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COLUMN

ヒップなエディトリアルシンキング

  • Text_Toshiyuki Sai
  • Title&Illustration_Kenji Asazuma

第15回文章の書き方

これまでいろんな人が書いた文を読んできた。

世に出ている本は、編集というフィルターが通っているので楽しく読ませてもらっているけど、いろんなタイプのライターが書いてきた生原稿を読む機会も多い。まあそれが仕事のひとつである。

愉快な文、難しい文、気取った文、うまい文、ヘタな文。主観ではあるけれど、これがいろいろあっておもしろい。文は人を表すのだ。

上手な人の文章は、リズムがいい。読みながら言いたいことがすいすい頭に入って、カチッとはまる。

下手な人の文章は、どうもゴツゴツしていて、なにが言いたいのかわかりづらくて読むのがしんどい。

ときにどこがうまいんだろうかとか、何がダメなんだろうか分析することもある。

とくにダメなものは、ライターや編集者に気になったところを伝えないといけないので、どこに問題があるのかを見つけなければならない。どこが気になっているのか、どこにひっかかりがあるのか、何度も読む。

ある意味これが、こちらにとってもいいトレーニングになる。大量に読まなくてはならないのは、ときに面倒だけど。

選んだ言葉なのか、文の構造なのか、あるいは文体、はたまたそのアイデア、考え方自体なのか。自分だったらどう書くとかいろいろ考えながら問題点を見つけていく。

技術的な問題であれば、指摘して修正してもらえばいいのだが、問題は伝えたいポイントがずれた文章。これはもう、そもそものアイデアや立脚点からの問題なので、残念ながら書き直しということになる。

うまい人の文章でも、ベテランライターでもアイデアが違っていたらだめ。書き直してもらう。彼らの考えを署名原稿でもらう場合は、この限りではないけれど。

ぼくらは生まれたときから日本語に馴染んできた日本語ネイティブであるから、文章を構造的に分解したりとか、品詞を考えるなんてことはしてこなかった。しかし編集仕事をするということはこういうこともちょっと意識しないとならない。まあ、めったにないことだけどね。

これは自分が英語などの外国語を勉強するようになってから気づいたこと。意外なことから新しい学びは生まれるのだ。だから英語に限らず、外国語学習もこれからしっかりやるといいと思う。新しい発見が必ずある。

まれに文章として成り立っていない文章を読まされることだってある。職業ライターや編集者ではない人たちが書いたもの。主語と述語が対応してないものとか。いわゆる日本語になってない、というやつ。

これは長めの文章にありがちだ。異常に長い修飾形容文とか使うもんだから、主語が霞んで述語がマッチしない。

こういうのは、文をいくつかに切り分けて複数のセンテンスに分ければ、すっきりすることもある。

読めない本は途中でやめる勇気を?

読書に関しては、時代小説から国内外文学、人文科学、話題作までなんでも読んできた。いつも二、三冊同時に読み進める乱読派だ。

小説なんかは読むスピードは早い。これはひとつの楽しみであり、暇つぶしであるから新幹線なんかで関西方面に往復なんてときには、行き帰りで文庫一冊。これが楽しい。

家に帰ると、人生に彩りを加えてくれそうな人文科学系の読みかけの本が数冊ある。すこし難しめの本は、ぐいぐい読むというより、一章読んだ後はジムのトレッドミルなどの上で読んだ部分について自分なりに再考する。より理解度が深まり、次に読む章なども理解しやすくなる。

それでも難しすぎて読めないのは、途中でやめる。自分にはまだ早い。無理して読んでもいまのところ時間の無駄だ。もう少し勉強して出直そう。

「酒と女は、読書の敵」という名言を残しているのは『本の雑誌』の発行人の目黒考二さん。そのとおりだと思う。

お酒は頭をぼんやりさせるし、記憶力を低下させる。読んだものが頭に入らないから、暇つぶしとしてはいいけれど、なにかに役立てようという読書には向かない。飲み過ぎて本を読んだ翌日は、その箇所をまた最初から読み直さなきゃならないなんてこともよくある。

