「言葉」にしないという手段に、身を任せる。
ー とても綺麗な映画でした。みんなが見たいものや目を背けがちなものを、理屈で説明しようとせず「ありのまま」写していて。内容は激しいはずなのに、その純度の高さが清々しかったです。劇中では黙ったり、歌ったり、台詞以外の方法で演じるシーンも目立ちましたね。
菅田:どうやってたんだろうね、俺ら。
仲野:監督も常々、理屈で考えて欲しくないって仰っていて。言葉にすると色々な感情って限定されるし、言葉で語ればそれで終わってしまう。それに、まず思っていることを言語化するってとても難しいことだから。もっと理屈じゃなく、もっとわけのわからないものを体現していくという作業だった気がします。
ー 太賀さん演じるスギオのように、板挟みの状況から人がキャパシティを超えてしまうことって、実社会でも多くありうることですよね。観ていて、とても苦しそうでした。
仲野:そうなんです。わりとぼくは作品に臨むときに、とても理屈で考えて臨むことが多くて。この役はこういうことが起きて、こういうことを思ったから、こうなっていると把握しておくというか。そういう考え方をするタイプなんですけど。
菅田:それもすごいよなあ。
仲野:今回、大森監督のもとでは、その何か道筋を立てて臨むっていうやり方がある意味通用しなかったし、むしろそういうところでやって欲しくないっていうのが監督の中にもあって。

仲野:ただ、スギオはリアリティや理性を求める人間でもあるので、そこもぼくは無視できなかったんですよ。その擦り合わせみたいなものが現場でも何度かあって。でも、ある出来事をきっかけにスギオの中のブレーキが壊れる瞬間が訪れてからは、役と共鳴して僕自身もブレーキをぶっ壊せたというか、監督と握手できた瞬間がありました。
菅田:監督と、けっこう喋ってたもんね。いちばん喋ってたんじゃない?
仲野:意義を見出したかったし、理屈を知りたかったからね。そういう自分の考え方とスギオの率直な考え方ってどこか似てたと思うんです。でももう、それごと受け入れて解き放ってみよう、と監督に思わされた部分もあったし。将暉とYOSHIにそう思わせてもらえたってのもあるし。