小径逍遥、再び。
青野賢一
ビームス クリエイティブディレクター / ビームス レコーズ ディレクター
「ビームス創造研究所」所属。選曲・DJ業、執筆業。音楽、ファッション、文学、映画、アートを繋ぐ。
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No.37 異邦人、余所者
2012.11.06
"トーキョー発、舞台芸術の祭典"「フェスティバル/トーキョー」は、
池袋界隈を拠点に開催される、国内最大の舞台芸術フェスティバルである。
現在開催中(11/25まで)の、この「フェスティバル/トーキョー」の
演目のひとつ『たった一人の中庭』(11/4にて終了)を観てきたので、
記憶が薄れないうちに書き留めておこうと思う。
まずは、本作品を手がけているジャン・ミシェル・ブリュイエールの
ことばを引いてみよう。
「今この瞬間にも、37000人以上の人々が、
辺境にまでおよぶヨーロッパ全域に
点在する300カ所のキャンプに隔離されている。
彼らは、罪を犯したわけでも判決を下されたわけでもない。
それ以外にも大人数で隔離された場所に住む人々はいる。
アメリカやオーストラリアなどでも同様のことが起きている。」
(公式パンフレット所収『これからの時代の新しいキャンプ』より引用)
この『たった一人の中庭』は、不法滞在者やロマ族が暮らす
移民キャンプの実体を、アーティスティックな視点で再構築した
展覧形式の演劇だ(公式サイト「概要」より抜粋)。
これまで、アヴィニョン演劇祭や、リンツ09などでも上演され、
今回の東京公演となった。
会場は、西巣鴨にある「にしすがも創造舎」。
2001年に閉校し、廃校となっていた中学校を、校舎や体育館はそのままに
2004年アートファクトリーとしてオープンしたところである。
このにしすがも創造舎の校舎のうち2フロア、
そして体育館、校庭を使って、『たった一人の中庭』は上演された。
受付を済ませ、第一のスペースである地下フロアに行く。
校舎に入ると、イーブン・キックの
ダンスミュージックが聴こえてきた。
まず私たちが最初に入る部屋
(それは「ダンスフロア」と名付けられている)に
足を踏み入れると、真っ白な細かい短冊状のマテリアルに全身包まれた
異形のものたちが、先のダンスミュージックに合わせて
身体を揺らし踊っている。
地下フロアには、この他、水蒸気立ちこめる中、
大きな寸胴鍋でボイルドエッグが作られている
「教唆する部屋」(元家庭科室を使用)、
電話と真っ白な人形と水を使ったサウンドインスタレーション
「入浴する人々の部屋」(元理科室を使用)などがあった。
理科室の水道の蛇口から出てくる水で、
足を冷やしているかのようにある人形が印象的だった。
階段で3Fまで上がる。
「はかり」と名付けられた部屋には、強制送還の様子を演じる映像作品が。
映像の中で、強制送還される人物は、何人かの手によって運ばれ、
吊るされ、あるいは降ろされそうになる(手足の自由は利かない)。
隣の部屋は「政治オフィス」。
ここでは、パフォーマーが一日がかりでリサーチ、議論をし、
その成果をフランス語テキスト化、さらにそれをバナーにして、
屋外のフェンスに掲出している。
「資本主義は老化を促進する。
人口を若返らせるために部屋に貧しい移民を誘いなさい。」
「客の満ち溢れた舟に乗ると、弁証法はダメな方向に傾いてしまう。」
などといったテキストがフランス語化されていた。
その部屋を出ると「更衣室」。
ここでは、最初に見たモンスターの衣装を身につけることが出来る。
しかし、部屋の中は真っ暗闇である。
廊下を隔てて反対の部屋を3つ使った「キャンプ」というスペースでは、
白いキャンプ(テント)のミニアチュールがずらりと並ぶ。
階段を下り、今度は体育館へと向かう。
さっきの白いテントはミニアチュールだったが、
今度はホンモノの「テント」だ。こちらは白ではなくカーキ色。
