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COLUMN

ヒップなエディトリアルシンキング

編集に関わる仕事をずいぶん長くやってきた。雑誌を作るだけではなく、そのアイデアをテコにしていろんな仕事にも首を突っ込んだ。うまくいったのもあれば、そうでないのもある。この仕事でなければ入れない場所にも入れたし、会えない人にも会えた。どれもがとてつもなくおもしろく、自分の宝になった。遊びが仕事で、仕事が遊び。編集仕事ってそんなところがある。この仕事の面白さと広がりをこの仕事に興味を持ってくれる人に向けて書いていきます。

  • Text_Toshiyuki Sai
  • Title&Illustration_Kenji Asazuma

第4回おしゃれしよう

リベラルアーツって聞いたことありますか?

もう何年も教育の現場では話題になっている言葉だ。日本語に訳すと「教養教育」ということになるんだろうけど、これだとあまりピンとこない。教養を身につけリーダーとしての人格形成を行うための、人文学や芸術、自然科学など多方面にわたる学問とでも言えばいいのだろうか。アメリカでは人気の履修部門で、あのハーバード大学もリベラルアーツカレッジとしてスタートした歴史を持つ。

総合大学とリベラルアーツカレッジの違いは、前者が大学院へ向けての専門性の高い研究を目的にその分野でのスペシャリスト育成が目的なのに対し、リベラルアーツは何かに特化した専門性よりは幅広い知識を身につけるのに主眼が置かれている。

そもそもは古代ギリシャで自由市民として生きていくための学問として制定されたもの。これを「自由七科」といい修辞学、弁証法、文法、算術、幾何、天文、音楽という構成だ。もちろんいまでは時代に合わせ、カリキュラムはアップデートされている。

新型コロナウイルスの感染が拡がり、政府が命を取るか、経済を取るかという判断の岐路に立ったとき、こうした知識を身につけていたかどうかで世界のリーダーの対応に違いが出た。

感染症研究者、微生物専門家、医療学者、法律学者などスペシャリストの声を集め、そして政治的判断を自身の責任で下すのが政治リーダーとしての仕事。疫学専門家の話をそのまま鵜呑みに政策を決定していたのでは、経済の問題は二の次になるし、経済界にだけ忖度すれば感染拡大は止まらない。そんな難しい判断をするときに道案内となるのは、人文学的な教養である。

有名な「トロッコ問題」というのがある。ハーバードのマイケル・サンデル教授の「白熱教室」でも議論されたものだ。これは「ある人を助けるために、それ以外の人を犠牲にできるか」という倫理問題だ。暴走するトロッコの前に5人の作業員がいる。線路は分かれていて分岐器の前にあなたはいる。レバーを操作すれば5人は助かるが、分岐の先には別の作業員が1人いる。あなたは5人を助けて1人を犠牲にするか、あるいは5人を見殺しにするかというもの。

イギリスの哲学者であるフィリッパ・フットが考案したこの問題は1967年に雑誌に掲載されるや大反響となった。フランスのバカロレアではないが、こうした超難題に向き合って学問してきた人と、そうでない人とではリーダーとしての品格が違ってくる。

編集に限らずどんな仕事でも、こうした倫理、道徳的な難題に向き合わなくてはならない場合がある。

さすがに政治リーダーに課せられるような、人の命に関わるようなものではないかもしれないが、それなりに大変な選択に迫られるときも少なくないのだ。そんなとき、判断の基準をどこにおいているかで人間力が問われる。

前にも書いたが編集の仕事は「しきり」である。自信をもって行動にできるよう、準備しておきたい。

しかし専門的な知識に富んでいても、人間としての内面が充実していても、それで十分ではない。知力をエンジンだとして、それを包むボディデザインが陳腐だとクルマだって性能を発揮できない。デザインは機能を決定する。空力がまるでなってないデザインだと燃費も悪くなるし、スピードだって出ない。内容を包む容器も大切なのだ。

だからおしゃれしよう。相手からどう見られるかというのは、言い換えればどう値踏みされるかということだ。スーツを着ていれば真面目に見られるだろうし、よれよれのTシャツではそういう人に見られる。親からもらった容姿は簡単には変えることはできないけど、服ならすぐに取り替えられる。

