小径逍遥、再び。
青野賢一
ビームス クリエイティブディレクター / ビームス レコーズ ディレクター
「ビームス創造研究所」所属。選曲・DJ業、執筆業。音楽、ファッション、文学、映画、アートを繋ぐ。
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No.30 港から見た1933年
2011.10.11
横浜トリエンナーレの関連企画である「港のスペクタクル」の
公演のひとつに『港の日本娘』上映というものがあった。
つい先日、この公演が行なわれたのだが、
私は初日、本篇前のプレトークに出演してきた。
この上映会は、単なる上映会ではなく、
サイレントムービーである『港の日本娘』に
作曲家・本田祐也氏がつけたスコアを、
氏のバンド「チャンチキトルネエド」が生演奏する、
というものである。
もともとの楽曲は、2003年の第四回東京フィルメックス委嘱作品として
この映画のために書かれたものであり、初演はその時。
今回はそれから8年を経て再び映画と音楽が顔を合わせたのだ。
私はスケジュールの都合上、通しリハでしか映画と演奏が合わさったものを
体験出来なかったのだが、本田氏のスコアはすこぶるエレガントでありながら、映像との不可思議な違和感もあって、単なる劇伴にとどまらない存在感を放っていた。
改めて、本田氏の才能に触れ、鳥肌が立つとともに、
本田氏の不在(彼は2004年に夭折している)を実感せざるを得なかった。
プレトークのために、少し映画について調べてみた。
公開は1933年。
本作を監督した、清水宏氏は1903年生まれだから、
ちょうど30歳の時の作品である。
清水氏は1922年に松竹蒲田撮影所に入社。
ひとつ上の先輩助監督には成瀬巳喜男、
ひとつ下の後輩には小津安二郎がいた。
清水氏の持論で面白いのは「役者はものを言う小道具」という点である。
作為的な要素(演技や設定、ストーリー、動き)を出来る限り排除し、
あるがままの「景色」を撮ろうという実写主義に貫かれたその作品は、
だからこそロケ撮影が大半を占めていたのである。
『港の日本娘』のストーリーはシンプルだ。
主人公の女性二人が横浜の女学校に通っていた頃からスタートする。
二人はいつも一緒。俗にいう親友である。
そのうちの片方が、ある男に恋をする。
そして恋心から相手の男と仲良くしていた女に発砲してしまい、
人生の歯車が狂っていく、というのが前半。
発砲してしまった女学生は、もうここには居られないと
長崎、神戸という港町を転々とし、水商売に身を窶すのだが、
その数年の間に、親友は彼の男と結婚し、家庭を築いていた。
横浜に戻ってきてその事を知るに至り、まぁいろいろとあって、
最後はまた港から船に乗って旅立つところで映画は終わる。
先にも書いたように、殆どがロケ撮影だから、
当時の横浜の雰囲気が伝わるものであり
(「チャブ屋」が描かれている!)、
また登場人物の名前が何故か横文字だったりすることもあってか、
非常にモダンな薫りのする映画に仕上がっている。
そうした魅力もこの映画にはあるのだが、
私が興味を惹かれたのは、女学生が発砲し、女を殺そうとした、
というところである。
発砲した女学生(砂子という)は、咄嗟のこととはいえ、
「あの女を殺して、私も死ぬ」という心持ちではなかったか。
つまり歪んだかたちの情死である。
しかし、死ななかった。死に損なった。
生と死とが宙ぶらりんな状態で彼女の前に出ては消える。
海をふわふわ漂い、辿り着く先は「神聖なる」あいまい宿。
生とか死を越えたところに行くには、そこしかないのである。
物語が進み、ラスト間際になって、
かつて砂子が発砲した相手と再会する。
しかしその相手は(どういう訳だか)息も絶え絶えで、
どうやら間もなく死を迎えるようだ。
死を目前にした彼女の顔は、どことなく落ち着いている。
一方、砂子はまだずっと宙づりのまま、狼狽えるしかない。
そうして、砂子はまた船に乗る。
一見、新たな生活への旅立ちのようであるが、
私にはそうは映らなかった。
死に損ないの旅がまた始まっただけのように思えた。
ラストシーン、港に残された見送りの人
(これは砂子のかつて好きだった男、その妻でありかつての親友、
そして砂子の客だ)の足元を紙テープが寂し気に転がる。
ああ、これでこちら側との繋がりもなくなり、
砂子はまた彼岸を巡る旅に出る。
ちなみに太宰治が最初に心中を図ったのは1930年。
江ノ島で、自分だけが生き残った。
死ねない者の悲しみを描いた『人間失格』は、1948年の作品。
彼はその間、ずっと「あちら側」を目指していた。
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