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COLUMN

ヒップなエディトリアルシンキング

  • Text_Toshiyuki Sai
  • Title&Illustration_Kenji Asazuma

第11回ゼロから考えず前例を探せ

毎日多くの創作物、例えば音楽や物語などが世界中で生まれている。グーテンベルグやエジソンの登場を待つまでもなく、遡れば文化が花開く前から何百年もこうした活動は続いている。それが止まることはなくこの先も未来永劫、人々の暮らしが営まれる限り続くのだ。

そこで考える。創作した作品が、意図せず過去に作られたものと似たものになる可能性は果たしてどれくらいあるのだろうか。

J-WAVEでピストン西沢さんのやっている番組で「音楽の偶然」というのがあった。パクリとは言わないが、すごく似ている曲というのは少なくない。それを偶然と呼んで紹介するやや意地悪なコーナーである。

紹介される曲は確かにそれ以前に作られたものに似ている。ポップスのコード進行は数百しかないから、中には似たようなものができるのは仕方がないというが、素人のぼくが聞いてもこれはダメだろうというのもある。

最近ではマルーン5の『メモリーズ』を聴いたとき、頭の中でベルが鳴った。調べるとパッヘルベルの「カノン」そのものである。このコード進行自体、カノン進行と呼ばれるポピュラーなもので、オリジナルの著作権も切れてるということでセーフらしいが、意図するしないに関わらずこのように似ている作品は世の中に少なくない。

文学作品にも類似しているものがある。

芥川龍之介の『蜘蛛の糸』はカラマーゾフの『一本の葱』に似ているし、同じ芥川の『芋粥』とゴーゴリの『外套』も文学の偶然だ。

世界中がネットで繋がった今日では、こういう情報はあっという間に広がる。

少女マンガ『キャンディ・キャンディ』は『若草物語』や『赤毛のアン』、『あしながおじさん』の要素が散りばめられているのではないかと大串尚代さんが『立ちどまらない少女たち』(松柏社)で指摘しているが、それをもってしてパクリだとは言えない。

好むと好まざるとに関わらず、現代の創作物の大半は、過去の作品の影響下にあるといってもいい。

話は違うが、現代の歌手が昔の曲をカバーしてそれが広まると、そっちのほうがオリジナルだと誤解されることもある。これをもって教養がないなどとは笑えない。こういう例はごまんとあるので、いつ自分が笑われる立場になるかわからないからだ。

オリジナルの方を聴いて、それをパクリだと思ったという若い人の話を聞いたこともあるが、それは自分にもある。

創作物が過去から現在にわたって作り続けられていて、そのすべてを見て聞いて読むということは不可能だ。図書館の蔵書をすべて読破するのはムリだし、Netflix上の作品を網羅するのも諦めている。

苦労して創作したものが、実は何かに似ていたなんて事故は、作品の数が増えていく未来にはさらに増えているだろう。

いわゆる「車輪の再発明」のようなものだ。この言葉の定義は、誰かがすでに生み出した何かを自分で作ろうとして時間を無駄にすること。

こう書いたからといって、創作活動なんてナンセンスと言ってるわけではない。創作活動はますます困難になるだろうけど、それを続けていく人たちの創造力と姿勢は素直に素晴らしいと思う。

剽窃は罪である

ほとんどの人が、ゼロからなにかを生み出すというのは難しい。まず言語は獲得能力である。人は生まれながらに話せるものではない。言葉は母から子へ、物語は口から口へ、あるいは文献や、いまでは電子機器を通じて引き継がれていく。聞いた話、体験したこと以上の言葉を紡ぐことはできない。

どんなオリジナルな物語もどこかからもらってきた記憶をいくつか繋いだり切り貼りしてミックスしてできたものといってもいい。それを編集というなら、その編集力に長けた人がストーリーテラーになった。物語の構成やレトリックで評価される作家はまた別の才能である。

絵や彫刻などの創作物も独創的なオリジナルはあるが、時代によっては○○派と呼ばれる現象があるわけなので、やはり他者からの影響はある。それをトレンドと呼んでもいいのだが。

我々、編集者は文字原稿以外にもイラストや写真を扱わなくてはならない。特にイラスト、写真というイメージ作成に関してはオリジナルなものを求められる。それはまるで画家や作家、音楽家に要求されるような仕事である。

創るからには他者を感心させるオリジナリティのあるクオリティの高いイメージを作りたい。ファッション編集者、スタイリストなどのクリエーションに携わる者はいつも高い志を持ってイメージ作りに執心している。

もっとも忌み嫌われるものはパクリである。出典がすぐにわかる仕事は評価を下げる。

職人的編集者が減って、職業的編集者が増えた現在、どこの媒体にも同じようなイメージが使われているのが散見されるが、せっかくこの仕事に就いたのであれば、人を唸らせる仕事をしてみたいのではないか。

しかし残念ながらぼくの周りにもどこかで見たようなイメージをそのまま作ってくる横着者が少なくない。創作するのが難しいのはわかるが、近いところからパクられた仕事を見ると悲しくなる。少なくともオマージュとかリスペクトするというのなら、本家からどこを取ってどこが違うかを明らかな作品にすべきだ。その本家も広く人口に膾炙していなければならない。

少なくとも名も無い本家から一部をパクるなら、どこか遠いところから拾ってきて欲しい。遠い国の誰でもない市井の人が撮った写真からとか、誰も知らない共産圏の古い映画からとか。

上で書いたようにゼロからのオリジナル創作というのはほぼ不可能だ。誰もがいろんな経験を積んでいるわけでそれぞれに引き出しがある。頭の中のあちこちにある引き出しからすこしずつアイデアを集めて、遠い場所から引っ張ってきたアイデアと組み合わせて新しいものを創る。それがオリジナリティに繋がっていくのではないか。

身近にあるイメージに似たような劣化コピーを作って満足しているのはどうかと思う。側からみると恥ずかしい。

前例を探し、他のものと組み合わせて新しいものを作る。アボカドを巻いたカリフォルニアロールなどは寿司の再発見であり、オリジナリティのある料理だ。邪道だと言われるかもしれないが、こうした文化融合などから新しいものを創るヒントのようなものを得てほしい。

PROFILE

蔡 俊行
フイナム・アンプラグド編集長 / フイナム、ガールフイナム統括編集長

フリー編集者を経て、編集と制作などを扱うプロダクション、株式会社ライノを設立。2004年フイナムを立ち上げる。

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