女、に関しては説明しなくてもいいですね。

そんなわけで仕事の上でも、それ以外の楽しみとしてでも平均的な人たちよりは読んでいることになる。

とはいえ、ぼくの読書経験なんて貧しいものだ。

荒れた少年時代を過ごした自分としては、小学校の高学年から高校卒業までのいわゆるゴールデンエイジにほとんど本を読んでこなかった。学校にも行ったり行かなかったりだったので、教科書さえ開いてない。教科書はいつもピカピカ。ノートも3年間くらい保ったんじゃないかな。

青春時代に哲学書などに勤しみ、自分を見つめ直したなんて経験はない。

ゴールデンエイジといえば、子供の運動神経が著しく発達する時期のことをいう。この時期に神経系の運動ができたかできなかったかで、後の運動能力に大きな違いが出る。年齢にすると、5歳くらいから12歳くらいまで。

読書にもそんな時期があるのだろうけど、まったくそういう意味では読書音痴かもしれない。

そのセンスのない自分でも編集の仕事を始めたころから、このままではダメだと読み始めた。つまり20代も半ばあたりから。

それまでファッションメーカーで企画と広報のような仕事をしていて、雑誌編集の方たちと付き合いがあって、仕事を離れた後に声をかけられてその仕事を手伝うようになった。ファッションについてはそれなりの専門知識があったので、フリーランスのひとりとして、使うのにちょうど良かったのだと思う。

それまで撮影などの仕事をしていたので、雑誌編集の仕事との親和性はなくもないけど、やはり初めて文章を書いたときは、思うようにはいかなくてかなり時間がかかった。

見開き2ページの原稿を書くのに、それこそ一晩くらいかかったかもしれない。

それぞれの雑誌にはそれぞれのルールと文体がある。しかし原則的なルールはほぼ共通する。例えば禁則処理やアルファベットの字数勘定など。いまはパソコン上で原稿を流し入れているけど、昔はペラという200字詰めの原稿用紙に鉛筆で原稿を書いていた。いま思い返すと、それはそれですごいことである。

禁則処理など知らない自分は、改行後の文頭に句読点を置いたり、カッコの処理がわからない初歩的な間違いを犯す初心者だった。というか学校の作文の時間で習うことかもしれない。しかしそんなことやったことないのだから仕方ない。でもそんなマイナーなミスは、一度指摘されると、二度と間違わない。

難しい言葉を使おうとするとか、なるべく漢字を使いたくなるなどの初心者にありがちな過ちを最初の原稿で指摘されたのは、後の大きな財産だ。

平易に誰もが読みやすい文章を書くのがいいんだと、この仕事に誘われた先輩に教わった。漢字でないと読めない、読みづらいもの以外は、なるべくひらがなに開けと。

しかし始めに教わった原稿の書き方というのはそれくらい。後は自分なりのやり方を模索していくしかなかった。

そこで始めたのが本を読むことだった。

文章の練習は、上手な人の文章を身体に染み込ませることなのだ。

アイラブユーを日本語で

雑誌のような媒体の上に書く文章で、良いというのはどういうものなのだろうか。

一般的に文章を書く上での大事なことのひとつは、何を伝えたいかである。

冗長で伝えたいことがぼやけていたり、主語があいまいで誰が誰に何の行為を施したかがわかりづらいのは、読みづらい。

とはいえ、論文のような理路整然としたものがいいとはいえない。

問いがあり、論議があり、主張があり、そして無駄を省き、感情を抑え、順を追って合理的に説明する。贅肉のない文章というとかっこいいが、そんなゴツゴツしていそうな文章を読むのは、あまり楽しくなさそうだ。

いわゆるぼくらが書くような媒体での文章には、随筆文のようにすこし情緒に寄ったものの方がいい場合もある。情景、印象、描写を比喩的な文で表すことができれば、間接的で柔らかいメッセージになる。そして感情を揺らすような詩的なものであってもいい。

アイラブユーを、月がきれいですねと訳したのは夏目漱石。

こういうアプローチで、広告コピーや雑誌タイトルはできているべきだ。

本文も伝えることにフォーカスしながらも、それをただストレートに伝えるのではなく、こんな風にちょっとした回り道をしながら、ユーモアを交えてなんてやり方ができるようになりたい。

