彦氏だった。
 
そして、創刊からしばらく経ったある時期から、今月のヴォーカル、というコラムが出来た。その執筆者は中村とうよう。このコラムによって、自分はブロッサム・ディアリーやローズ・マーフィーを知り、メル・トーメの名前を知ったのだった。ヴォーカル、と言えば、五木ひろしは歌が巧すぎて、と書いていたこと、さらには玉置浩二の圧倒的な歌唱力のことなどを書いていたことも忘れられない。
 
そんな中村とうように、自分は会ったことはなかった。だが、見かけたことなら、もちろんある。あれは、自分が大学生だったから、たぶん1980年頃だと思うのだが、東京のどこかの場所で、映画『ストーミー・ウェザー』を初めとして、ニコラス・ブラザーズやキャブ・キャロウェイなどの、アメリカ黒人の大衆音楽・大衆芸能の映画を上映する催しがあって、当時、そういう音楽に興味を持っていた自分は、観に行ったのだが、そこに中村とうようその人がいた。
 
髭を生やした彼は上映前の時間、ずっと「諸君」という雑誌を読み、顔を上げることはなかったが、会場にいた誰もが、あれが中村とうようか、と思ったに違いない。
 

 
中村とうようの死のニュースが流れたとき、多くの人が、彼がクロスレヴューで誰のアルバムに0点を付けた、とか、マイナス10点を付けたとか、そんなことを面白おかしく、あるいは苦々しく書いていたのを読んだ。残念なことだと思った。
 
6点や7点のような、当たり障りのない点数を付けても、人は誰も憶えてくれはしない。だが、0点やマイナス10点なら、人はその作品に興味を抱き、また採点者のことも忘れられなくなる。音楽に対して強い好奇心を抱かせることこそ、音楽評論家の仕事だと考えるなら、当然のことではないか。
 

 
そういえば、何年か前、まだ自分がアルコールを嗜んでいた頃、深夜のオルガンバーでジャズ歌手のakikoさんと遇ったときに、唐突に、「音楽評論家の中村とうようさん、って、亡くなったって本当ですか?」、と尋ねられたことがあった。咄嗟に、そんな話は知りませんけど、と自分は答えた。
 
どうやら、何かの勘違いだったようだが、その頃、自分とakikoさんが急速に接近したのも、いわゆるジャイヴ、と言われる音楽を介してだったこと、そして、自分がジャイヴ、と呼ばれる音楽、あるいは、ジャイヴ、あるいはファンク、と呼ばれる感覚を知るようになったきっかけの全ては、中村とうよう、というひとりの音楽評論家が煽動したからだった、と、何となく思い出したのだった。
 

 
金曜日の夜、新宿OTOで、明け方のフロアに人もまばらな時間に、平林伸一さん、神谷直明くんと二曲ずつ、バック・トゥ・バック、という呼ぶ程でもない緩慢さで交替にレコードを掛けた。そのとき、自分がプレイしたのは、PIZZICATO ONEのアナログ盤から「もしもあの世に行けたら SUICIDE IS PAINLESS」、という曲、そして、原田芳雄の「愛情砂漠」のシングルだった。
 
二人を追悼するつもりでレコードを持ってきた訳ではない。「愛情砂漠」は、その裏面の安田南「赤い鳥逃げた」を最近よく掛けていたので、バッグに入っていたのだった。
 
惨状、としか呼べないような事態を忘れさせるために新たな惨事が起き、誰かの死を忘れさせるために次の誰かの死がやってくる。最近のニュースを見ていると、世界はそんな感じだ。
 
こんな話を書くために引き受けたブログではなかったはずだ。