フランスの政治家であり美食家のマリヤ・サヴァランのあまりにも有名な「君がどんなものを食べているか言ってみたまえ。君がどんな人か当ててあげよう」は、そのまま身に纏うものにもあてはまるのだ。

服屋さんを正しく活用する

すでにファッションにとても関心があるなら、以下は飛ばしてもらっていい。

もしあなたが服装に興味なかったとしたらどうだろうか? なんとなく大学に入り、さあ就職というときになんとなくこの編集という仕事に興味を持ち、面白そうという気持ちでこの仕事を選んだとする。しかしファッションやライフスタイルを扱う現場で、感度の高い文化生活を希求するプロフェッショナルたちの間に入ったとき、服装がなんでもいいわけがない。この世界ではファッションもリベラルアーツのひとつということになる。

ブランドものを選んで着飾れという意味ではない。教養としてのファッションを身につけようということだ。教養が身につけばシャツとパンツだけでも、あるいはTシャツとジーンズだけでもそれなりのセンスに見られる。

どうすれば教養としてのファッションを身につけられるか。これはもうトライアル&エラーをするしかない。素振りなくしてヒットは打てない。

一般論としてまずは自分のファッションクラスターをどこに位置させるのかを考えておくことだ。女性誌には赤文字、青文字といった大きなジャンル分けがあったり、それこそ年齢層によって細かくクラスター分けされている。あるいはシティボーイなのかちょい悪オヤジなのか、自分の宗派を決めなくてはならない。ファッションに関する価値観はこのクラスターで違ってくる。どのグループに属するかによって、マントラも変わる。

なんとなくそういうグループ分けされているということはわかっているとは思うが、どう違うのかは学習していかなくてはならない。

てっとり早く見た目を変えたいなら、服屋さんのそもそもな使い方をすればいい。スタッフに予算を伝えて、服を選ぶ相談をするのだ。個人スタイリストを雇わなくても、お店のスタッフがこれ以上ない態度で手伝ってくれる。

店員さんは、店頭に並んでいるすべてのラインアップが頭に入っている。なんせ服飾店で働いている人たちはそもそも服好きだ。時間があれば雑誌などから情報を収集し、なにを着ようかどう合わせようか考えている。すぐにあれこれソリューションを導き出してくれる。

その前にまずは買い物をする店を決める。ここでもさっきの宗派決めに沿って、相性のいいお店に選ぶ。デザイナーのブティックよりは、バリエーションの揃っているセレクトショップなどの専門店のほうがいいかもしれない。

そして好みな服装をしている人をみつけることだ。コンサバな服装を求めるのに、ラッパーのような格好をしている人に声をかけるよりは失敗は少ない。

店員さんは接客するのが好きだからこの仕事をしているわけだし、頼られるとさらに嬉しくなり親切に丁寧に対応してくれる。そして顧客になり、月イチくらいお店に顔を出せば、買ったものに合わせた提案をしてくれる。そうこうしているうちに情報も得られセンスは磨かれていくのである。

こんなあたり前のことを意外とやってない人が多い。なかには気後れして声をかけづらいという人もいるが、相手は鬼ではない。

これはネット通版ではどうあがいても無理だ。

重ねて言うが見た目はものすごく大事だ。自分らしさを表現できる服装はなにかというのを確立して、自分のスタイルを持てればいい。

おしゃれというのは何を着るかというよりは、醸し出す雰囲気である。スタイルのあるひとというのはこれがある。

いい役者というのは力みがない。大袈裟に感情を表すことなく、顔の筋肉をひくりと動かすだけで感情を表すことができる。おしゃれでこの境地に達すればマスターということになるだろうが、興味をもてばいつかはそこへ到達できる。

あまり難しく考えずおしゃれしよう。新しい靴ををおろすときのあの胸が躍る、突然スキップしたくなるような気持ちの高まりをいつまでも持ち続けよう。

買い物は脳によい刺激を与えてくれる。そしてお気に入りを着るとさらにハッピーになれる。

おしゃれは人生にうるおいや刺激を与えてくれ、気持ちを常にポジティブにキープしてくれるのだ。

PROFILE

蔡 俊行
フイナム・アンプラグド編集長 / フイナム、ガールフイナム統括編集長

フリー編集者を経て、編集と制作などを扱うプロダクション、株式会社ライノを設立。2004年フイナムを立ち上げる。

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