しかしそれは練れた原稿作者の話。初心者は難しいことを考えず、ストレートに伝えたいことを自分の言葉で紡ぐのがいちばんだ。テクニックは遅れてついてくる。

とはいえ雑誌には本を買ってくれる読み手がいる以上、読者を楽しませなければならない。最低限のテクニックはいる。

たいした原稿を書いているわけではないけど、それでも長年この仕事をやってきたいろんなライター、編集者の原稿を読んできたので、気づいた点はいくつかある。主だったものをここにあげようと思う。

・カッコつけない

文章を書き慣れてない人は、構えてしまって身の丈以上なキザな表現や難しい言葉を使おうとする。また自分の文章を読まれるのを、裸を見られるかのように恥ずかしがる人もいる。だから鎧をまとおうとするんだろうね。鎧は脱いでください。平易な文章を心がけよう。二重はまだいいとしても、三重四重否定文は、読みづらいはずがないとは言い切れなくもない。

・リズムがすべて

雑誌原稿でもエッセイでも小説でもこれがすべてだと思う。すいすい読める文章は、間違いなくリズムがいい。翻訳もので読みづらい本と格闘したことがある人も多いと思うが、得てしてリズムが悪かったりする。いたずらに主語が長すぎたり、原文の複文をそのまま訳したりしているからかもしれない。短文にして長短のリズムをつけると、格段に読みやすくなる場合もある。

作家の村上春樹さんも新聞のインタビューで「小説が人をひきつけるいろんな要素の中でリズムは大きい。リズムの滞っている小説は、一部の人が長く読んだり、たくさんの人が短時間読むことはあるけれど、たくさんの人が長い期間、ずっと読み続けることはない」と言っている。リズムは大事。

リズムを生むには何度も推敲。何度も何度も読み返す。リズムがつっかかるところがあればそこがギャップ。パテでスムースに均してください。できれば音読しながら校正する。

参考となるのは、新聞広告などのボディコピー。稀代のコピーライターが書いた原稿。あれはまさに羽が生えたかのような軽やかなリズム。雑誌のリードづくりの参考になる。

・クリシェはほどほどに

言ってはなんだが、文章が安っぽくなる。スポーツ新聞やテレビ番組の原稿などでよく聞くような言い回しなので、使っていいのかと錯覚することがあるが、どこかで聞いた言い回しほど使うときは慎重に。

いわゆるナリチュー、「成り行きが注目される」は、新聞記者の禁止事項と聞いたことがある。いまでもよく見るけど。

ほかにも「◯◯の幕が切って落とされた」とか「◯◯さんの今後が期待される」とか。「この一点は大きいですね」、これはさすがに雑誌じゃ使わないか。

うちの媒体でいつも気になるのは、文頭に長い形容詞+名詞。

「サンフランシスコで1970年に創業し、アウトドア愛好家の中では知らない人はいない◯◯」。体言止めも気になるけど、こういう頭でっかちの名詞形容はなるべく使わないように。「◯◯をひもとく」とかも気になる表現。

あと「◯◯に舌鼓を打つ」、「◯◯が体当たりで演技した」、「◯◯が◯◯を斬る」とか。斬られたら痛いよ。

・やまと言葉、口語表現を使おう

だ、である調、ですます調、文体は媒体や書き手によって様々だが、ときに崩して口語文体を差し込むと親密さが出る。でもこれもリズムが大事。読んでいて違和感があればそれは失敗。無理しないこと。

熟語じゃないと伝わりにくいもの以外は、できればやまと言葉の方が柔らかくて読みやすい。法律書などの専門書は漢語熟語でいいが、肩肘張らない読み物には大げさ。

「熟読した」より「じっくり読んだ」とか。

・客観的記事の中にも書き手の視線を

雑誌記事の主語は、「ぼく」でも「私」という人格でもない。その誌格が主語になる。誰が書こうがこの原則が守られていないと気持ち悪い。

反対がいわゆる署名原稿。こちらはエッセイやら、記事内の囲みコラムやら。それ以外は原則誌格が主語になる。

客観的な視点を持って書くのはいいのだけど、それだと人肌のない冷たい文章になることもある。中の人がいる、と読んでいる人が気づくくらいの体温は文章に含めたい。

・ユーモアは大事

論文ではないので、ユーモラスにすこしばかり話を膨らませてもいいから面白く書こう。嘘はダメだが、多少の誇張は、セーフ。

原稿を書いている最中に、いま書いた文を受けて文末が締められるという気づきが降ってくることがまれにある。この場合、すぐに横に書き出しておいた方がいい。そのままにしておくと、文末に来たときにあれ、さっきのあのオチなんだっけ? と思い出せなくなることが多い。死にたくなる。