テント内部では、セキュリティ管理者、ファッションデザイナー、
コック、医師、掃除夫、そして黒人移民がキャンプ生活を送っている。
キャンプ生活といっても、真っ白な世界の中にある、ハイテクなものだ。
ここでは、時折、強制送還のパフォーマンスや、
ダンスとファッションショーが混ざったようなものが行われている。
テントを出ると、体育館の中の「体育館」と呼ばれるスペース。
白いキャンバスに赤黒い塗料で描かれた絵は、銃殺の跡を思わせる。
その絵画は、アームの先端にスポンジを付けた
機械によって描かれているようだ。
少し目を移すと、金属製のベッドが、
これまた機械仕掛けでシーソーのように動く。
ひとり用ブランコもある。
私が行った時間は聴けなかったが、「拡声器を使ったコンサート」も
ここではあるそうである。
床一面には、マシュマロみたいな緩衝剤が敷き詰められ、
それは、奥に行くに従ってどんどん深くなっている。
ここに座って、緩衝剤に埋もれている観客が多数いた。
体育館から校庭に出て、この演目は終了だ。
校庭には白いビニールに包まれた巨大な何かと、
健康器具めいた機械、そして「外国人に食物を与えないでください。」
と書かれた立て札があった。
観客は、上記の流れでこの『たった一人の中庭』を
鑑賞することとなるのだが、
鑑賞というよりは体感という言葉がしっくりくるようなものであった。
移民問題、強制収容、キャンプ生活
(「キャンプ」は難民収容所の意味もある)
など、普段の私たちにはさほど接点の多くない事柄は、
見せ方によっては生々しく、目を背けたくなるものになるだろう。
しかし、である。
『たった一人の中庭』では、ダンス
(それはモンスター、人、機械が行う)や、
体育館での緩衝剤に埋もれてしまうことにより、
その凄惨さは希釈され、アミューズメント化する。
見ないように、見えないようにしている事柄を、
より感じさせないようにする演出方法は、
かえって私たちのそうした「見ないように」を痛切に意識させる。
この作品を観ても、収容所の実態や移民問題など、
具体的には少しも分からない。
もっと言うと、緩衝剤に埋もれて座っている時間は、
むしろ甘美で恍惚としたものにすらなってしまい、
この演目の主題さえも忘れさせる
(長々歩いて観ている側としては、
体力的にもここで休息してしまうのだ)。
心地よい緩衝剤のベッドから這い出して、
校庭に出ると「外国人に食物を与えないでください。」の立て札。
思わず笑ってしまった人もいるのではなかろうか。
そしてその先に目をやると、あるのは小ぶりな「機械」。
ここでは、時間によっては強制送還のパフォーマンスも行われたそうである。
そのパフォーマンスを観ていないので、何とも言えないが、
どんなものだったのだろうか。
強制送還、収容所、移民問題などが「漂白」され、
私たち観客もそれに同化するように、
さらにそれらの問題に無意識になる。
しかしながら、意識するしないに関わらず、
問題は消えることなく存在し、
私たちの生活もまた、(国は違えど)そこに多少なりとも依存している。
最後の立て札と機械まで来て、私は先程までの
アミューズメント空間をすっかり忘れそうになった。
そうだった。この演目の主題は。
校庭から校舎を眺め、あの中での出来事を反芻し、
今、置かれた状況と対比すると、
校舎の中から弾き出されたような心持ちになった。
順路は不可逆であり、もうあの漂白された空間には戻れない。
なんとも異邦人、余所者のような気持ちになって門を出た。
さて、門を出た後、一休みするかと周りを見回した。
コーヒーチェーン店などはあるだろうと思ったが、
見える範囲にそれらしきものはない。
少し歩いてみたが、何も見当たらず途方に暮れていたら、
会場の向かいにマクドナルドがあることに気付いた私は、
迷わずそこに吸い込まれていった。
油の匂いがした。
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