・上手な文章をマネる

まったくのコピーはダメだが気に入った、気になった文章があればそれを何度も繰り返し読んでリズムごと自分のものにして、単語や言い回しをすこし変えた文をつくる練習をするのもいい。美術生も模倣から絵を習い始める。

意外と読むだけで身についたような気がするが、実際書いてみるとまたこれも発見があったりするので、実際に書き写すことが大事。般若心経は収監されるまで取っておこう。

・瑞々しい気分を忘れずに

3年ほど前の朝日新聞「声」欄で取り上げられた21歳(当時)の大学生、市原ガブリエラ円さんの「巻き髪のJKは全力で走った」を引く。衝撃、というには大袈裟だけど、素直にいいなと思ったから。

高校3年の梅雨。受験勉強が本格化し、大好きな友と過ごすJKライフは夕暮れを待たずにおしまい。それでも最後の高校生活、「かわいい私」のために1日たりとも妥協はできない。

だから本当に嫌いだった。忙しい朝に30分を費やした巻き髪を奪い去る雨が。できれば毎日、アリアナ・グランデのように巻いた髪にピンクのセーターで登校したい。ママは、特別に強力なヘアキープスプレーを買ってくれたが、雨が降ればアリアナは台無しである。

金曜日は特に晴れてほしい理由があった。塾の担当教師は男子大学生。明るい茶髪といい、香りといい、17歳には超絶な存在だった。

忘れもしないあの放課後。くるんと巻いた髪を両手で包み、雨の弾から逃れるべく全力で走った。が、塾に着いたら見事なストレートヘア。

「あーあ、かわいい状態で会いたかったのに」とぼやきながら席につくと、そのイケメンが衝撃発言をした。「今日は雰囲気違うね」に続いて、「いいじゃん」と。

いい文を書いてやろうなんて構えて書こうと思ったら、こんな文章は書けない。誰にも見せない私的な日記的文章。だから型にはまらない青春の勢いと瑞々しさが溢れている。ぼくは男なのでこの文には共感ポイントが少ないのだけどね。

こんな風に話し言葉的文章で、ときには瑞々しさを演出するということを忘れずに。みんな真面目になりすぎ。こう書けという意味ではないが、この文がこんなおっさんの胸を揺さぶったということを伝えたい。

・表記ルールは守る

どの媒体でも表記のルールはある。あまりにも多くてすべては覚えられないが、基本的なものは一度のミスはいいけれど、二度めからは間違えないようにしよう。¥1,000か1000円か。White Mountaineeringかホワイト・マウンテニアリングか。表記は原則媒体側がルールを取り決める。相手先都合も理解できるが、なるべくこちらルールで。

どんなことにも共通することであるが、やればやるほどうまくなる。弾けば弾くほどギターがうまくなるのと同じように。書けば書くほど文章は上達する。

さて、一年以上にわたり、続けてきたこの連載だが、そろそろ終えようかと思う。内容的にどこがエディトリアル・シンキングなのかわからない、取り止めのない連載になった。当初の予定では、流行りの○○シンキングで、世間の注目を集めようという魂胆だったが、まったくの空振り。

そもそも当社に興味を持つ、リクルーターに向けて伝えようとした連載。ダラダラ続けて一体どの年の卒業生に向けてるのかわからない。

というわけで一旦筆を置きます。また何かの形でお会いしましょう。

PROFILE

蔡 俊行
フイナム・アンプラグド編集長 / フイナム、ガールフイナム統括編集長

フリー編集者を経て、編集と制作などを扱うプロダクション、株式会社ライノを設立。2004年フイナムを立ち上げる。

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